10話ー① 君を愛することはない
1
ずっと、手紙が届いていたのだそうだ。
知れば確かにそうなる道理だ、とアルセアは思う。何せ世界の命運を占う一大儀式なのだから。世界中から声が届いていたって何もおかしくはない。ただ聖女がどこにいるかは常に秘匿されていたから、その手紙が自分のところに届くことがなかっただけで。
見つけたのは偶然だった。
あれからしばらくフランタール辺境伯の本邸に滞在し続けて、そこで働く人々にそれなりに親しんで。上手く眠れない日々が続いて、明け方に訪れる配達人の音に目を覚ましたりして。
階下に降りて、それを見た。
邸宅に届けられたたくさんの手紙の、その大半に『聖女様』と宛名が書かれていたのを。
これだけの事態の最中なのだ。誰も人の祈りを無下にはできず、手紙は捨てられない。中を検められて、それらのうちで問題がないと判断されたものは、屋敷の一室に保存される。屋敷の中で一番大事に守られているのは自分だから、かえってその警備の輪の中では自由に動ける。忍び込んで、その中の数枚を手に取った。文面に目を通した。
曰く。
自分は、『聖なるお方』らしい。
2
王国議会は何も決める気はないのではないか、と思い始めた。
あれから一ヶ月も音沙汰がなければ、もはや勝手に物事を進めるしかない。そう思う。
けれど今日という日にもまだ、シグリオは書斎の椅子に腰かけて、冬枯れの枝をじっと見つめていた。
なぜと言って、国へ送った意向の照会について返事がないこと、最後の儀式を行う場合にはとにかく素早く物事を進めたいこと、そのためここからは独断で動くつもりであること――それらを先日辺境伯に伝えたとき、彼はこう言ったのだ。
「三日後に、この屋敷に来客があります。その来客が何かの知らせを持ってくるかもしれませんから、それまで待つ方が良いでしょう」
君だって、国の助けがあるのとないのとでどれだけ最終的な出力が変わるか直感できているはずです、と。
その三日後が今日だ。
だからこうして、待ち続けている。誰かが何かを決めるのを――あるいは、何も決めないのを。
ノックの音がした。
見ていた者がいれば、びくりと肩を震わせただろう。そのくらいの素早さで、シグリオは立ち上がった。
「来たか」
扉を開く。見慣れた顔。ニカがそこにいて、けれど彼は、
「いらしたことには、いらしたんですが……」
そう言って、口元に手を当てる。声は出さない。周りから唇を隠すための動き。こんな風に読める。
ご当主に報告に上がるよりも先に、こちらに伺いました。
メィリスさんがいらっしゃっています。
シグリオは、ニカの肩を軽く叩いた。その判断に感謝するように。手の動きだけで指示をする。誰にも見られないように、この部屋まで通してくれ。言いながら部屋に戻る。カーテンを閉める。明かりを点ける。
もう一度、ノックの音がする。
すぐさま招き入れて戸を閉めてから、ようやく顔を合わせて挨拶をした。
「お久しぶりです。メィリスさん」
「ご無沙汰しております。助かりました。意図を汲んでいただけて」
メィリス。
聖女アルセアの姉――〈光玉・エルニマ〉の解析チームに属する彼女が、そこにいた。
「先にお知らせできるとよかったのですが、かえってそちらの方がご迷惑になるかと思い、控えました。突然の訪問、大変失礼いたします」
「いえ。夏には……それに何と言っても先日の〈光玉・エルニマ〉の調査報告をいただいた件では、大変お世話になりました。本日は聖女様とのご面会をお望みですか」
話が早くて助かります、とメィリスは答えた。そうだろうな、とシグリオは思う。自分に会うだけなら素直に先触れを出しておけばいい。直接ここまで来たのは、人目を避けたい事情があったからだ。
「申し訳ありませんが、また聖騎士様には見て見ぬふりをお願いできればと」
「構いません。ですが、ご面会の目的について事前にお伺いしてもよろしいでしょうか。仕事なもので」
「直接指導です」
念のためこれを、と。
彼女が鞄から、一枚の封書を取り出す。開けても、と訊ねれば、その後に処分していただければと返ってくるから、シグリオは引き出しからペーパーナイフを取り出してそれを開く。
