牽制という名の化かし合い①
「わかったわ」
「え?」
端的かつ明確な一言に思わずリヒトは間の抜けた声を漏らし、ミアの肩に手を置いて身を離す。まじまじと彼女の顔を見ると至極不服そうではあった。
ミアはチラリとリヒトを見てから眼を逸らし、ムスリと繰り返す。
「リヒトと、行くわ。でも、出ていきたくなったらすぐに出ていくから」
「本当に?」
目と口をあんぐりと開けてそう問い返してしまったリヒトを、ミアが睨み付けてくる。
「信じないなら、いい」
そう言ってグイとミアがリヒトの胸を両手で押しやろうとするから、彼は慌ててかぶりを振った。
「いや、信じる、信じるよ。すごく、嬉しい」
幼い頃に戻ったように声が弾む。
あの脅しで効果があったということは、多少なりとも、ミアの中にリヒトに対して想いがあると期待して良いのだろうか。
(それとも、単なる暇つぶしか……?)
いずれにせよ、リヒトにとってはどちらでも良いことだった。ミアが共に来てくれるのならば、理由などどうでもいい。
リヒトはすくい上げるようにしてミアを抱き上げた。
「ちょっと、リヒト!?」
声を上げ、ミアがリヒトの肩を掴む。そんな彼女に満面の笑みを返した。
「早く、帰ろう」
あの屋敷に対して『帰る』という言葉が浮かんだのは、初めてだ。リヒトにとって、これまであの場所は単なる寝る場所、食べる場所でしかなかった。だが、ミアがいるならそこはきっと寛ぐための居場所になるだろう。
早速歩き出そうとしたリヒトに、彼の肩に手を置いて身を起こしたミアが声を上げる。
「ちょっと、待って!」
「何?」
「今すぐ? 今、行くの?」
「うん」
せっかく頷いてくれたのだから、これ以上考える隙は与えたくない。
「大丈夫、身一つでいいから。必要なものがあればいくらでも手配するよ。何でも言って?」
金ならある。金であがなえるものならば、いくらでも望みは叶えてやれるだろう。
ミアが傍に留まってくれるなら、どんなことでもする。いや、むしろさせて欲しい。
微笑みながらリヒトは説いたが、ミアは抵抗を止めず、グイグイとリヒトの肩を押して下りようとする。
「や、そうじゃなくて――」
「そう。そうじゃない」
不意に割って入ったその声は、ミアのものともリヒトのものとも違う、朗々と響き渡る低音だった。
ミアを抱えたままクルリと真後ろに向き直ると、長身のリヒトでさえも見上げるような巨漢が腕を組んで立っていた。上にだけなく、横にもかなりの嵩がある。とは言っても、脂肪ではなく筋肉で、だ。リヒトなど指先で捻り潰してしまえるだろう。輝くような黄金の髪に、血の色そのものの深紅の瞳が強い印象を残す。
「レオン」
ミアが呟くように名を呼んだ。
(やっと、姿を見せたか)
リヒトは微かに目を眇めてその大男を見返した。
ミアと逢うとき必ず近くに潜んでいたその存在には、リヒトもだいぶ前から気付いていた。姿はなくとも、彼を威圧するその気配は、絶えずあったから。
(陽の光を浴びても大丈夫ということは、ヴァンピールではない……? それとも、やはり伝承の方が間違っているのか?)
少なくとも、ヒト、とは思えない。
並外れた体躯もだが、何より、男が身にまとう気配がリヒトにそう確信させる。
「保護者に無断で連れていかれるのは、ちょっと困るんだよな」
のんびりとした声とは裏腹に、リヒトに向けられた紅い瞳は彼を射抜かんばかりの光を発している。ほんの一瞬でもそれに怯む気配を見せたら、即座に腕の中のミアを奪われそうだ。
知らず、リヒトの腕に力がこもる。
男のその台詞に異議を申し立てたのは、ミアだ。
「保護者じゃない。子ども扱いしないで」
そんなふうに言ったら余計に子ども扱いされそうだけどとリヒトは思ったが、声には出さなかった。代わりに、男に向けて笑顔を作る。
「挨拶が遅れました。僕はリヒトです。あなたは?」
男はわざとらしいほどしげしげとリヒトを眺めてから、眉を片方持ち上げた。
「俺はレオンハルトだ。ミアのことは生まれる前から知っていてな、そいつの親から色々頼まれてるんだよ」
「それは、失礼しました。もっと早くにお会いできていれば良かったのですが」
暗に、姿を見せなかった方が悪いと臭わせて、リヒトはニコリと笑った。
レオンハルトは顎を上げ、鼻先から見るようにリヒトのその笑顔を見た。彼の顔中にはいけ好かないとデカデカと書かれているが、お互い様というものだ。
リヒトがミアと逢えるのは、一年のうちの一日だけ。つまり、残りの三六四日はこの男といるということになるのだ。そんな相手にどうやっても好意など欠片も抱けない。
そんな心の声がしっかり伝わっていると確信しつつ、リヒトは微笑みを保ちながらレオンハルトを見返した。
ややして、レオンハルトがリヒトのその笑顔からミアに目を移す。
「相ッ当に胡散臭いやつだけど、本当についていくのか? それ、絶対ぇ見た目通りの人畜無害じゃないだろ」
疑わしげにそんなことを言うレオンハルトに余計なことをとリヒトは眉をしかめたが、続いたミアの擁護に一転気を良くする。
「リヒトは胡散臭くなんてないわ。素直な良い子よ」
子ども扱いはやや不服だが、変に警戒されるよりはいい。
「ありがとう、ミア」
圧倒的満足感と共にそう言うと、彼女はホントのことだからとか何とか、呟いた。不満なのはレオンハルトだけらしく、彼は肩をすくめる。
「良い子、ねぇ……まあ、いいけど。取り敢えず、そいつに変なことしたら殺すからな?」
レオンハルトの顔にあるのは形としては笑みではあるが、牙を剥いた獣のようにしか見えない。
が、リヒトはシレッと答える。
「『変なこと』なんて、しませんよ」
リヒトがするのはミアが求めることに対してのみだ。
まあ、彼が求めることをミアに求めさせる為に、最大限の力を注ぐのはやぶさかではないが。
胸中を押し隠しつつにこやかに答えれば、返されたのはため息だ。レオンハルトは諦め混じりの眼をミアに向ける。