その理由
これで、何回目になるだろう。
いつものように温室の長椅子で、リヒトの膝にのせられ彼の首筋に顔を埋めかけながら、ミアは眉をひそめた。
最初にリヒトの血を飲んだのは、ひと月ほど前か。あれから、三日と空けず、彼はそれを要求してくるようになっている。
吸血を始めると、リヒトの体温が上がる。それが心地良くて、ミアは無意識に彼の胸に身をすり寄せる。そうすると、その動きに応えるように、彼女の背中に回されたリヒトの腕に、力がこもった。
そうやって、少しきついくらいに抱き締められるのが、ミアは好きだった。普段からリヒトはしばしばミアを抱き締めるけれども、そういう時は、どこか力加減をしているように感じられる。吸血の時の彼にはそれがなく、何というか、ミアは、妙にドキドキするのに、不思議と安心するのだ。
そんなふうにリヒトの腕に包まれて、彼の首の柔らかなところに牙を埋め、ゆっくりと引き抜くと、温かな血潮が溢れてくる。最初の何回かは傷付け方の加減が掴めず、少し強く吸わないと出てこなかった。今は、そういうこともない。
トク、トクと、丁度いいくらいに出てくる彼の血を、ミアは一滴たりともこぼすことなく受け止める。
一度の量は多くない。リヒトの身体に負担になるからというのもあるけれど、吸血は、ミアの身体にも奇妙な反応を起こさせるからだ。
(変な、味)
口の中に満ち、そして喉を滑り落ちていくものにミアが抱く感想は、それだ。
そう、リヒトの血は、けっして美味しくはない。味で言ったら、彼が作ってくれるお菓子の方が、遥かにミアは好きだった。
なのに、少しも美味しくはないのに、どうしてか、飲み始めるとやめられなくなりそうになる。欲しい、という気持ちで頭の中がいっぱいになってしまって、もうひと口、あともうひと口だけ、と、求めてしまいそうになる。
――ミアは、それが怖かった。
三口、四口、五口。
(もう、やめないと)
自分に言い聞かせるようにして、ミアはリヒトの首に刻んだ傷に丹念に舌を這わせる。と、彼がブルリと身を震わせた。
「痛かった?」
答えは判っていても、ミアは、ついそう訊いてしまう。そして、やっぱり、いつもと同じ答えが返ってくる。
「大丈夫。痛くはないよ」
かすれた声でそう言って、リヒトはミアの背中をゆっくりと撫でながら、彼女のこめかみのあたりに口づけた。それも、いつもと同じだ。
ミアはチラリと眼だけでリヒトを見てから、もう少し傷を癒すために再び唇を彼の肌に付けた。
ミアは、リヒト以外に吸血をしたことがない。そのやり方をレオンハルトに教わったこともなかったけれども、どうすればいいのか、概ね解かっていた。どこに牙を突き立てれば良いのかも、どうやってその傷を癒したら良いのかも。
(きっと、本能のようなものなのね)
苦い気持ちで、ミアは胸の中で呟く。
そうやって、吸血という行為を教えられずともできてしまうことが、彼女はイヤだった――やっぱりヴァンピールは、ヒトを喰らうことが生まれつき定められているモノなのだと言われているような気がして。
そう、これは、ある種の『捕食』なのだ。
ミアにとって生きるために必須のことではないけれど、彼女はリヒトから血を奪っている。
自然界の中で、食われることを望む生き物はいないはず。
それなのに。
(どうして、リヒトは私に血を飲ませるのだろう)
疑問を抱くのは、食う、食われるということについてだけではない。
ミアが血を飲んでいるとき、彼の鼓動は速まり、体温も上がる。縋り付くように彼女のことをきつく抱きすくめて、時々、苦しそうに吐息を漏らす。明らかに、具合が悪そうだ。
(もしかして、私が全部血を飲み尽してしまうのを、期待しているの?)
