月日は流れて
温室に備えられた長椅子でまどろんでいたミアは、目蓋に射す日差しに微かな翳りを感じて目を開ける。
「こんなに日差しが強いところで寝ていたら、火傷してしまうよ?」
真上から覗き込んできてそう言ったのは、リヒトだ。彼はミアの髪をひと房すくい、唇に触れさせる。
「いいの、気持ち良いから」
ミアは寝返りを打って彼から髪を取り戻し、丸まった。そんな彼女に、リヒトの笑いを含んだ声が届く。
「あなたは、本当に寝るのが好きだな。猫みたいだ」
「他にすることもないんだし、いいでしょ」
ブツブツと呟いて、ミアは今度は頭を抱え込むようにして耳を塞いでしまった。
「仕方がないなぁ」
呆れたような台詞でも、そこにはやっぱり笑いが含まれている。余裕に満ち満ちたその忍び笑いに、ミアはムッと唇を引き結ぶ。
(ヒトって、ホントにあっという間に変わってしまうんだから)
それは嫌とかどうとか以前の問題で、単純に、ミアはついていけないのだ。
このリヒトは、出会った頃の彼とは全然違っていた。
背はミアよりも頭一つ分以上も高くなってしまったし、レオンハルトのような筋骨隆々さはないものの、ひょろりと繊細そうだったところは欠片も残っていない。穏やかな笑みを絶やさないのは変わらないけれど、仔犬のような可愛らしさもなくなってしまった。
決して今のリヒトが嫌だというわけではないが、ミアは、そう、複雑な心境だった。
衣擦れの音がしてリヒトが長椅子の横に座り込んだのが判ったが、ミアは目を開けずに背を丸める。と、彼がゆっくりと彼女の頭を撫で始めた。それこそ猫にでもするような扱いだけれども、大きな手で髪を梳かれるのは心地良く、ミアはされるがままで小さく吐息をこぼす。
リヒトはかすれた声で笑いを漏らしつつ、手を止めることはしなかった。ミアが、そうされるのが好きだと知っているからだ。
多分、リヒトがミアについて知っていることは、それ以外にもたくさんあるのだろう。
――ミアがリヒトの屋敷で暮らすようになってから、そろそろ十年ほどになるか。
この屋敷にはリヒトの他に四人の使用人がいる。彼がここに連れてきたときから、皆、ミアのことは見て見ぬふりだった。というよりも、主であるリヒトのことにすら、関心がないように見える。淡々と作業だけこなして、まるで、屋敷そのものが食事を作ったり、風呂を沸かしたり、掃除をしたりしているようだ。使用人同士では普通に会話を交わしているところは見かけたけれど、リヒトと彼らの間でいわゆる雑談をしているところはついぞ見たことがない。
奇妙なのは、使用人たちの態度だけではなかった。
(ヒトって、群れで生きるものではないの?)
リヒトと暮らし始めて早々にミアの頭に浮かんだのは、そんな疑問だった。
ここでの生活は、一言で表せば、『閉ざされて』いる、だ。
定期的に食料や日用品を届けに来る者はいるけれど、それだけだ。彼の家族を含め、リヒト個人に用があってくる者はこの十年間多分一人もいなかったし、リヒトがどこかに出かけることもない。他者との交流というものが、皆無なのだ。その上使用人も素っ気ないとくれば、ミアが来るまでのリヒトはいったいどうやって暮らしていたのだろうと首を傾げたくなってしまう。
それに。
(リヒトの家族って、どうしてるんだろう)
一度、リヒトから両親は健在だと聞いたことはある。あと、弟が一人いるということも。
けれど、その両親と弟がここを訪れたことはなく、多分、手紙も届いたことがないのではないだろうか。
レオンハルトに連れられてあちらこちらを旅していた間、ミアは様々な村や街に立ち寄った。
国が違えば文化も風習も違う。けれど、たいていは、子どもは親に甘え、親は子どもに優しい声をかけていた。そうされないのは、孤児院の子どもたちくらいだ。
そしてまた、普通、ヒトには家族以外にも友人とかそういうものがいるはずだ。ヒトには、仲間というものが必要なはずなのだ。一か所に長くとどまることがなかったミアでも、そのくらいは判る。ヒトはヒトの中で生きるものだということくらいは。
(でも、リヒトは違う)
――こんなにも独りで生きている人間を、ミアは知らなかった。
(リヒトが私にやたらと懐いたのは、そのせいなの?)
