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13話 アルセアとシグリオ



 何もかもがきらめいて見えた。

 アルセアは瞬きもせずに、それを見つめていた。


 信じられないほどの魔法を使った。信じられないほどの奇跡が起こった。自分が目にするはずのなかった光景が、目の前に広がっている。


 何もかもが、見えた。


 月も星も、これほど輝いているものとは知らなかった。光があれば、夜の空の黒がこんなに美しく見えることも。視界のずっと彼方で、海に触れるためにそっと地平線へ降りていく星の際が、こんなに朧に見えることも。


 街と家がこれだけあるなら、人はどれだけ多く生きているのだろう。

 少なくともこんな冬の夜に通りに出て、ランタンを手にして空を見上げるあの人々の数よりは、ずっと多いはずだ。見えるだろうか。手を振っている気がする。あの場所でどんな暮らしをして、どんな人と何の話をしていたのだろう。この後はどうするのだろう。眠るのだろうか。それとも朝を待つ?


 考えていれば視界の隅に、塔が映った。この空を千年支えてきた、古き時代の賢者の塔。壊れ果てた姿には少しの寂しさが宿るけれど、でも、決して惨めじゃない。時代の先へと背中を押す老人のような、不思議な誇りがそこにある。


 壊れたところはどこに落ちたのだろう、と目を遣れば。

 見慣れた聖堂と、自分を見上げる中庭の人々の姿が見えた。


 知っている顔が、いくつもあった。メィリスだけではない。辺境伯。自分の護衛をしてくれたフランタールの人たち。光の魔法を教えてくれた、教会の先輩たちも。


 懐かしさを感じた次の瞬間に、アルセアの心にひとつの言葉が浮かんできた。



 また、会えた。


 気付いたらぼろぼろと、涙が溢れていた。



「……ゆっくり、戻りましょうか」

 声がして、ようやくアルセアは、自分がどこにいるのかを本当に思い出した。


 見上げれば、夜の灯りに照らされた微笑がそこにある。あの、よく見ていた貴族の表情ではなくて、肩の荷を下ろした後のような心からの笑み。


 あまりにも自然に腕の中に抱かれていたから。


 あの最後の七秒間――そうじゃなければ、あの手に触れてからずっと、心が重なるくらいに傍にいたから。


 嘘みたいな話だけれど、こうして声をかけられるまで、自分がどうされているのかなんて、アルセアは本気で忘れてしまっていた。


「どんなお顔も素敵だとは思いますが……最初に皆にどんな顔を見せるか、ご自分で決めるためのお時間があっても良いでしょう」


 気を遣ってくれたのだろう。その言葉を最後に、シグリオはこちらの顔から視線を外す。とん、とん、と一歩一歩、いつの間に作り上げていたのだろう、透き通る氷の階段を下っていく。


 きっとシグリオは、自分がどんな顔をしていても大して気にしないのだろうけど。

 それでもアルセアは考えた。顔を逸らそうか。それとも両手で覆ってしまおうか。ほんの一瞬悩んだ末に、結局。


 そっと、彼の首に手を回した。


 大丈夫ですよ、と彼は言う。

 本当はこんな高さなんて怖くはなかったけれど、大人しくアルセアは、その腕の中でこくりと頷いた。






 流石に抱きかかえられたまま皆の前に立つのは恥ずかしかったから、最後の二十段は自分の足で降りることにした。


 残りの十段に差しかかれば、滑らないようにとシグリオが握ってくれていた手も、そっと離す。もちろん、忘れていたわけではなかったからだ。聖女と聖騎士。最初に立てた誓いのこと。


 そろそろと、氷の階に足をかけていく。

 足元に意識を取られていたのは、もしかすると幸いだったのかもしれない。


 最後の一段を降りて、顔を上げたとき。

 自分を見つめる視線の熱に、ちょっと驚いてしまうくらいだったから。


「では、聖女様」

 シグリオが隣で囁く。


 数秒、間が空いた。

 それからアルセアは、隣の彼をちらりと見上げた。


「あれ、」

 意外そうな顔をして彼は、さらに声を潜めて、


「『終わりの挨拶』は、聖女様からと……」

 その単語で微かに、記憶に引っ掛かるところがあった。


 たぶん、とアルセアは自分で自分に言い訳を始める。あまり今、頭が回っていない。必死だったから。一生分どころか、人生の二回分、三回分の魔法を使ったから。緊張が途切れて、一気に疲労が来ている。


