彼女は微笑んだ
久しぶりに投稿しました。
読んでいただき、ありがとうございます。
「ああ、やっと、やっとだわ……」
全てを拒み続けてどれだけの時が経ったのか――
神の花嫁という役割に無理やり縛り付けられた身体でも、ようやく活動を辞めてくれるようだ。
もはや、寝台から起き上がることもままならなかった。それがこんなにも嬉しいことだと、彼女は初めて知った。
意識も朦朧としていたが、彼女は幸福感に満ちていた。
「これで、自由になれるのかしら?」
彼女は、独り横たわりながら、嘆息した。掠れたその問いへ答えてくれる人は誰もいない。
この世界に来てから厭くことなく彼女に張り付いていた男は、仕事があるのだろう。しばらくぶりに、席を外している。
男に邪魔をされず、静かに逝けるのは本当に幸運だ。彼女の命が消えかけているのに男が気付けば、無理やりにでもつなぎとめられてしまうところだった。最近は彼女に対して男は諦めを覚えているようには見えたが、油断はならない。
突然目の前に現れ、神と名乗り、彼女を攫った男。彼女の全てを奪った男。
もうずっと、彼女は男から与えられる唯一の食物を拒んで過ごしていた。それを食べれば、ありとあらゆる生物の概念から解放され、不老不死になることができるという果実。
初めて口にした時、男はこれで共に生きることができるなと嬉しそうに笑った。その果実の効力を知った彼女が愕然としていることにも気付かずに。
人の身を神に近く作り変える果実は、だが一定期間口にしなければ効力を失うらしい。幾年間はもう死ぬことすらできないのかと絶望していた彼女は、その事実を知ってから希望を持った。死んで男の手から逃れること、という希望を。
男を――神を拒んだことで、彼女の体は神々の世界に拒絶され、尋常でない痛みを受ける呪いが掛けられていた。男が手ずから食べさせていた果実を拒み、男を拒絶する言葉を吐いてから、呪いは続いていた。
だが、その痛みは自分の勲章なのだと彼女は耐えていた。身体に引き裂かれるような苦痛に耐え、呻き声を上げて寝付く彼女に、先に参ってしまったのは男の方だった。
「お願いだから、我を受け入れてくれ、花嫁。神に逆らったお前の時間はもう残り少ない。我を愛すると誓えば、苦痛も病も老いでさえも無くなる。お前を蝕んでいるその呪いも、祝福にかわるだろう」
そう傲慢ながらも、縋るようにに告げた男に、彼女は笑った。
「そんなものいらない。私は、絶対に、貴方を受け入れない」
彼女は徹底的に男が与えるそれを拒んだ。無理矢理に口に入れられることもあったが、ここ最近は男もようやく彼女の望みを受け入れたのか、無理強いすることは無くなった。
永遠の命も、若さも彼女には必要なかった。ただ、愛する人と大切な家族の元へ帰ること。
それだけが彼女の望みであり、最期の抵抗だった。
彼女は大きな商家の末娘として産まれた。両親にも兄姉たちにも可愛がられ、大好きな幼馴染の婚約者との仲も良好だった。
幼い頃に家同士で決められた婚約者とはいえ、お互いに初恋の相手だった。結婚という概念を絵本で知った幼児の時には、将来結婚しようと二人で約束したものだった。時に喧嘩をすることはあったけれども、たいてい次の日にはお互いに耐えられなくなって仲直りしていた。
やがて、婚約者は実家の商会を継ぎ、遠くへ商談に出掛けることも多くなった。時には、数か月離れていることもあったけれども、二人の愛は揺らがなかった。友人たちには、早く結婚してしまえばいいのにとよく揶揄われるほどだった。
彼女は、どこにでもいる普通の少女のように、賑やかで楽しい少女時代を過ごしていた。
本当に全てが幸せで輝いた日々だったのだ。
けれど、今は誰ももういない。彼女が神の花嫁に選ばれたのはとうの昔のこと。只人である家族も婚約者も、すでに亡くなってしまっただろう。