「……なかなか、危ない橋を渡られていますね」
知っている名が、そこに記されていた。〈光玉・エルニマ〉の調査チーム。その全員。その他には何も。
それはメィリスの行動の正当性を証明する、白紙の委任状だった。
「〈光継式〉の成功を願ってのことです。チームで一番優秀なのが私ですので、私が参りました」
教会の支部を横断して結成された混成チーム。たった一年足らずで、そこでどれだけの信頼を勝ち得れば、こんなものを持って単身で自分のところを訪ねることになるのか。
目の前にいる彼女は、会うたびにその底知れなさを思い知らせてくる。感服にも似た心情を覚えながら、言われたとおりにシグリオはそれを処分した。些細な水の、毒の魔法。得意ではないが、この程度の紙なら容易く溶かし切れる。
「こちらにあなたがいらっしゃったということは、教会には〈光継式〉を続行する意向があると見てよろしいでしょうか」
「調査チームにその決定権はありませんし、公表されない限りはそれを知る権限もありません。こちらとしては、いかなる状況にも対応するために事前に動いているだけです」
「……なるほど」
立ち位置は自分に寄っているか、と頷いて、
「念のため、その指導内容についてお伺いしても?」
「〈光玉・エルニマ〉に使われていた独自機構のいくつかを解明しました。非常に複雑なものですが、彼女の力量ならこの知識を活かして儀式に役立てることができると考えています。図面にもまとめてありますが、ご覧になられますか」
では、とシグリオはその言葉に甘えたが、すぐに無駄な行為だったこともわかる。確かに彼女の取り出してくれた図面には詳細な記述があったが、残念ながら一見して自分ではそのほんの断片が理解の限界だろうとわかるほどに複雑だったからだ。
できればここで根掘り葉掘りと訊きたいが、彼女がここに滞在していること自体がリスクなのだ。長く引き留めるわけにはいかない。自らの理解は諦めて、一言だけ。
「彼女がこれを理解すれば、儀式は完遂できますか」
「お答えしかねます。〈光玉・エルニマ〉は今この時も変容を遂げつつありますので。その問いに答えられる者がいるとすれば、直接あれに触れた彼女だけかと」
簡潔で、明確な答え。
ほんの一瞬、シグリオは瞼を閉じた。
「わかりました。貴重なお時間をありがとうございます」
いえ、こちらこそ。
そう言って頭を下げるメィリスに目礼をして、シグリオは部屋の戸を開ける。傍に立っていたニカと目が合えば彼が頷くが、また唇だけで、
「ご当主様の方にもご来客が」
「誰だ」
「把握できていません。伝達役が言うには、高位貴族のようですが」
「向こうも人払いを?」
「そのようです。名前も伝えられていませんので、極秘の訪問かと。お急ぎいただいた方が」
そうなれば、悠長にメィリスの送迎ともいかなくなった。振り向く。雰囲気から察したのか、構いませんよ、というように彼女は頷いている。その態度に甘えることにした。
「この者についていってください。信頼できる者です」
それからは流石にひとりでここまで訪れただけのことはある。メィリスはほとんど足音もなくニカの背を追う。ニカもまた、こちらですと声にも出さずに、彼女を導いていく。ほんの少し、その背を見送る。
踵を返す。
まだ見ぬ客の下へ、彼は行く。
3
「少し痩せた?」
偽物が来た、と思った。
窓から逃げる準備をして、けれど扉の向こうにちらりとニカの姿が見えたことを思い出して踏みとどまる。それからアルセアは、「もしかすると」と思うことを口に出した。
「……誰の入れ知恵?」
「同僚。相手を気遣う第一声の定番だって」
「……姉さん、人の体型に興味ないでしょ」
「うん。自分に関係ないし」
本物だ、と思い直した。
本物の姉さんが目の前にいる――その妙な第一声のせいで、いまいち素直に驚けなくなってしまったけれど。
それでも心が軽くなったから、アルセアは椅子から立ち上がった。知っている顔。安心する人。自分のために来てくれた。ついでに、不安がない方の手で鍵盤の蓋を閉じる。すれ違うとき、ふわりと譜面台で楽譜の端がひらめいた。
