秘密と恐れと雪解けと②
ミアの中には、まだ、出会った時のリヒトの姿がくっきりと残っている。ヴァンピールにとって十年や二十年など瞬きほどの時間に過ぎなくて、リヒトが今にも死んでしまいそうだったということは、例えなどではなく、本当に、まだ昨日のことのようなものなのだ。
だから、リヒトはとうに幼い子どもではなくなっているというのに、未だに、ミアはこんなふうに彼に『お願い』されるとはねつけられない。
本当に、ミアの正体を知ってリヒトが自分を疎むことはないのだろうか。
そう期待して、良いのだろうか。
気持ちが傾きかけたその時、常に温かだったリヒトの眼差しが冷やかなものに一変する様が、ミアの脳裏に浮かぶ。
(そんなことに、なったら……)
ミアは唇を噛んだ。
彼女の肩が強張ったのを感じ取ったのか、リヒトの腕に力がこもる。
「僕はあなたが何ものでも構わない。僕は、あなたになら、何をされても構わないんだ」
耳に口づけるようにして囁かれるその言葉に、ミアの頭が強く揺さぶられたように感じられた。
リヒトのことを信じたい。
リヒトのことは、きっと、信じても大丈夫。
でも――
ミアは、すぐ目の前にあるリヒトの首筋を見つめる。トクントクンと力強く脈打つそこは、彼女を誘っているようだった。
その誘惑に負けてしまいたい。
けれど、その後に起こることが、怖い。
もしもリヒトの眼が、今までの人たちのように変わってしまったらと思うと、ミアはどうしたらいいのか判らなくなる。
ミアは、今のままが良かった。
今を変えたくなかった。
と、彼女のそんな怯えを聴き取ったかのように。
「お願いだよ、ミア。僕を怖がらないで――僕を疑わないで」
片腕でミアをすくい上げたまま、もう片方の手をミアの頬に添えて、リヒトが言った。
乞うというには切実な響きを持った声に操られるように、ミアの両手が滑る。リヒトの首に両腕を回したミアの腰を、彼は一層引き寄せた。二人の胸がピタリと合わさり、彼女のつま先が宙に浮く。
押し付けられたリヒトの身体は温かく、浸透してくるその熱に、ミアは不安でさざめく胸の奥を撫でられているような心持ちになった。近づいた彼の肌に、彼女はためらいがちに唇を寄せる。
そっとのぞかせた舌先が温かなものに触れたと思った、刹那、ビクンとリヒトの身体がはねた。
ミアはサッと離れようとしたけれど、すかさず彼の手がそれを阻む。
「ごめん、くすぐったかったんだ」
聞こえてきた声は確かに笑いで揺れていて、ミアはホッと小さく息をつく。
「一気にやってもらった方が、良さそうだよ? それとも、手首かどこか、切ってみようか?」
リヒトはそんなことを言ったが、ミアは、彼が自分で自分の身体を傷付けるところなど見たくない。
「必要ない」
短く答えて、ミアは再びリヒトの首筋に唇を寄せる。
触れた瞬間、また彼の身体がピクリと反応したけれど、我慢しているのか、先程ほどではない。
少しばかり、牙を立ててみた。と、それが柔らかなものに沈んでいく感触が、あった。リヒトが小さな呻き声を上げるから、思わずミアはまた身を引きそうになったけれども、彼女の頭の後ろを包み込んだままの彼の手が、そうさせなかった。
覚悟を決めて、ミアはリヒトの肌深くへと、グッと牙を埋め込む。と、彼は潰さんばかりにきつく彼女を抱きすくめ、呻き声めいたため息を漏らした。
(痛い、のとは、違う、の……?)
何だろう、彼のそんな声を聞いていると、ミアの背筋の辺りがぞくぞくするような気がする。
そっと牙を引き抜くと、口中に温かなものが溢れてくる。しかし、傷付け方が浅かったのか、それほど勢いはなかった。
物足りなくて、ミアは少し吸ってみる。と、それがまたくすぐったかったのか、リヒトが身震いをした。よほど我慢しているらしく、いつもよりも体温が高い。それに、重なり合った胸に伝わってくる鼓動も、随分と速かった。
これは、リヒトの身体の負担にならないのだろうか。
そんな心配が頭をよぎって、ミアは傷口に舌を這わせてそれを塞ぐ。その動きにリヒトが深く息をつき、見れば彼はどこか苦しげに固く目を閉じていて、普段はあまり色がないその頬が、紅くなっていた。
(ヴァンピールの吸血は痛みを伴わないはず、よね……?)
レオンハルトからは、むしろ、進んで吸血されたくなるものだと聞いている。つまりそれは、苦痛や不快を伴わないからだと思うのだけれども。
「大丈夫?」
あまり具合が良さそうではなくて、ミアは眉をひそめてリヒトにそう問うた。その声で開かれた彼の目は、猛禽類を思わせる強い光を帯びていた。吸血――捕食したのはミアの筈なのに、その反対に、ミアの方がリヒトに丸呑みにされてしまいそうな……
が、瞬き一つの後には消え失せていたから、ミアの気のせいだったのかもしれない。
「ん? ああ、平気だよ。書物で読んではいたけど……なんていうか、これは、結構くるな」
ブツブツとぼやいてから、リヒトはニコリとミアに笑いかけてきた。
「で、僕の血は美味しかった?」
問い返されて、ミアは彼から眼を逸らす。
「あんまり」
ボソリと、そう答えた。それは正直な感想だ。
(本当に、美味しくは、ない)
けれど。
確かに、味覚としては、リヒトが作ってくれる菓子のように美味しいとは思えなかった。美味しいとは思わなかったのに、胸の中のどこかに温かなものが満たされたような感覚がある。
その感覚を、ミアはもっと欲しいと思ってしまう。
(でも、これは、『美味しい』とは違う。絶対)
ヒトの――リヒトの血を美味しいだなんて、思いたくない。
声に出さずにそう断言したミアに、彼女を抱き締める腕の力を増して、リヒトが言う。
「やっぱり、健康な人の方が美味しいかな」
その声はいつものように穏やかなものなのだけれども、どことなく、鋭いものが感じられる。
怒っている、とまではいかないが。
(不機嫌……?)
ミアは胸の中で首を傾げ、まさか、とかぶりを振る。いまだかつて、リヒトが『不機嫌』になったところなど見たことがない。
「知らない。初めて飲んだから、他と比べようなんてないもの」
「初めて……? そうか、他にはいないのか」
そう呟いたリヒトの声は、先ほどとは一転、やけに嬉しそうだ。そして、ミアをきつく抱き締める。
「ごめん、苦しいと思うけど、少しの間だけ、こうさせていて」
ピタリと重なる胸からは、普段の倍くらいの速さがあるように感じられる彼の鼓動が伝わってきた。
確かに、苦しい。
苦しいけれども、心地良い。
リヒトは――ヒトは、儚い存在だ。
あっという間にミアの前から消え去ってしまう。
それが判っているのに、どうしてこんなにも心の深みに入れてしまったのか。
ミアは小さく吐息をこぼし、彼の肩に頭をのせた。