ミアはウトウトと微睡ながら、幼い頃のリヒトを思い出していた。あんなにミアに会いたがったのは、他に誰もいなくて寂しかったからだろうか。
(だったら、この屋敷を出て街に住むようにしたら、どうなる?)
接する者がミアしかいなかったから、リヒトはミアに懐いた。
ならば、ヒトがたくさん住む場所に行って、もっと人と触れ合ったら、ミアなど要らなくなるのかもしれない。
そう思った瞬間、ミアの胸はズクリと疼いたが、それは奥へとしまい込む。多分、それは、表に出してはいけないものだ。
(私が誘ったら、リヒトは外に出るだろうか)
確かにリヒトは病弱だが、ミアが血を与えていさえすれば、人並みの生活を送ることができるはずだ。街中で、ヒトの社会の中で生きていくことが、できるはず。
そう、提案してみようか――そう、提案するべきだろうか。
本来、ヒトはヒトの中で生きていくべきなのだから。
けっして、ミアのような化け物とではなく。
リヒトのことを思うなら、たとえどれほど心地良くても、このままでいてはいけない――はずだ。
そんなふうに思いを巡らせていると、リヒトがサラリと彼女の髪を後ろに流し、露わになった耳たぶにそっと口付けてきた。そこを幾度かついばんでから、彼の唇は首筋に移っていく。
「リヒト」
目を閉じたままで呼びかけると、うなじに触れていた唇が微かにピクリとはねて、止まった。
「何だい?」
リヒトは唇の代わりに指先で、ミアの耳の後ろの辺りを優しくまさぐってくる。くすぐったいなと眉根を寄せて、ミアは首だけでリヒトを振り返った。
「お前、ここから出たいと思わないの?」
「ここから? いいや?」
いかにも、そんなことは頭の片隅にすらなかった、という風情の声だ。
「どうして突然そんなことを?」
問い返されて、ミアは起き上がった。
「ヒトは群れで生きるものでしょう。でも、ここは、そうじゃない。お前は――孤独だわ」
リヒトは、目をしばたたかせている。そして、ふわりと微笑んだ。
「ああ、まあ、確かに、以前はそうだったね。でも、今はあなたがいる」
「私は――私は、お前の『仲間』ではないわ」
ミアは、リヒトの仲間にはなれない。
それを告げる時、彼女の喉は、何かが引っかかったような感じになった。小さく咳払いをするミアに、リヒトは微かに笑う。
「『仲間』か。じゃあ、僕をあなたの『仲間』にして欲しいな」
リヒトがサラリと投げてよこしたその台詞に、ミアは身を強張らせる。
それは、どういう意味だろう。
(私がヴァンピールだから? 私がヴァンピールだということを、知っているの?)
以前にミアの正体に言及した時、リヒトは彼女のことをヘクセだと思っているように言っていた。
けれど、ヘクセもヴェアヴォルフも、ヒトを眷属にする力はない。そうできるのは、ヴァンピールだけだ。
口をつぐんだミアにリヒトは一瞬キラリと目を光らせて、微笑んだ。
「何て、ね。ミアは僕の大事な家族だ。今の僕は、孤独なんかじゃないよ。あなたさえいてくれれば他には何も要らないって、いつも言っているだろう?」
リヒトは手を差し伸べてミアの頬を包み込むと、そっと唇を重ねてきた。
彼の手は大きく、温かく、触れられるととても心地良い。
先ほどのリヒトの台詞で冷えた心が、ふわりと温められる。
こんなふうに彼に触れられるのが、ミアは好きだ。
触れられていると、全て――自分がヴァンピールであることも、彼とは生きていけない存在であることも、忘れてしまいそうになる。それが、どうでもいいことのように思ってしまいそうになる。
けれど、それは錯覚だ。
ミアはリヒトの手に身を委ねたくなるのをこらえ、少しばかり彼から距離を取る。
「リヒトがいいなら、別にそれでもいいけど」
ボソリとそう言うと、リヒトは愉しそうにニコリと笑った。愉しそうに、そして、どこか意地悪そうに。
「うん、僕は、今のままがいいんだよ。心の底から、そう思ってる。少しばかり、物足りないところはあるにしてもね」
ミアは反論しようと口を開けかけ、結局言葉が見つからず、閉じる。
ムッと唇を引き結びつつも、今のままでいいというリヒトの台詞にホッとしている自分がいることに、気付かないわけにはいかなかった。