 あと、そもそもその『終わりの挨拶』を全く覚えていない。


 どうせここに立つことなんてないだろうと思っていたから、多分一度目を通して、それきり部屋の端に放り投げっぱなしにしている。


「…………」

 とんとん、と指の先で、シグリオの手に触れた。ん、と彼はまだ意図を測りかねている。もう一度同じことをやる。すると、


「……私からですか?」

 囁くような声で、勘付いてくれた。


 アルセアは頷いて答えた。そうしてもらう他ない。自惚れでもなんでもなく、この〈光継式〉は歴史書にずっと残る。その締めくくりに妙な挨拶なんてしようものなら、一緒に戦ってくれた全ての人たちに申し訳が立たない。


「聖女様からされた方が、皆は喜ぶと思いますが……」

 そんなこちらの事情まで察しろというのは無理な要求だろう。シグリオは気遣ってくれる。今はそれがありがたいようでもあり、早くこの場の緊張を解いてほしいと願うところもあり、だからアルセアは、


「、」

 とんとん、と自分の喉に、指先で触れた。


「ああ、お声が」

 それで、納得してくれた。


 実際、満更嘘でもないのだ。儀式の途中、明らかに声は出なくなっていた。最後の呪文も唱えられたのが不思議で、何なら本当は唱えられていなかったのではないかとすら思う。そんな状況で大勢の前で挨拶するのは不安がある。


 では、とシグリオは言ってくれた。


「聖女様は喉を傷めておられますので、僭越ながら私から『終わりの挨拶』を述べさせていただきます」


 その言葉で、視線が自分の喉とシグリオの顔の二箇所に集中するのがアルセアにはわかった。喉のあたりを見られていると、どこを見ても目が合ってしまうようで落ち着かない。視線を彷徨わせていると、一番見慣れた顔が目に付いたから、そこで止めた。


 メィリス。彼女もまた、自分の喉に指で触れている。

 どういう意味だろう、と不思議に思えば、唇が動いていることに気が付いた。言葉だ。もしかすると、と思う。姉はここでなぜか妙な察しの良さを発揮して、自分が挨拶の言葉を忘れているのに気付き、口の動きで文言を教えてくれようとしているのかもしれない。


 ありがたいし、嬉しいけれど。

 自分ができることなら私にもできると安易に考えるのは大間違いだと、いくらなんでもそろそろ気付いてほしい。


「危険を顧みず、この場に集った諸君らの勇気と奮戦に感謝を。そして、賢者ロディエスより始まる千年の〈光継式〉――その終わりを、ここに宣言します」


 儀式は、と。

 一拍置いて、シグリオは。


「成功しました」


 地面から浮き上がってしまうような歓声が、中庭を包んだ。


 さっきまでの緊張と厳格な雰囲気はどこへ行ってしまったのだろう。歴戦だろう兵たちが、子どものように跳び上がって喜んでいる。声を上げている。隣にいる者と手のひらを打ち合って、抱き合って、満面の笑みを浮かべて、時には涙を流して、この儀式の成功を分かち合っている。


 自分が彼らと成し遂げたのがどういうことなのかを、教えられたようで。

 アルセアはほんの少しだけ、もう一度泣きそうな気持ちになってしまった。


「や――れ」

 だから、その気持ちを誤魔化すためでもあったのだと思う。

 そのとき隣で何かを呟いたシグリオに、視線を向けたのは。


 目が合う。シグリオの口が動く。でも、何を言っているのか全然聞こえない。中庭の歓喜の声は街の方まで結果を伝えたらしくて、きっとこの世にあった冬の夜の中で一番賑やかな日になっただろう。歌までが空を揺らしている。


 シグリオが、口の横に手を添えた。

 だからアルセアは、僅かに耳を彼の方に寄せる。彼は屈みこむようにして、唇を近付けてくる。


「十分の一も喋ってないうちにこれです。改めて挨拶、というわけにもいきませんね」


 普通の声の大きさで喋っていただろうに、それでもかろうじて伝わるくらい。


 ふふ、とアルセアは笑った。だったら、別に良かったのかもしれない。歴史書にどう残すかなんて気にしていたのは、自分だけだったらしいから。何もかも忘れても、大きな声で「ありがとう」とでも言えば、それだけでよかったのかもしれない。


