戸惑いと、不安と
「ごちそうさま」
そんなふうに言って笑ったリヒトを、ミアは睨みつける。けれど、ずいぶんと高い位置になってしまった彼の茶色の目に全然怯んだ様子なく、むしろ楽しげに煌めいていた。もちろん、その言葉は、リヒトを救う血を与えたことに対してのもののはず――そのはずなのに、微妙に、違う含みがあるように感じられてならない。
なんとなくミアは、彼の手のひらの上で良いようにされているような気にもなった。
(何なの、もう!)
リヒトは、彼がミアのことを慕っているというその想いは確かにあからさまに伝えてくるけれど、その屈託のない眼差しの下に、他に何かがあるように思える時がある。時たま、ほんの一瞬、だけれども。
そんなこともあって、数年前にリヒトの背丈がミアとほぼ並ぶほどになってからというもの、彼女は彼と再会するたび戸惑いを覚えることもしばしばだ。
(これで、八年目)
たった、八年――もう、八年。
五年や十年なんて、ミアにとっては瞬き程度でしかない。そのわずかな間に、リヒトはどんどん変わっていった。ここ数年、その変化が目に付き始めていたけれど、特に今年の彼は、昨年とはまるきり別人のように見える。
唇を引き結んだミアに、リヒトが微かに眉をひそめた。
「ミア、怒った? 僕が何かした?」
眉尻を下げてそんなふうに問われると、途端に、ミアがよく知る彼になる。
「怒ってない」
小さくかぶりを振ると、リヒトがホッとしたように笑みを浮かべた。ミアはその笑顔を複雑な心境で見上げる。
怒っては、いない。
ただ、不安なだけだ。変化の速度に追いつけなくて。
少し前に目線が並んだ、と思ったら、翌年には追い抜かれ、更にその次には遥か高みから見下ろされることになっていた。背丈だけではなく、肩だって、去年まではあんなにヒョロリとしていたのに。
痩せたわけでもないのに、頬からは曲線的なところがなくなった。フワフワと柔らかそうだった茶色の髪も、何となく、芯があるように見える。
手を取られたときも、リヒトの手のひらは大きさも感触も去年とは全然違っていて、触れられた瞬間引っ込めずにいるのに、ミアは全神経を注いだのだ。彼から取り返して胸に抱きしめていても、何だか、未だにジンジンと痺れているような気がする。
もちろんミアだって、生物とは時と共に年経て変化していくものだと知っている。そんなのは、当然のことだ。ミアも、幼い頃は『成長』していた。たとえ長命なヴァンピールと言えども生まれた時は小さな赤子で、そこから背が伸びて、身体つきが変わる――他の生物と比べて、かなりゆっくりではあっても。
(でも、リヒトが変わったのは姿カタチだけじゃない)
何より、その眼。
柔らかく微笑んでいるリヒトを、ミアは顎を引いて目だけで見上げた。目が合うと、彼は「どうしたの」と問いかけるように小首をかしげてくる。
(前は、こんな眼はしなかった)
――こんな、ミアのことを包み込もうとするような、眼差しは。
(みんな、こういうものなの?)
判らない。
ミアは、一人のヒトとこれほど長い間接した経験が今までなかったから。
ほとんどのヒトとは長くて数日の付き合い、そして二度と会うことのない、すれ違いのような関りしかしてこなかった。オトナはオトナで、コドモはコドモ。出会った時のまま、すぐに別れが訪れる。
だから、知らなかったのだ。
ヒトは、月日と共に、その外見だけではなく、中身もまた変わっていくのだということを。
ミアが知るリヒトは――少なくとも去年までの彼は、一心に彼女を追いかけてくる仔犬のような『子ども』だった。
(でも……)
今、目の前に立ち笑顔で彼女を見つめている人は、ただよしよししてやればいいだけのものではない、ような気がする。
『なあ、ホントにあの坊ちゃんがまだ気付いていないと思っているのか?』
いつだったかレオンハルトが発した問いが、ふとミアの脳裏によみがえった。
リヒトは、本当に、何も気付いていないのだろうか。
気付かれたらどうしよう。
気付かれていたなら、どうしよう。
出逢ってからミアは何一つ変わっていないということに気付いているならば、絶対に、リヒトは奇妙に思っているはずだ。
(だから、時々、変な感じになるの?)
彼が以前と何かが違っているように思われるのは、そのせいなのだろうか。
不安とも疑問もつかない何かに押されるようにして思わずミアが後ずさると、途端にリヒトの眉が下がった。
「ミア?」
声さえも、記憶にあるものとは違う。
けれど、そんな雨の中の捨て犬のような眼をされると、やっぱり、リヒトで。
ミアのことを慕う色しかないその眼差しに、ホッと彼女の肩から力が抜ける。
「何でもない」
身を守るように硬く握り合わせていた両手を解いてミアがそう答えると、彼はパッと笑顔になった。その無邪気な笑顔に、彼女の胸は安堵の念で満たされる。
「良かった、僕が嫌なことでもしてしまったのかと思った」
リヒトの腰の辺りには、ブンブン振られる茶色の尻尾の幻覚が見えるようだ。
ミアは小さくため息をつき、かぶりを振る。
「見るたびリヒトがあんまり大きくなっていくから、何だか変な感じなのよ」
「それは、そうだよ。僕はいわゆる成長期、だからね。一年に一度しか逢えていないのだから、違って見えて当然だよ。もっと逢いに来てくれたら、そんなふうに思わなくて済むのだけどな?」
そう言って腰を折り、ミアの目を覗き込んできたリヒトのその眼、声からは、言外にもっと逢いに来いと要求しているのがありありと伝わってきた。
期待に満ち満ちたリヒトの眼差しから、ミアは目を逸らす。
「……もう来ないという選択肢もあるわ」
その場しのぎで、深い意図はなく、そう口走った。
が、彼女がその言葉を終えるよりも先に。
「駄目だ!」
リヒトの声が、木立の間に響き渡った。




