特別な人
リヒトは、腕の中のミアをしげしげと見つめる。彼女の滑らかな眉間に、今は皺が寄っていた。
(具合が悪そう、か)
彼は彼女の台詞を胸の内で繰り返した。苦笑と共に。
さて、その大きな誤解を解くべきか、解かざるべきか。
具合が悪そう。
まあ、確かにそうかもしれない。
吸血の間のミアはさながらミルクを舐める仔猫のようで、とても可愛らしく、同時にこの上なく蠱惑的なのだ。そんなミアに、鉄壁な筈のリヒトの理性の壁が、紙切れ一枚並みになってしまう。
きつく抱き締めて噛みつき返したくなる。あるいは、それ以上のことも。
我慢するのに、かなりの力を要している。
「リヒト?」
だんまりを決め込んでいた彼の名前を、ミアは不満そうに呼んだ。そんな彼女に、微笑み返す。
「ああ、ゴメン。えっと、ミアは、僕以外の血を飲んだことがないんだよね?」
「そうよ」
コクリと頷いたミアは、だから? と言わんばかりの顔をしている。
「他のヴァンピールが吸血するところも、見たことがない?」
「ええ。他のヴァンピールなんて、お父さまたち以外には知らないし」
「そっか」
どうやら彼女は、リヒト以上にヴァンピールのことについては無知らしい。吸血という行為については、特に。
(「あなたに触れたいのだ」と言ったら、いったいどういう顔になるのかな)
吸血されている時、彼が何を思い、何を望んでいるのかを知ったら。
――一口二口と遠慮がちにミアがリヒトの血を飲み下している間、彼が彼女の全てを奪ってしまいたいと切望し、頭の中でその様を夢想しているのだということを、知ったら。
(きっと、速攻で逃げ出すな)
それだけは困る、とリヒトがこっそりとため息をついたその時、ミアがキッとリヒトを睨み付けてきた。
「もしかして、やっぱりまだ死にたいと思っているの?」
唐突にそんなことを言われ、リヒトは目をしばたたかせる。
「え?」
当惑しきりで眉をひそめた彼に、ミアがむっつりとした口調で言う。
「私が、お前の血を飲みつくすとでも思っているの? それを望んでいるの?」
一瞬呆気に取られて、リヒトはマジマジとミアを見つめた。と、怒っているように見えたその青い瞳の奥に、チラチラと揺れる憤懣以外の何かを、彼は見出す。
(これは……)
怯え、だ。
怒りの色に隠そうとしているけれども、確かにミアは、怖がっていた。
(何を、怖がっているのだろう)
リヒトにそんなふうに思われることを、か。
それとも――
リヒトは、ミアを見る。
(僕が死を望んでいることを、か……?)
ゾクリと、背筋が震えた。
ミアは、リヒトの死を恐れている。彼が死を望んでいることを、厭うている。
――怯えるほどに。
リヒトの胸は、彼女を不安にさせてしまったのだという事実に痛み、そして同時に、その奥からジワリと滲みだしてくる喜びに、震えたのだ。
自ずと、彼の唇は笑みを刻む。
「それは無理だね。僕が失血死するまでに、グラス何杯分の血を飲まなきゃだと思う? 僕が死ぬより先に、ミアのお腹がいっぱいになってしまうよ」
おどけるようにそう言って、リヒトはミアの銀色の髪をひと房すくい取る。
「僕のこと、心配してくれてるんだ?」
「当然でしょ。だって、お前は……」
口ごもったミアの目を、嫌がると判っていて、覗き込んだ。
「お前は、何?」
先を促すと、ミアはリヒトを睨み付けてくる。悔しそうに唇を引き結んだ彼女に、彼は笑いをかみ殺した。
「ありがとう。僕に死んで欲しくないんだよね、ミアは」
ミアの視線を絡め取りながらリヒトが手の中の銀髪に口付けると、彼女はプイとそっぽを向いた。そうして、ぼそぼそと言う。
「別に、リヒトだから、じゃないし。誰であれ、死なれたらイヤだもの」
サラリと落ちた銀髪を通して垣間見えるミアの白皙の頬は、今、ほんのりと紅みを帯びている。一瞬チラリと眼が合って、すぐにまた逸らされた。
(ああ、もう)
他の誰にもこんな彼女を見せたくない。
リヒトは、心の底からそう思った。
頭からペロリと呑み込んでこの身の内にしまい込んでしまうか、それが無理なら――実際無理だが――幾重にも鍵をかけた小部屋に閉じ込めて鎖でつないでしまいたい。
(本当に、この世界にミアと二人きりなら、良かったのに)