 シグリオも笑っていた。

 もう一度、彼は屈んで、


「落ち着いたころに、王家との共催でパレードが行われます。聖騎士からの挨拶はそこでされる予定だったんですが、私はここで少しだけしてしまいましたから。よろしければそのときは、聖女様もご一緒に」


 気を回してくれたのだろうな、とアルセアは思う。もちろん構わないし、どうせそのときもこんな調子で有耶無耶になってしまうのではないかという気がしたけれど、素直に頷いて応える。シグリオが微笑む。どこかで「本当は忘れていただけ」なことは打ち明けようと思う。たぶん、笑って許してくれる。


 いつまでも、歓声は止まなかった。


 大公爵まで一緒になって声を上げているのだから、それもそのはずだと思う。辺境伯もにこにこと笑ってばかりだし、下手をするとこのまま明後日まではしゃぎ続けるかもしれない。


 まさかここで「騒ぎすぎると迷惑になるから」なんて言えないし、と。

 同意を求めるように、隣を見れば。


「……?」


 シグリオが、微笑みを消しているのを見つけた。

 険しい顔というわけではない。悩んでいる……より、もう少し明るいような、清々しいような顔。目が合う。すると彼は何かを決心したような表情をして、もう一度屈み込んでくる。アルセアは耳を寄せる。


 聞こえる。



「――あなたが聖女になってくれて、よかったです。それから、私を選んでくれたことも」



 言おう、とアルセアは思った。


 どうしてそう思ったのかなんて、自分でも上手く説明できない。言ってほしかった言葉を言ってもらえたからかもしれない。ここで言わなければ一生言えないとわかっていたかもしれない。単純に抑え切れなくなっただけなのかもしれないし、これだけ賑やかな中なら他の誰にも聞かれる心配がないと思ったからなのかもしれない。


 確かなことは、『決めた』ということだけ。

 アルセアは、口の横に手を当てた。


 はにかんだシグリオは、それで察してくれた。屈み込む。海鳴りに耳を澄ますような美しい顔。どんな表情に変わるだろう。不安な気持ちもあった。楽しみな気持ちもあった。いきなりこんなこと言われても驚くだけ? 困らせるだけ? どうせ叶わないのに。叶わなくても伝えたい。叶わないから伝えたい。でも、そうだ、声。掠れていたらどうしよう。もっとちゃんとしたときがあるかも。ちゃんとした場所があるかも。もっと、ほら、今よりずっと、考えられないくらい良いタイミングが――


 いいや。

 言っちゃえ。




「私、あなたのことが好きです」




 シグリオの目が、大きく開く。

 それと同時に、アルセアの目も。


 だって。

 あれだけの中庭の喧騒が、その言葉でぴたりと止まってしまったから。


 誰も声を発さないから、アルセアも何も言えないでいた。何が起こったのだろう。思い返す。まさかみんなに聞こえたわけじゃないと思う。そんなわけがない。だって普通の声が出せたことだって奇跡に思えるくらいなのに――


 普通の、声?


「聖女様、すみません」


 よく聞き慣れた人の声がした。

 ついさっき、自分に向けて喉を抑えながら口を開けたり閉じたりしていた人――急に思い当たる。もっと早く思い当たるべきだったと思う。



「喉が涸れていらっしゃるようだったので、良かれと思って〈パラ・センス〉を」


 あの動作には、もうひとつ読み取り方がある。

 たとえば、『ちゃんと声は出せるようにしておいたよ』とか。 



 本当に、最後まで。

 最後まで、この人には。


「――――、」

 声は出せるはずなのに、言葉が出てこない。違う、と言おうとしたけれど、何も違わない。両手が中途半端な位置にあって、そこから上がりも下がりもしない。


 視線が集中している。

 火が出そうなくらい、顔が熱い。


 いや違うダメだ。アルセアは空回りする必死の思考の中で思った。違わなくても、違うと言わなければならない。忘れているわけではない。誓いのこと。だから耳打ちしたのだ。したのに。自分だけの問題じゃない。ここで弁明しないと――


