つながり①
行かないで、と乞うて、それに応えてくれた腕があった気がする。
温かくて、確かで、馴染んだ腕が。
そう口にしたことはないけれど、ミアは、『その腕』に包まれて眠るのが好きだ。
遥か昔、生まれたときから過ごしてきた城を出てからはレオンハルトとの旅暮らしで、夜は野宿になることが多かった。幼い頃からのことで、毎晩、ミアは防寒と安全のためにレオンハルトの腕の中で眠りに落ちていたけれど、『その腕』は、彼とは全然違う。
レオンハルトの方が大きくて力強いはずなのに、どうしてか、彼のものよりも心地良くて、心が安らぐ。
ミアにとって、睡眠は欠かすことのできないものだ。
純粋なヴァンピールである父は睡眠も食事も要らなかったが、ミアは母の血が強く影響しているのか、食事はなくても大丈夫なのに、眠りは必要だった。ちゃんと睡眠をとらないと、頭がぼうっとしたり、身体が怠くなったりする。
レオンハルトに言わせると、一般的なヒトの睡眠時間よりも長いくらいらしい。よく、赤ん坊のようだとからかわれた。
そんなふうに、身体が必要とするからミアはよく眠るけれども、本当は、眠ることはあまり好きではない。
何故なら、眠っている間は時間が飛んでしまうから。
眠りに落ちる時、目覚めたら何かが起きているかもしれない――ミアが知らない間に、何かが変わってしまっているかもしれないという不安に襲われるからだ。
レオンハルトと旅をしていた時はそれが怖くて、眠るときはいつも彼の広い胸にしがみついていた。それでも、得体の知れない胸のざわつきが完全に消えてくれることはなくて。
けれど、『その腕』に包まれて眠るようになってからは、その不安が和らいでいる気がする。
だからミアは、『その腕』に包まれ、響いてくる鼓動の音を聴きながら眠りに落ちるのが、好きだった。
――好きなのに、今はそれが感じられない。
フッと目を覚ましたミアは、薄暗がりの中で目をしばたたかせた。
ここは、寝室だ。
温室にいたはずなのに、いつの間に戻ってきたのだろう。
(それに、何かおかしい)
ミアのまだぼんやりとした頭が、この場に足りないものに気がついた。
「リヒト?」
名前を呼んでも、返事がない。どうやら、彼女の声が届くところにはいないらしい。
たいてい彼はミアの傍にいて、彼女が呼べば応えてくれる。ミアが目覚める時には特に、だ。リヒトがいないうちにうたた寝を始めても、いつの間にか傍に寄り添ってくれていた。
ふと目覚めたときに、まだぼんやりした頭をもたげると、いつだって、優しく髪を梳く手があるのだ。
「もしかして、私が寝ている間も、ずっと傍にいるの?」
本当に、毎回いるから、ミアはリヒトにそう問うたことがある。すると彼はにっこり笑って言ったのだ。
「寝起きのあなたがキョロキョロと僕を探すのが可愛くて」――と。
「そんなこと、しない」
ムッと眉をひそめたミアに、リヒトは何も言わずに微笑んだだけだった。彼女よりも遥かに年下のくせに訳知り顔をするから、腹が立つ。
けれど、あの時は彼に食ってかかりはしたけれど、確かに、ミアは無意識のうちにリヒトのことを探していたのかもしれない。こうやって彼がいない状況だと妙に落ち着かないから。
いつも、探していると自覚する前に彼が視界に入っていたから、求めていることに気付かなかっただけなのかもしれない。
ミアは、もう少しだけ、声を大きくしてみた。
「リヒト?」
けれど、同じだ。
「リヒト、いないの?」
隣の部屋くらいまでなら届くほどの声で呼んでも、返ってくるのは静寂ばかり。
ピピッと、窓の外の鳥の声が去っていく。
不意に、ミアは不安に駆られた。
(いなくなったんじゃ、ないよね?)
空気の匂いを嗅ぐようにして、リヒトの気配を探る。そして、見えない糸で引かれるように、視線を滑らせた。
遠く、ではなさそうだ。
「庭……?」
呟き、そこへと続く両開きのガラス戸を見つめる。
一人で行くなんて、珍しい。
ハンスの手によって整えられた庭には四季折々の花が咲くけれど、それをリヒトが楽しむことはなかったらしい。
邸に連れてこられてまだ間もない頃、こんなにきれいなのにもったいないと言ったミアに、リヒトは、「貴女の為のものだから」と咲き誇る花よりきれいな笑顔で答えたが。
庭の仕上がり具合からして、一年二年で出来上がったものではない。
あの時は、一体いつから準備していたのだろうと疑問に思ったものだ。
ミアは寝台から下り裸足のままで、リヒトの気配を辿って庭に出た。
まだ日が沈んで間もないのか、空に月は浮かんでいない。ミアは夜目が利くから問題ないが、ヒトであるリヒトにはかなり歩きづらいのではないだろうか。そんなことを考えながら、ミアは足を運ぶ。
この屋敷の庭は広く、手入れをする者は一人しかいないから、庭も森も大差がない。両者を隔てている柵があるからそうはならないけれど、知らぬうちに森まで迷い込んでしまっても、多分、気が付かないに違いない。
足を取られないように雑草が刈り取られている小道を進んでいくと、やがて、途切れ途切れに低い声が聞こえてきた。
(リヒトの声、だけど……他にも誰かいる……?)
ミアは立ち止まり、耳を澄ませてみた。この屋敷で他に男性といえばハンスだけだけれど、彼とは違う。
(誰だろう)
首を傾げつつ、何となく足音を忍ばせてしまう。
「――で……あなたの……です」
まだ姿は見えないものの、先ほどよりも遣り取りがはっきりしてきた。
相手の男性の声はとても低くて、ほとんど聞き取れない。それに応じるリヒトの言葉だけが、ミアの耳に届く。
「そうか。僕は死んだか」
それは確かにリヒトの声の筈なのに、冷ややかで、嘲りを含んでいて、まるでミアが知らない人のもののようだった。




