微睡の中で①
「リヒトがいいなら、別にいいけど」
ちょっと拗ねたように、だが、どこかホッとしたようにそう言ったミアは、リヒトに背を向けて丸まってしまった。リヒトはそんな彼女に苦笑する。
(本当に、僕はこのままがいいのだけどな)
別に、この屋敷に留まることにはそれほど執着していないが、外に出て行けば、否が応でもミアを他の人間の目に晒すことになるのだ。彼女が他の者と言葉を交わし、あまつさえ、触れられることもあるかもしれない。
(そんなの、絶対に許容できない)
むしろ、第三者の介入など、どのような手を使ってでも阻止したいくらいだというのに。
ミアと出逢ってから、二十年。
リヒトは二十七歳になった。未だ高く見積もって十代後半が良いところにしか見えないミアに対して、彼はもう心身ともに立派な大人だ。
しかし、どうもミアは、これほど外見が逆転してもまだリヒトが幼い子どものままに思えているようで、彼からするとまるで見当違いのことを、心配している。
(僕が本当に望んでいることを伝えても、叶えてはくれないくせに)
内心、リヒトはため息を禁じ得ない。
本当の望み――それは、未来永劫、彼女と共に在ること。それを叶えることができる身になれること。
先ほどもそうだったし、今までもそうだった。さりげなく彼がそれを口にすると、ミアの心の中に鎧戸が下ろされるのが目に見えるようなのだ。
「まったく、僕よりもあなたの方が、遥かに幼いよね」
囁いても反論がない。
リヒトは流れる清水のように長椅子から垂れている銀髪をすくい取り、口付ける。それでも反応がないところを見ると、多分また眠りに落ちたのだろう。
警戒心があるのかないのか。
リヒトは声に出さずに笑う。
本当に、ミアは幼い。リヒトよりも遥かに長く生きているのだろうに。
十年前に共に暮らし始めて判ったが、ミアはとてもよく眠る。そして、それ以外のことは、しない。
ヒトであるリヒトの生活に合わせてくれているのか、元々そうなのか、朝起きて、夜眠る。幸か不幸かリヒトに――男に対して全く危機感は抱いていないらしく、最初の晩に同じ寝台で眠るのだと言ったら、何の抵抗もなく受け入れてくれた。体温が低い彼女にはリヒトの体温が心地良いようで、抱き寄せると身をすり寄せてくるし、先ほどのようにかなり親密に触れても拒まない。
そしてまた、眠るのと同じくらい、風呂も好きらしい。
多分、温かいのが良いのだろう。
厄介なのは、しばしば、風呂に入ったまま眠り込んでしまうことだ。遅いなと思って浴室を確かめると、たいてい、ミアは舟をこいでいた。微睡むミアを、何度湯の中から抱き上げたことか。
溺れて死んでしまうようなことはないのだろうが、顔の半分が湯に浸かりかけているところを発見すると、未だに肝が冷える。いっそ一緒に入ってしまおうかと何度も思ったが、流石にそれは理性がもたないので断念する。
(あの男、レオンハルトと過ごしていた頃も、こうだったのだろうか)
――想像するだに、かなり胸がむかついた。
あの大男は純然たるミアの保護者で、それゆえに、彼女もそういう無防備なところを平気で晒していたに違いない。
レオンハルト相手に嫉妬は抱くだけ無駄だと百も承知だが、絶対に不可能なことだと理解しつつ、彼女が幼い頃から傍にいられたら良かったのにと心底から思う。
そして、睡眠や風呂は好む一方、ミアはいわゆる食事は摂らない。だが、どうやら甘い物は相当に好きらしい。
当初、食事を口にしないミアがどうにも不安で、リヒトはあれやこれやを試してみたのだ。甘い物や辛い物、東の料理に西の料理。世界各地を旅してきたというから、本を取り寄せ、リヒト自身の手で色々と。
家政婦が作った物にはさっぱり手を出さなかったミアだが、リヒトが作ったのだと言うと、眉間にしわを寄せながらも口にした。いかにも渋々という風情ではあったが。
そうしているうちに、どうやらミアはそもそも食べる必要がないらしいと悟ったのだが、唯一、甘い物だけは表情が変わることにリヒトは気がついた。特に、クリームを用いた物が好みらしく、ひと口運んだ瞬間眉間のしわが消え、若干頬が綻ぶ。量は多くないが、明らかに、他の料理の時とは反応が違う。
ミアのその様がとても可愛らしくて、連日作っているうち、リヒトは随分と菓子作りの腕が上がってしまった。
今では、リヒトは家政婦が用意した食事を摂り、その前でミアはリヒトが作った菓子を食べるようになっている。彼女が美味しそうに食べるさまを眺めるうち、リヒトの食事量もずいぶんと増えてきた。
そして、食べる分だけ体力もついたのか、身体を鍛えるための運動ができるようになり、ヒョロリとしていた体格もずいぶんとしっかりしてきた。今の彼を見て、両手の指でも足りないほど死にかけたのだと思う者はいないだろう。
幼い頃は、ただただミアの背に追いつき、追い越したかった。
やがて、単に大きくなるだけでなく、力も欲しくなった。
ミアを守れるだけの、力が。
彼女の為に、彼女の為だけに、リヒトは知識を蓄え、力を蓄えたのだ。
「僕の何もかもがあなたの為にあるのだと、あなた故にあるのだと……多分、解かっていないよな」
囁き、リヒトは苦笑した。
彼は、ミアといたいから生きてきた。
生きることを望んだのは、ミアがいるからこそ、だ。
リヒトの人生は彼女と出逢った時から始まり、彼女と出逢ったことから始まったと言っても過言ではない。
それなのに、時折ミアは、先ほどのようなことを口にする。外に出たいとは思わないのか、街の中で、人の中で暮らしたいと思わないのかと。
どうやら、彼女はリヒトに『真っ当な人としての生活』とやらを送らせたいようだった。彼は露ほどもそんなことなど望んでいないというのに。
リヒトにはミアがいれば良いし、今いる使用人たちですら、邪魔だと思うくらいなのだ。
この小さな世界の中ではミアを見るのはリヒトだけで、ミアの声を聴くのはリヒトだけで、ミアに触れるのもリヒトだけ。
どうして幸せなこの日々を手放せよう。