「どうしたの?」
「郵便配達」
はいこれ、と言ってメィリスが手近なテーブルの上に図面を広げた。椅子はほとんど片付けてあるから、立ったままでそれを覗き込む。
「……ありがとう」
一目見て、大体のところはわかった。
「細かいところだけ確認させてもらっていい? ちょっと自信がないところもあるから」
「いいけど、その前に」
「椅子ならそのへんのを使っちゃっていいよ。って、私の部屋じゃないんだけど」
「逃げたい?」
いつものことだった。
いつもこの人はどんな重要なことも、どんな些細なことも大して変わらないような声色で口にする。
だからときどきアルセアは、不意を打たれたような気持ちになって立ち止まってしまう。
「逃げたいなら一応、準備してきたけど」
今、こうしているみたいに。
4
「よう、聖騎士」
見覚えのある顔だった。だからひとまず笑顔を取り繕って、その間にシグリオは目の前の男の顔を記憶から調べ上げる。
手がかりは自分より少し上かという程度の若さ。しなやかで引き締まった体躯。尊大な態度。口調の乱れはむしろ、態度によって自らの身分を証明する必要がないことを示唆している。生まれへの自信。相当の身分。
聖騎士候補のひとり。
記憶と、繋がった。
「カルベリオ大公爵の――」
「ご子息、は要らん。一時的なものだが、今回の件に当たって父の座を継いだ。今はただの大公爵だ」
随分な大物が、と。
慄く気持ちを押し殺して、「それは」とシグリオは毒にも薬にもならない相槌を打つ。
応接室ではなく、辺境伯の書斎だった。自分が来るまでふたりが椅子に座りもしていないのが、この状況の特異性を表している。現カルベリオ大公爵。王の甥御。
どうやら辺境伯の読みは、当たっていたらしい。
そう考えているとやはり、この場で最も位の高い彼が口火を切った。
「俺は回りくどいのは好かん。役者も揃ったようだし、さっさと伝えさせてもらおう」
いいか、と彼は言う。目が合う。大公爵は辺境伯を見ていない。
「王国議会は、何も決められなかった」
「――は」
「ただし非公式だが、教会含め上層部をまとめてひとつの総意を作りだすことには成功した。ゆえにそれを、王家からの使者としてお前に伝える」
鋭い目つきで真っ直ぐに、シグリオだけを見つめながら。
彼は、言った。
「聖騎士シグリオ・フランタール。〈光継式〉にまつわる全ての選択を、貴君と聖女に委ねる。これは白紙の委任状だ」
5
「逃げないよ」
同じくらいに端的な言葉で返せたのはきっと、ずっとそのことを考えていたからだと思う。
いつもだったら、それで終わりになる会話だった。アルセアには想像ができていた。いつもふたりでいるときは、会話を広げるのは自分の方だったから。自分が短く返してしまえば、「そう」とだけメィリスは返して図面に顔を向ける。そして言うのだ。どこがわからない?
「そう。どうして?」
けれど、今日だけは。
今日だけは彼女は、ほんの少し戸惑ったような顔をして、別の質問を重ねてきた。
「どうして……」
その言葉を、アルセアは口の中で繰り返す。
決断は決まっていたけれど、理由はあまりにも多すぎてすぐには出てこない。悩んでいれば、メィリスは淡白な声でさらに重ねる。
「一応、その後の心配をしてるんだったら気にしなくていいってことを伝えにきたつもりだったんだけど。顔とか名前とか、そういうのを変えて生きていく準備を整えてきたって」
「心が、」
そのおかげで。
その理由のひとつ目を、アルセアは見つけることができた。
「心が、変わらないからかな」
椅子を、近くに運ぼうとした。多少身体が回復してきたとはいえ、まだ不安が残る。話を続けるにしても図面に集中するにしても、もう少し楽な姿勢でいたい。自分がひとつを手に取ると、それに応じるようにメィリスもひとつを手に取った。
あまり動かせはしなくて、机から少し遠いところに座った。
まだ両手を使うのを、控えているから。
「どんな顔して生きていけばいいかわかんないよ。私のせいで儀式を中断することになって、人が苦しい思いをしてる大陸で」
「中断にもメリットはあると思うけど。十年あれば、できることなんていくらでもあるし」
