この世界で唯一の
また、長い一年が始まる。
リヒトは背中に注がれるミアの視線に振り返りたくなるのをこらえつつ、屋敷への道を辿った。
彼女をこの腕に抱え上げ、問答無用で屋敷に連れ帰り、鍵をかけて閉じ込めてしまえればいいのに。
できないことではないだけに、後ろ髪が引かれてしまう。そうしないでいるのは、今ではなく遠い未来のことを考えているからだ。
リヒトが落ち葉を踏み締めるようにしてゆっくりと帰路を進むうち、次第にあたりが暗くなっていく。ミアと逢っている場所は屋敷から離れているので、帰り着くころにはもう夜と言っても良い時間になっていた。
屋敷に入ると、リヒトは真っ直ぐに食堂へ向かう。
食事の時間は決まっているから、その刻限に行けば食卓に並べられている。リヒトがそこに行く時間が丁度良ければ温かいままだが、食に対してあまり興味がない彼はつい遅れがちになり、たいていは冷めきったものになっていた。
今日のものは、『冷たい』とまではいえないか。
卓に着き、リヒトは身体を保つのに必要な最低限の栄養を摂取する。恐らく、料理としては美味い部類に入るのだろう。だが、正直、彼には良し悪しが判らない。食事を楽しいと思ったことはなく、リヒトにとってはある種の薬のようなものだ。
そして、リヒトの欲求が薄いのは、食事に限ったことではなかった。
万事において、彼が求めるものはほとんどない。
衣食住は言うに及ばず、かつては自分の命にすら、興味がなかった。
それが変ったのは、ミアに出逢ったからだ。
唯一、ミアのことだけが例外だった。ミアに逢うまで、リヒトは何かを欲したことはなく、そして、彼女を知ってからは、まるで、全ての欲求がミア一人に集中してしまったかのように、リヒトは全身全霊で彼女だけを求めている。
幼い頃は憧れで、一年に一度逢えたらそれで良かった。
次第にもっと多くを求めるようになり、年に一度では足りず、ずっと傍にいて、ミアを閉じ込めて独占して、彼女の身も思いも時も未来も、全てを自分の物にしてしまいたいと思う。彼女を愛して守る、唯一の存在になりたいと、切望している。
どんな書物を読んでも、リヒトのように考える者は狂人として描かれている。
人格が破綻した、恋に狂った者として。
実際、リヒトはどこか歪んでいるのだろう。
だが、正しい想いの在り方など、知らない。
そんなものも、必要ないと、思っている。この想いが向くのは、ミアだけなのだから。
彼女に逢ったせいか、今日はいつもよりも食事進んだ。あらかた食べ終え、リヒトは席を立つ。
部屋に引き取り、寝支度を整え、寝台に横たわったリヒトの目蓋の裏には、記憶が新しくなったミアの姿が鮮やかに浮かんだ。
「僕が欲しいのは、あなただけなんだ」
リヒトは目を閉じたまま両手を高く掲げたが、幻に手を伸ばしたところで触れることなどできやしない。
彼は手を下ろし、顔を覆う。
リヒトの頭の中は、いつでも、ミアでいっぱいだった。
というよりも、彼女のこと以外、リヒトにとって意味があるものは存在しないのだ。
ミアは、リヒトのことを何一つ知らない。彼女の前に立つ彼以外には。
つまり彼女は、リヒトという個人を見てくれているということだ。
さして広いとは言えないリヒトの世界の中で、ミアだけが、彼という人間を見てくれた。家名を継ぐ木偶人形としてでもなく、桁外れの報酬を得るための金蔓としてでもなく、森の中で野垂れ死にかけていたただのリヒトに、手を差し伸べてくれた。
そんなミアに、どうして焦がれずにいられよう。
初めて彼女を見たとき、リヒトはその美しさに目を奪われた。けれど、逢うたび、外見以上にその内面に惹かれていった。
素っ気ない振りをするくせに、リヒトの身を案じているのが透けて見える。
逢いたいとは言ってくれないくせに、リヒトの姿を見た瞬間、見るからにホッとした顔になる。
不愛想で素直じゃなくて、優しくて寂しがり屋で臆病な、愛おしい人。
(僕の、世界の中心)
ミアがリヒトの生きる意味で、一年に一度彼女に逢えることだけが、リヒトが生きたいと思える理由だった。残る三百六十四日は夢で想うしかないことが、つらい。だが、それでも、そうできないよりは遥かにマシだ。
夢の中のミアは、現実の彼女とほとんど変わらない。
夢だからと言ってリヒトに笑いかけてくれることもなく、彼に触れてくることもない。
やっぱり素っ気なくて、そのくせ、手が届きそうで届かないところで、ウロウロする。
(まるで、ヒトに懐けない仔猫みたいだ)
もっとも、リヒトがちょっとしょげて見せれば、途端に世話焼きの母猫に変身するが。
そう言えば、今回のミアは、どこかいつもと違っていた。
何か言いたそうで、言いたくなさそうで。
チラリと漏らした「もう来ない」という言葉がそれなのかと一瞬思ったけれど、そうではない気がする。
(思い悩んでいるのは透けて見えるのに、それが何なのかは見せてくれないのがじれったいな)
本当に、フラリ消えてしまうネコみたいだから、困る。
ミアが約束を違えることはないから取り敢えず来年は逢えるはずだけれども、その先もこの関係が同じように続いていくという保証はなかった。
鎖で縛りつけておきでもしなければ、どうにも安心できない。
そんなことを考えていたからだろうか。
いつの間にか眠りに落ちていたリヒトの夢の中に、銀色の毛皮に包まれた、一匹の仔猫が現れた。




