夢と現実
仔猫は、すっかり安心しきった様子でリヒトの膝の上で丸くなっている。
そっと撫でた華奢な背中は上質の絹でも敵わないほど滑らかで、その中に指を潜らせると柔らかく温かな肌があった。
仔猫は、触れるリヒトをうっとうしそうな眼差しで見上げてくる。リヒトが今まで見た中で一番綺麗な青い瞳が愛らしい。
リヒトは仔猫の頬を包み込み、喉をくすぐった。銀の仔猫は、彼のコロコロと喉を鳴らしている。
(彼女も、こんなふうに僕の手の中に納まってくれていたらいいのに)
そうしたら、いつだって彼女を慈しんで大事にして甘やかして、守っていてあげられる。離れている間の彼女のことを案じることもなく。
そんなふうに思った瞬間、仔猫が消えた。
代わりに、リヒトの膝の上にのっているのは。
束の間息を呑み、ためらいつつも、彼は細い背中に両手を回した。引き寄せると、艶やかな銀髪が頬に触れた。
リヒトは首を捻り、その銀の流れに唇を押し当てる。鼻腔を――記憶をくすぐる微かな香りは、彼女のものだ。
これは、夢。
現実では絶対に起こり得ない。
指先でそっと彼女の髪をどけると、愛らしい耳が現れる。リヒトは形の良い縁を辿り、柔らかな耳朶に触れてみた。
本物の彼女も、こんなふうなのだろうか。
リヒトは、彼女の手にしか、触れたことがない。華奢で繊細で柔らかかったけれども、きっと、それとは違うのだろう。
夢だというのに脳に深く刻み込まれた記憶がもたらす感覚と、彼女に対する執着が作り上げる想像が、入り混じる。
抱き締めると、彼女は、まださして大きくもないリヒトの腕の中にすっぽりと納まった。それほどに、彼女は華奢なのだ。
胸が切なく締め付けられて、力いっぱい抱きすくめてしまいたくなるけれども、彼女に苦しい思いはさせたくない。たとえこれが夢だとしても。
リヒトは手を滑らせて彼女の顎を持ち上げる。
その面は、記憶に残るミアそのものだ。青い瞳が真っ直ぐにリヒトを見つめ、薔薇の花びらにも似た淡い紅色の唇が薄っすらと開いている。
小振りだけれどもふっくらとしていて、艶やかで。
彼女の唇は、何かの果実のようだ。
(触れてみたい)
欲求が脳裏に閃き、リヒトはそれに――彼女の唇に引き寄せられるように、フラフラと頭を下げる。
触れ合う直前で、リヒトは一瞬ためらった。
これが夢だという自覚はある。
夢なのだから、彼の好きにしてもいいはずだ。
そう思っても、それでも、彼は彼女に触れることを、束の間ためらった。
しかし、結局。
リヒトは、もう少しばかり、彼女の顔を仰向けさせる。
鼻先が触れ合うほどになっても、彼女の吐息は感じられない。
当然だ。
これは、夢なのだから。
――夢なのだから、何をしようとリヒトの自由だ。
その台詞を、免罪符のように繰り返す。
そして、ついに、リヒトの唇が彼女の唇に重なった――かどうか、判らない。
そうなった、と思うと同時に、リヒトの目が開かれ、燦々と朝日が注がれている寝室の天井を見上げていたから。
(ああ、クソ。目が覚めたのか)
リヒトは起き上がり、クシャリと髪を掴んだ。
どうせなら、口づけくらいはさせて欲しかった。
はぁ、と大きく息をつき、寝台から下りる。床に足が付き、立ち上がったところで、扉が叩かれた。
「入れ」
その一言で、リヒトの朝の身支度の為にメイドが姿を現した。
「おはようございます」
彼女は一礼し、リヒトの元へやってくる。そうして、いつものように着替えを寝台の上に置き、いつものように彼の服に手をかけた。
黙々と作業をこなしていたメイドだったが、リヒトの寝衣を脱がしたところでふとその手を止める。
「リヒト様、昨日で十五になられましたよね」
メイドは這わせるようにして広げた手のひらをリヒトの胸に押し当てる。
「そうだね」
馴れ馴れしいその所作に内心で眉をひそめながら、リヒトは頷いた。彼女の手は不快だったが、それはおくびにも出さない。感情を隠す仮面は、もう標準装備になっている。
「十五歳と言えば、もう大人の仲間入りですわ」
彼女はリヒトの耳元に唇を寄せ、囁き声で言いながら、ツッと彼の肌に指を滑らせた。きつい香水の臭いが鼻を衝く。
香水は使用人の手が届くような物ではない。しかもこんな田舎にいながらにして入手するのは困難だ。きっと、日用品の請求の中に紛れ込ませているのだろう。
生活の為の資金は、どうせ親の懐から出ているものだ。それを誰がどう使おうが、リヒトには関係ない。
数年前から始めた投資で、リヒト個人の資産は別に貯えていた。ミアには、他人のものではない、自分自身の力で手に入れたものを与えたかったから。
「大人になられたリヒト様に、私、お手伝いできることがあると思うんです。本当は、昨晩お話したかったんですけど、リヒト様、お出かけでしたから」
上目づかいでリヒトを見上げ、ニコリと婀娜っぽく微笑んだメイドに、彼はその意図を悟る。
(なるほどね)
十五歳、つまり、社会的には成人だ。そうなると、色々変わることがある。
そう言えば、ひと月ほど前からメイドの態度が微妙にこれまでとは違ってきていたような気はしていた。たとえるならば、ジワジワと狙った獲物との距離を詰めていく獣のような。
メイドの秋波をリヒトは冷やかな眼差しで受け止める。彼女が何を提供しようとしているのかは、その目つきと手つきで察せられる。
リヒトは無言で彼女を見下ろした。
逆三角形の輪郭に大きな目、豊かな胸とは対照的なくびれた腰は、どこか蟷螂を思わせる。しようとしていることも、似たり寄ったりなのだろう。
(まあ、いいか)
書物で得られること以外の知識を手に入れられる、いい機会だ。
「何を手伝ってくれるのかな?」
無邪気を装いそう問いかけたリヒトに、メイドは舌なめずりせんばかりの笑みを浮かべて身をすり寄せてきた。




