終わりと、始まりの日①
ローゼマリーとヴォルフの娘ミアのお話です。
前作未読でも大丈夫だと思うのですが。
その日、城の中はしんと静まり返っていた。
何かが、違う。
ミアはそわそわと視線を彷徨わせて、唇を噛んだ。
生まれた時から四十年以上を過ごしてきて慣れ親しんでいるはずの我が家が、何故か見知らぬ場所のように感じられる。
胸の内をザラリとしたもので撫でられているような落ち着かない気分に見舞われて、ミアは、母がよく晴れた日の空のようだと言ってくれる青い瞳で隣に立つ金髪の男を見上げた。
彼――レオンハルトは、物心つく前からミアのことを可愛がってくれている人だ。ミアの母親譲りの赤みがかった金髪と違って、彼は純粋な黄金色の髪と真紅の瞳をしていた。時々ふらりとやって来て、色々な土地で手に入れたお土産をくれたり、楽しい話を聞かせてくれたりする。ミアがレオンハルトに抱き付くと父は何となく不満そうな顔になるけれど、彼女は彼のことが大好きだった。
ミアはレオンハルトに呼びかけようとして、ためらう。
いつもなら、こんな時、すぐに彼女の不安に気がついてそれを吹き飛ばすような笑顔をくれるのに、今のレオンハルトは真っ直ぐに前を見据えたままだ。彼はとても大きくて、ミアの背丈はその腰ほどまでしかない。だから、精一杯見上げても、彼の表情を窺うことはできなかった。
今、ミアは、無性に寂しくて、何となく怖かった。どうしてかは、解らないけれど。
「お母さまとお父さまのところに行きたい」
ポツリとそう言うと、レオンハルトが微かに身じろぎした。そして、ようやくミアを見る。
レオンハルトに抱き上げられて両親から引き離されてしまったのは、少しばかり前のことだ。夜中よりは夜明けに近い頃合いに眠っていたところを起こされて、父と母の部屋に連れていかれたかと思ったら、さほどいさせてはもらえずまた連れ出されてしまった。
「ねえ、レオン、連れてって」
乞いながら、ミアはレオンハルトに向けて両手を差し伸べた。別に、自分で歩いて行けるけれど、なんとなく、彼の腕が恋しい。
いつもなら、こんなふうにすればレオンハルトはすぐにミアのことを抱き上げてくれる。抱き上げて、愛おしそうに頬ずりしてくれる、のに。
「あ――っと、それは、……」
いつも快活な彼らしくなく、歯切れが悪い。明らかに、ミアが戻るのを渋っている。
望みに応じてくれないレオンハルトに、ミアはムッと唇を尖らせた。
確かにたった今、母の部屋から出てきたばかりなのだから、もう少し待った方がいいのかもしれない。
ミアの中の道理をわきまえた部分は、そう理解していた。
(でも……)
最近の母は元気がなくて、少し前から一日中眠ってばかりになってしまっていた。先ほど声を聴くことができたけれど、それはずいぶんと久しぶりのことのように思われる。
次、いつ目覚めるか判らないのに。
(お父さま、ずるい)
戻って、父に文句を言いたい。もっと、母の声を聴きたい。
「レオン」
焦れて名を呼んでも、彼は動こうとしなかった。ミアを見つめて、妙な顔をしている。
何なのだろう。
「もういいよ!」
ミアは頬を膨らませ、レオンハルトを置き去りにして走り出す。さっきだって、母は今にもまた眠りに落ちてしまいそうだった。早く行かないと、間に合わない。
「あ、おい」
レオンハルトが慌てたような声をかけてきたけれど、ミアは構わず廊下を駆けた。
早く、早く。
逸る気持ちに追い立てられるようにして母の部屋がある廊下まで来て、ミアはふと立ち止まり、首を傾げる。
扉が、開いていた。
離れたところからでもそれが判るのは、廊下にまで燦々と陽が射し込んでいるからだ。
(いいのかな)
母とミアは大丈夫だけれども、父はヴァンピールで、陽の光に触れてはいけないのだそうだ。だから、ミアが小さい頃から、絶対に鎧戸を開け放したままにしてはいけないと、母から何度も何度も言い含められていた。
ミアは眉をひそめる。
(お父さま、お部屋にいないのかな)
珍しい。
母が寝台から起き上がれなくなってから、ミアと一緒にいてくれる時以外に、父は彼女の傍から離れたことなどなかったのに。
「お母さま……お父さま?」
そっと、戸口から部屋の中を窺う。
やはり窓は開け放たれていて、眩しい朝の光が部屋いっぱいに溢れている。
母は――いた。けれど、何だか、おかしい。
ちゃんと布団がかかっていなくて、身体も中途半端な感じで曲がっている。
(お父さまってば、ちゃんとしてあげなくちゃダメじゃない)
姿が見えない父に、ミアは唇を尖らせた。
あんな母を放って、いったいどこに行ってしまったのだろう。
ただでさえ弱っている母の身体が、冷えてしまうではないか。
寝台に近づいてみると、横たわる母の横には砂のようなものがたくさん盛られていた。
(何だろう)
何故かその砂は、父が来ていた服で包まれている。
首を傾げつつ、ミアは手を伸ばして母の姿勢を整えようとした。が、触れた指先に伝わったその冷たさに、思わずビクリと手を引っ込める。そして恐る恐る、彼女の頬に手のひらを添わせた。
母は、どんなに痩せてしまっても、何故か柔らかかった。
母は、体温はミアよりも低くても、何故か、いつでも温かった。
けれど今は、その両方ともが、感じられない。
「お母さま?」
呼んでも、応えはない。
そんなに深く、眠っているのだろうか。
ミアは、すっかり細くなってしまった肩を、そっと揺さぶってみた。
何も。
何も、起きない。
「ミア」
不意に名前を呼ばれて、ミアは振り返る。戸口には、いつの間に追いついていたのか、レオンハルトが立っていた。
ミアは困惑の眼差しを母に戻し、そしてまたレオンハルトに向ける。
「お母さまが起きないわ。それに、それに……冷たいの。とっても」