他の誰かが彼女の存在を知っていることが耐え難い。
どこかの誰かがミアの姿を目にして、声を聴いて、あまつさえ彼女に触れたかもしれないと思うと、胸がむかついた。もしもその『誰か』が判るなら、相手の手を切り落としてやりたいと思うほどに。
リヒトは目を伏せ、一度深く息を吸い、吐いた。そうして、胸の内の波を鎮める。
「残念。僕だから、特別に、って、言って欲しかったな」
努めて軽い口調を心掛け、ミアの顎に手を添え、リヒトは眼を合わせるように彼女を促した。ミアは、いかにも渋々と、という風情ではあるものの、それに応じる。
リヒトは、親指でそっと彼女の唇を撫でた。柔らかなそれは滑らかで、薔薇の花弁を思わせる。その感触に心を奪われながら、リヒトは軽く首を傾げた。
「さっき、どうして僕の血を飲ませるのかって、訊いたよね」
リヒトの問いかけに、ミアはコクンと頷いた。その、幼い子どものような所作に、彼の頬には笑みが浮かぶ。
「僕があなたに血を飲ませたがるのは、あなたにとって特別な存在になりたいからだよ」
「……そんな理由?」
「そうだよ」
微笑み、薄っすらと開かれたミアの唇を、望みのままにそれを貪るさまを脳裏に描きながらそっと辿ったリヒトだったが、続いた彼女の台詞にピタリと固まる。
「なら、必要ない」
「え?」
「私にとって、リヒトは特別ではあるわ」
思ってもみなかったところで台詞を投げられて、とっさには反応できず、リヒトは絶句する。
「えぇっと、そっか……そうなんだ?」
口ごもりながらそう言ったリヒトに、ミアは眉を寄せた。何を今さら、というふうに。
「そうでなければ、ここにいないもの。城を出てから、レオン以外に何日も一緒にいた人なんて、いないし」
レオンハルト。
不意に出てきたその名前に、リヒトの胸がチリリと焦げた。
レオンハルト。
その男が、まさに、ミアにとって『特別』な存在であることは、リヒトも嫌というほど知っている。
彼女はあまり自分のことを話してくれるひとではないから、彼の名前がこの屋敷の中で聞かれることは滅多にない。だが、時折、ふとした拍子にここに来るまでの旅の中でのことを口にすることがあって、そんな時は必ず、「レオンハルトが……」「レオンハルトと……」と、出てくるのだ。
レオンハルト。
ミアがその名を呼ぶとき、そこには必ず思慕の念がある。
笑顔で彼女の話に頷きつつ、それを耳にするたび、リヒトの胸はいつも嫉妬のくすぶりで疼いていた。
「特別、か」
だが、それは、きっとレオンハルトに並ぶほどではない。
ミアとレオンハルトとのつながりは何十年――何百年にも及ぶのだから、その長さでは彼に敵うはずもない。何をどうしたって、二人が過ごしてきたその年月をなかったことにはできないのだから。
それでも、リヒトは、ミアの『特別』になりたかった。レオンハルトよりも――彼女の両親よりも、特別な存在に。
前髪が触れ合うほどの距離で、ミアはリヒトを真っ直ぐに見つめている。彼よりもはるかに長い時を生きているはずなのに、その眼にあるのは幼い子どもを思わせる、無垢さだ。
リヒトは片手を上げて、ミアの頬を包み込む。そうされても、その眼差しは少しも揺らがない。腕の中で華奢な身体は寛ぎきっていて、彼に対する信頼の程が伝わってくる。
それは嬉しく、そして、同時に物足りなくもあった。年月と同様、恐らく信頼も、レオンハルトに勝てるものではないからだ。
ミアの頬を添えた親指でそっと撫でながら、リヒトは彼女に微笑みかけた。
「ミアにとって僕が特別な存在であってくれるなら、特別な相手とだけすることをしてもいい?」
リヒトの台詞に、彼女は訝しげに首をかしげる。
「特別な相手?」
「そう」
どう? と目顔で問いかけたリヒトを、ミアは胡乱げな眼差しで見る。
彼女はしばらくリヒトの心中を推し量ろうとしていたが。
「……いいわ」
そう答え、ミアが頷く。
刹那、リヒトの背筋を悪寒めいた喜びが走り抜けた。
「ありがとう」
かすれた声で囁いて、リヒトは両手でミアの頬を包み込み、滑らかな額に口づける。そうして、細い背中にその手を回し、胸の中へと引き寄せて、彼女の頭の上で口元だけに笑みを刻んだ。