男が彼女を見初めた理由はほんのささいなことだった。
攫われる数カ月前、彼女は隣町へ嫁いだ姉の元へ遊びに行っていた。その帰り道、傷ついた真っ白な鳥を森で助けて家へと連れて帰った。
彼女はもともと動物好きで、よく怪我した猫や犬を拾ってしまう性質だった。そんな彼女だったから、美しい羽根が傷つき、ぐったりしている鳥を拾って手当てするのは、当たり前のことだった。
「早く良くなってね」
拾った鳥のために手ずから餌を作り、薬を塗り、夜も寝ずに看病してやった。彼女の献身的な看護のおかげで、鳥はだんだんと元気を取り戻し、やがて大空へと羽ばたいていった。
その鳥が神が変化した姿など、彼女は全く気づきもしなかった。
ただ、いつものように傷ついた動物を放っておけなかっただけだったのだ。
だが、男は彼女の献身を自らへの愛だと勘違いしてしまった。
彼女が普通の娘だった頃に住んでいた世界は、信仰心の篤い人が多く、また神々は身近な存在であった。
世界のどこかには神々が住まう国があり、それぞれに役割を持ち、人々を助けてくれている。
多くの神々はよく地上に降り立ち、気に入った人間を見初めると、大切に伴侶として神々の国へ連れて行く。またそういった伴侶が出た国は神の力によって繁栄が約束される――そんな話が今でもままある現実として伝わっていた。
神様の伴侶に選ばれたい、神殿を訪れる独り者にはそう願う者たちも多くいた。
彼女も幼い頃から神殿に通い、神々へ祈りを捧げていた。身近な人で神に会ったという人はいなかったが、それでも神様方はいるのだと自然と信じていた。
けれど、それは自分からは遠い話で、神様の伴侶になりたいと願う人は変わっているなと思う程度だった。ましてや、その神々の国へと行きたいなどと一度も願ったことなど無かった。
だが、昔からの常で、そういった欲から一番遠い者ほど、神に気に入られてしまうものだ。
「ようやく迎えに来たぞ、我が花嫁」
満面の笑みを浮かべた見たことのない美しい男を見た瞬間、彼女は意識を失った。
そうして、気づいたら神の国へと連れてこられてしまっていたのだ。
当初、彼女は夢をみているのかと思った。
季節を問わない花々が咲き乱れ、気候は温暖。餓えも渇きもない、美しい世界。彼女もいつの間にか豪奢な衣裳に身を包んで、男に愛を囁かれていたからだ。
だが、あまりに覚めない夢に、彼女はここがまぎれもない現実だと気付いた。男に帰してくれと泣きわめき、それから与えられた部屋に引きこもった。
男は人間を連れてきたのは初めてだったが、仲間の神々が伴侶たちと仲睦まじく暮らしているのを知っていたので、彼女の反応が理解できず困惑した。
きっと今は少し元の生活が恋しいのだろう。もう少しすれば慣れるだろう。そう、男は楽天的に考えた。
有限の時の中でしか生きられない人間が、神々の伴侶に選ばれることは大きな喜びであり、素晴らしい名誉なのだから。まさか、自分を拒絶する人間がいるはずない。男はそう思っていた。
だが、彼女の頑なな態度は決して変わることはなかった。
男は時間があれば彼女に愛を囁き、時には泣き叫ぶ彼女を強引に奪った。そして、何でも与えよう、愛しておくれ、そう懇願した。
だが、彼女の返事はいつも変わらず。男をその目に映すことなく呟くだけであった。
「私を家に、あの人の元へ帰して」
誰に言われずとも、自分の命の灯火が消えかかっていることを彼女は理解していた。
深い水底に落ちていくように、意識が沈んでいく。
最期に思い浮かんだのは、最愛の人の笑顔だった。
確かに幸せな日々があったのだと思い出せたことで、彼女の中の死への恐怖は薄れた。
「愛してる、あなた……」
死に逝くその瞬間。彼女は確かに微笑んでいた。