「十年って、長いよ」
私の人生の半分くらい。
言いながら、アルセアは思う。その長さは猶予でもあるのだ。確かにそれだけあれば、この優秀な姉は〈光玉・エルニマ〉を何とかする画期的な方法を思いつくかもしれない。
それでも、その猶予は同時に、
「色んな人の一生を変えるのに、十分な長さだと思う」
「なくなるよりはマシだと思うけど」
「なくなっちゃうかな」
「儀式が失敗すればね」
いつもの、淡々とした明け透けな言い方だけれど。
今はそうして口にしてくれたことが、不思議とアルセアには嬉しかった。
「でも、顔と名前を変えて暮らしていける気もしないよ。私、生活能力とかなさそうだし」
「そう? 私にできることなら、あなたにもできると思うけど」
「……もしかして今、自炊とかしてるの?」
「してるし、お金も稼いでる。教会勤めだから、雀の涙だけど」
わ、と声に出した。
食べてみたい、とも言った。今度ね、と返された。今度なんてあるのだろうか。メィリスらしくない言葉だと思った。
「聖女になりたいって言ったことを私が忘れたのは、」
そこから昔話を始めるなんて、もっと彼女らしくない。
「別に誰かに選ばれなくても、自分は何でもできるって気付いたから」
「……忘れたって言ってなかった?」
「頑張って思い出した」
あなたがうるさいから、と本当に嫌そうな顔をしてから、彼女は言う。
「だからあなたも、好きなようにしていいと思うけど。東の聖堂のころとは状況も全然違うし、命までかかってるなら、なおさら」
口を開く。
口を閉じる。
代わりの言葉を探してアルセアは結局、人の真似をしてみることにした。
「姉さんって、もしかして」
ふ、と笑う。ああいう如才のない笑い方じゃなくて、もう少し茶化すように。深刻にならないように。
「私のこと、結構好き?」
泣かないように。
その一言でメィリスは、またいつもの調子に戻った。もうこれ以上話を広げるつもりがないことを察してくれたのかもしれない。前に言わなかったっけ、と素っ気なく返して、それだけ。
もう少し椅子を寄せて、と言われて、それでも動けずにいる。
そうしたら、ようやく気付かれた。
「指、怪我してたんだっけ。まだ使えないの?」
「一応大事を取って。……気付いてなかったでしょー」
「人の指なんて見ない。自分で言って」
「『痩せた?』とか言ってたのに」
「次からは『指折れた?』にする」
あんまり無神経だから、声を上げて笑ってしまった。
静かに、とメィリスに言われて、ごめんごめん、と返す。椅子を運んでもらう間に、笑いすぎてまなじりに溜まった涙を指で拭う。もしかしたら、と思う。今のメィリスなら親身になって聞いてくれるかもしれない。
今までは聖女がどんなものなのか、本当の意味ではわかっていなかったとか。
苦しくなって、寂しくなって姉さんを呼んだときに、自分がたくさんの人にとってどういう存在なのかわかったとか。
生きるとか死ぬとか、そんなことは今までもっと曖昧で遠いものだったのに。
弾けなくなった音楽の想像をしながら鍵盤を押していると、失うということがどういうことなのかがわかってきてしまったとか。
でも、言わない。
「気が済んだら早く質問して。時間が足りなくなるから」
「うん。それじゃ最初。ここのところの回路って見たことないんだけど」
「設計意図はわかる?」
「こっちの右のと左のを連動させてるんでしょ。なんでこの形を取るのかがわからないって話」
「ああ。これは供給する光の魔力を波じゃなく、質量を持つ粒子として捉えていて――」
覚えていてほしいから。
泣き喚いた時間のことでもなく、縋りつく自分の姿でもない。
こうして魔法のことを教えてもらう、昔みたいに穏やかな時間を。
その間にずっと自分が、機嫌良く笑っていたことを。
「他は図面を見れば導けると思うから、重要なのはここだけ。忘れないように、覚えておいて」
うん、とアルセアは応えた。
メモなんか取らなくていい。忘れないと思う。忘れない。
きっとこれが、最後の時間になるから。
忘れたくないから、ずっと覚えてる。
幸せだった。




