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短編集・散文集

記念

作者: Berthe

 チャイムが鳴った。午後に訪ねると、佳那(かな)が昨日のうちに連絡をくれたので、大抵そうだろうと見当をつけて、徐に立ち上がる。

 ()(ばやし)は今の今までその事を忘れていた。忘れていたことに心づいて、覚えず微笑がひらめく。よくあることである。二十の頃は絶えて無かったことであるが、二十六にもなれば、忘れていない方が珍しくなった。忘れているというと正確でない。確かに頭の中に予定として入ってはいるが、それが昔の頃のように意識の全面を満たすという事が無くなった。女に触れたい触れたいと、盲目に動き回っていたあの頃と、喋るのも億劫となり、見るだけで良いと半ば知っている今日とでは、隔世の感がある。

 佳那である必要はない。付き合ってきた女、知り合ってきた女、会社や学校の女、街を歩く女、店で接客してくれる女、メディアに映る女、どの女も小林の目を喜ばせた。一人の女だけを見つめることの不可能を、知りすぎるほど知っている今日、結婚という主題を真面目に考えることは到底出来ない。事実問題としては、眺めることは許されている。むしろ視線の楽しみのうちに、女を一人しか娶れない不幸を耐え忍べと、陰に陽に推奨されてもいる。身体の浮気は不貞行為として離婚事由になる。しかし精神の浮気は離婚事由にのぼらない。

 無論結婚を選ぶ人は結婚相手に対して親しみを感じているはずである。未来の妻たる女が最も身近な異性であることは確かだろう。小林もそこは敢えて疑わない。しかし結婚相手が最も身近で親しみを覚える女であることは確かにしても、身近で親しみを覚える女は未来の妻をのぞいて、誰にも両手に数える程にはいるはずである。その親しい相手との肉体関係は問わない。格別必要とも思われない。ただ過ぎし日に、精神上の恋愛を相手と共にしたという記念が仄かにでもあれば、充分である。ひとつの時間を互いに求めて、ひとつの空間を共にし、見つめあい、声を交わし合ったときの思い出に、淡いあるいは濃い蜜の味を舐め、相手にも同じ想いを認めるなら、それでもうその女は余程親しいと言っていい。

 不思議である。飽くまで欲しいと欲して、遂に交わり終えたあとの満足と引き換えに度々得た冷然な心にくらべて、始めから終局目的を戯れに避け、目と耳だけで楽しむことをおのれに許した女との記念は、今もありありと心に浮かび胸を潤す。一人ばかりでない、それらの女たちの記憶を胸の引き出しに大切にしまって、結婚後も時々そこから出しては歓楽に包まれながら優しく味わいたい。

 女は過去の男をすっかり忘れられるのに、男は過去の女を忘れられず引き摺ってしまうと、世間では言われているが、そんな女にばかり都合の良い解釈に反して男は言わないだけで知っている。忘れられないのではなく、敢えて忘れる必要を感じない。男は一夫一妻を望まない。一夫多妻こそ男にとっての真の願望でありながら、社会生活がそれを許さない以上、その規範の届かないところに望みを託して暗に成就させなくてはならない。精神上の浮気に明け暮れてもそれを咎める法律は存在しない。それを女はどう感じるのかと、女好きのする顔に陰気な笑みをたたえて度々小林は思うのである。

 今もふいとそれを思い出しながら歩いて行き、覗き窓に目をつけると、卵型の輪郭を縁取るように綺麗に分けたつややかな髪が鎖骨の覗くカットソーを越えて胸へ落ちかかり、覗き窓の下あたりをぼんやり見つめる澄んだ大きな瞳が、白い肌の中で無表情ながら一種可憐な表情をつくっている。

 ほどなくドアを開き、佳那がくりくりとした目でじっと黙ってこちらを見つめたのち中に入ると、小林は女に声も掛けず靴を脱ぐのも待たずに緩やかに踵を返して歩みかけるや、後ろから柔らかで淑やかな両腕が静かにまわされた。

読んでいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 佳那さんもその人に夢を持たないで! と言いたいところですが、 彼女もまた、“私ならこの人に結婚したいと思わせることができる“と思っているのかもしれない。 と想像してみたり、佳那さんが泣く…
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