 シグリオにまで迷惑が、と。

 隣を見たら真っ直ぐに彼が自分を見つめていたから、また言葉を見失ってしまう。


「――そういえば、気になっていたんですが」

 その静寂に付け込んで、口を開いた人がいる。


 辺境伯だった。彼は本当に珍しく、傍付きの護衛たちに乱された髪をそのままに、けれどやはりいつものように飄々とした口調と、存在感のある声音で言う。


「聖女と聖騎士の誓いは、破られたとき誰が罰するんでしょうね」


 ご存知ですか、と振られた先は、


「大公爵」

「知らん。破った者などこれまでいないからな」


 しかし、と彼は、


「結局あれは、権力バランスを保つのが目的だ。聖女が貴族と婚姻を結ぶことで『聖女の血筋』なんてものが生まれれば、面倒なことになるのが目に見えている。普通に考えれば、その面倒を防止するために貴族連中で袋叩きにするだろうな」

「なるほどなるほど。それはつまり……」

「ああ。『血筋に依拠しない貴族』だの、儀式の継続性――権威が未来に及ぶことを自ら廃した『最後の聖女』のふたりには、まるで関係のないことだ。……それに、何より」


 犬歯を見せるように、口の端を釣り上げて、


「ここで水を差せば、どうせ袋叩きにされるのは俺の方だろう? この不敬者共」


 もう一度、歓声が湧いた。


 ここまで来ると、アルセアの方がかえってこの状況に困り始めている。


 外堀が埋まってしまった。埋めてしまった。逃げ場をなくしてしまった。何も期待しないで口にした言葉なのだ。こんなことになるなんて思ってなかった。こんなことになるなら、後でこっそり言えばよかった。それができなければそのまま家まで持って帰って、生涯秘密にして、大切な思い出にするべきだった。


 だって、これじゃ。

 彼の方に、選択肢がない。


「声、」

 姉さん、と言ってから、そう呼ぶべきじゃなかった気がしたけれど、もうそんなことを気にしている場合じゃない。自分の言葉に一斉に視線が集まる。もう仕方ない。言っておかなければ、メィリスはそのままにしておいたかもしれないから。戻して、と伝える。あ、と声を出す。大丈夫。


「シグリオさん」

 囁くくらいなら、声はそれほど掠れなかった。もう一度耳を、とジェスチャーをする。何を考えているのだろう、真剣な顔で彼が、再び屈み込んでくれる。


「ごめんなさい。気にせず、流してくれて大丈夫です」


 気にしないことなんてできないだろうとは思う。流すのも難しいだろうと思う。自分でこんな状況を作っておいて何を、とも、当然思う。


 けれどちゃんと伝えなければもっと気を遣ってしまうだろうから、周りの空気で自分の意思を曲げさせてしまいかねないと思ったから、アルセアは盛り上がる人々を横目に、こそこそと囁く。


「その、こんな状況を作るつもりではなくて。伝えたかっただけなんです。だから、その、私が何とか話を作るのでそれに――」

「どうすれば、信じてもらえますか?」


 声が、返ってきたから。

 驚いてアルセアは顔を言葉を止める。真っ直ぐに、シグリオが自分を見つめている。


 真剣な顔。

 それから、ふ、と彼は笑って、


「いつもあなたに選んでもらってばかりじゃ、格好がつきませんね」


 止める間もなければ、逃げる隙もなかった。

 歓声も、もう何も聞こえない。


「……あの、」

「はい」

「えっと、」


 そろそろと、アルセアは手を彷徨わせる。いいのだろうか。信じていいのだろうか。そんなことを決める前に、背中に手を回してしまう。シグリオの腕の力が強くなる。肩の辺りに彼の頭があって、綺麗な髪が夜風にさらりと揺れている。


 鼓動が、伝わってくる。

『どう見えるか』ではなく、『どうであるか』を示すような、速いリズムで。


「本当のことを言うと、」

 シグリオが続けて囁く。アルセアもようやく、腕に力を込める。




「ただ、抱き締めたかっただけです」


 あなたが好きだ、と言葉にすれば、とうとう誓いは破られて。





 聖女と聖騎士の物語は、これでおしまい。

 そのようにして、アルセアとシグリオの日々は始まった。



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