そんなふうに勘ぐってしまうのは、多分、ひと月前のリヒトの台詞が彼女の記憶に根付いているからだ。
『僕はね、子どもの頃は生きたいと思ってはいなかったんだ』
彼は、あの時そう言った。『生きたいと思っていない』と。ミアと逢ってからその考えはなくなったとも言っていたけれど、本当に、そうなのだろうか。
ミアは顔を上げ、傷ひとつ残っていないリヒトの首筋を見つめた。そこはトクトクと脈打っていて、確かに彼が今生きていることを証明している。ヴァンピールははなから持たないもので、ヒトでも、死んだら失われる。
そうなることを、ミアは望んでいない。
けれど、リヒトはどうなのだろう。
(本当は、まだ、いつ死んでもいいとか、思っているの……?)
ミアはその考えが気に入らなかった。
彼がそう思っているかもしれないことも、吸血が、彼のその望みを叶える手段扱いをされているかもしれないことも。
ムゥとしかめ面になった彼女にリヒトはすぐさま気が付き、首をかしげて問いかけてくる。
「ミア、どうかした?」
ミアはシレッとしているリヒトを見つめ――というよりも、睨み付けた。彼のことで彼女が色々と思い悩んでいるというのに当の本人は至極満足そうでいるのが、何となく腹が立つ。
「別に」
プイと顔を背けてそう答えると、すかさずリヒトの手が頬に添えられ、その顔を元に戻された。
「別にっていう顔じゃないと思うけど」
鼻先が触れ合いそうなほどの間近から、彼はミアの目を覗き込んでくる。
「何に怒ってるの?」
「怒ってない」
「じゃ、不満? あ、飲み足りない? あ、僕は大丈夫だから、もっと飲んでいいよ?」
むしろそうしてくれと言わんばかりだ。
「そうじゃなくて!」
ミアはリヒトの胸に両手を置いて、グイと彼を遠ざけた。そのままリヒトの膝から滑り下りようとしたけれど、ミアの腰を支える彼の手がそうさせない。しっかりと彼女を捉えたままのその手を睨みつつ、問う。
「なんで、私に血を飲ませたがるの」
「なんでって……そうだな、あなたのものになりたいから、かな」
少し考え、ニッコリ笑って、彼は答えた。
「血を飲んでも、リヒトが私のものになるわけないじゃない。リヒトはリヒトのもの、でしょう。何をしたって誰かのものにはならないわ」
「そこは、独占欲を抱いて欲しいところなんだけどな」
この上なく残念そうに呟いたリヒトの胸を、ミアは拳で叩く。
「ふざけてないで! 私は真面目に訊いてるの!」
「僕も真面目そのもの、本気そのもの、だよ」
そう応じてリヒトはミアの拳を片手で包み、眉をひそめた。
「手を痛くしなかった?」
この程度で、するわけがない。
「してない」
ムッツリと答えたミアとは対照的に、リヒトが朗らかに笑う。
「良かった」
そう言って、彼は拳に握ったままのミアの手に口づけ、そっと開かせた手のひらに同じことをする。
リヒトの唇が触れたところが妙に熱くて、ミアは手を引こうとするけれど、彼は許してくれなかった。放すどころか、今度は指の一本一本に唇を落としてくる。
貴重で繊細な宝物にでもするような触れ方に、ミアの胸はキュッと締め付けられる。こんなふうにリヒトに触れられると、彼女はいつも同じような感覚に見舞われた。居た堪れないような感じになるのに、ヘビに睨まれたネズミのように身動きが取れなくなる。嫌なわけじゃないけれども逃げたいような気持ちにもなって、そのくせ、それだけでは何かが足りないような気持ちにもなった。
その奇妙な感覚をごまかそうとして、彼女はあまり考えもせず、口走る。
「リヒトは、具合が悪そうになるじゃない」
「え?」
唐突なミアの台詞に眼を上げたリヒトは、いぶかしそうに眉根を寄せた。
「私が血を飲むと、リヒトは具合が悪そうになるわ。なのに、何で飲ませたがるの」
「具合が――って、そんなこと……」
言いかけ、彼はふと口をつぐんだ。そうして、何かを考えこむような素振りになって、ややして、呟く。
「ああ、そうか、そう見えるのか」
独り納得したようなリヒトが、ミアには不満だ。
「そう見えるって、どういう意味?」
訊ねたミアを、リヒトが見る。その眼差しは、答えを告げてもいいものか――それを本当に彼女が望んでいるのだろうかと、決めあぐねているように見えた。




