微睡の中で②
リヒトがミアを求めているということは伝わっているのかもしれないが、きっと、この胸の内の想いまではまだ伝わっていない。だからこそ、ミアはリヒトの目をよそへ向けさせようとするのだろう。
「僕の本当の望みを知ったら、あなたは受け入れてくれる? それとも……やっぱり、逃げる?」
ミアとの間に見えない壁を築かれたままでいるのは、まだいい。
だが、彼女を失うことだけは、できない。
頭の隅に引っかかっているのは、かつてリヒトがミアへの想いの欠片を吐露した時に彼女が見せた翳りだ。吐露してみせたのはほんの少しに過ぎなかったのに、それでもミアは、彼女を想うリヒトに、彼のその想いに、怯えているように見えた。
(何があなたをそうさせる?)
現状維持を第一に考えて踏み込もうとしなかったせいもあるかもしれないが、十年間彼女を見てきても、未だにそこが掴めていない。
十年間でミアについて知ったことは、温もりを得られるものが好きなこと。それに、甘いものが好きなこと。
ただ、それだけだ。
リヒトがミアの髪を弄んでいるうち、不意に彼女がクルリと寝返りを打つ。目覚めたのかと彼は手を止めたが、そうではないようだ。寝ぼけて、んん、と小さな声を漏らすのが、なんとも愛らしい。まさに食べてしまいたいというところだ――いわゆる捕食とは別の意味で。
リヒトは長椅子から落ちてしまった彼女の手を取って、そっと指先に口付けてから顔の傍においてやる。そうして、穏やかな寝顔をしげしげと見つめた。
(この人は、いったい、何歳なのだろう)
寝ている時のミアの表情は柔らかく、その分、あどけなく見える。
彼女の種族としては、何歳くらいに相当するのだろう。
年月としては、きっと、百年くらいは軽く生きているのではないかと思う。
ミアと出逢ってから二十年、そして、彼女がここにきてから、十年。
最初に「出ていきたかったら出ていく」と明言しつつ、十年が経った。ヒトであるリヒトにとってはとても長い時間でも、ミアにとっては昨日かそこら程度の感覚なのかもしれない。
二十年前には充分彼女が『オトナ』に見えていたが、彼自身が二十も後半になった今になってみると、せいぜい十七、八程度にしか見えない。
こんな、少女の姿で。
寂しい思いやつらい思いは、していなかったのだろうか。あのレオンハルトは、どういう『保護者』だったのだろう。
「僕のところに来ているとき以外は、どうしていたの?」
リヒトは、答えは期待せず、低い声で囁いた。ミアが寝ているからではない。目覚めていても、きっと答えてはくれないだろうからだ。
つい先ほどの短い会話の中で、ミアは、リヒトはここで孤独だと言った。
そう思うのは、彼女自身が孤独というものを知っているからだ。
それは、彼女が孤独に身を置いていたからなのか、それとも、彼女は孤独ではなかったからその寂しさをつらいものだと思っているからなのか。
リヒトは、正直、自分を取り巻くこの状況をつらいとも寂しいとも思ったことがない。多分、家族や使用人、そういった他者に対して何も期待していないし彼らを必要ともしていないからだろう。
親に関しても、幼い頃は彼らが送ってくる金が必要だったかもしれないが、十をいくつか越えた頃からその金をもとに投資をするようになって、彼自身の資産もずいぶんと膨らんだ。今となっては、親との間に金のつながりすら必要がなくなっている。
リヒトには、ミアさえいればいい。
ミアにとっては、この屋敷内での日々よりも外の世界の方が良いものなのかもしれない。だからこそ、リヒトにもそれを勧めるのかも。外に行けばリヒトの視野が広がり、ミアの手など必要としなくなるだろうと、思っているとか。
そう思うと、リヒトは余計に外になど行きたくなくなる。
外の世界に出ていき、リヒトがミア以外に眼を向けるようになれば、彼女はどうするか。彼のもとを去っていくのだろうか。だが、ミアがいなければ、リヒトは孤独どころか絶望に陥るだろう。
ミアを失うくらいなら、この閉じた世界の中で、彼だけが彼女を甘やかしていればそれでいい、その方がいいと、思う。
リヒトはミアの頬にかかった銀髪を指先でどけてやる。そうしてその手を見つめた。
大人の、手だ。
これはやがて老人の手になる。
このままずっとこの屋敷に閉じこもったままでいても、いずれ自分がいなくなった後、ミアは再び旅に出る。いや、その前に、いなくなるかもしれない。
リヒトは、毎朝、目覚めた時に腕の中に彼女がいることに安堵する。そして時折、本当に彼女を鎖でつないでしまいたい衝動に駆られた。あるいは、鳥籠を作って閉じ込めてしまいたい衝動に。
そうせずにいるのは、ミアの心も欲しいと思っているからだ。無理やり閉じ込めてしまっては、きっと、それは永遠に手に入らない。
のんびり構えてミアの想いが変化するのを待ってはきたが、彼女とリヒトとでは、時間の流れが違い過ぎる。
結局、ミアの『正体』もまだ教えてもらえていないのだ。
単にそうする必要がないと思っているだけなのか、リヒトには教えられないと思っているからなのか。
前者であればまだしも、後者であればリヒトは少々落ち込む。
ミアのリヒトに対する感情は、二十年前とまるで変わらない、というわけではないはずだ。そして、彼女にとっては些細な時間だろうとはいえ十年間ここにいてくれたからには、リヒトに対して何某かの想いはあるはず。
「そろそろ、潮時かな」
少しばかり押してみる、頃合いの。
十七歳ではまだ早かったが、二十七歳ならば色々と融通も利くようになる。ミアの庇護者としても丁度良い頃合いではなかろうか。
気付けば温室の中に射し込む日差しは傾きかけていて、リヒトは起こさないように細心の注意を払ってミアを抱き上げる。頭を彼の胸に擦りつけるようにして腕の中で丸まる彼女は小さくて、とても愛らしい。
そっと額の辺りに唇をかすめさせてから、リヒトは歩き出した。




