午前9時、ミルクブレッドタワーで
長岡更紗様主催『ワケアリ不惑女の新恋企画』参加作品です。
ヒーロー視点で進みます。
・おっとり美女とフレッシュ青年のちょっと恋の予感なお話です。
・点線までが本編、スクロールすると作者が考えた裏設定を踏まえたおまけがあります。本編のみで楽しくお読みいただけると思うので、点線以降はスクロールしなくても大丈夫です。
バターのリッチな香りと、コーヒーの優しい苦みが混ざる店内。僕と彼女が出会ったのは、ある休日、あるカフェレストランのモーニングの時間だった。
休日の朝には決まったルーティンがある。このカフェでアメリカーノを飲みながら、タブレットでニュースを見ることだ。レギュラーよりも優しい苦みと、後から広がる豊かな甘み。この店のアメリカーノは僕の好みだ。
ニュースを見ながら、気になった言葉をスマートフォンのメモ帳アプリで記録している途中で、来店のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
来店したのは、落ち着いた髪色のフレンチショートが似合う美人な女性だった。背も高く、彼女の足元はスニーカーにもかかわらず、対応している男性スタッフと身長がほとんど変わらない。
女性は案内された席に背筋を伸ばして座っている。この店で人気の食べ放題モーニングを注文したようだった。
「こちらの食べ放題、お時間は八十分となっております。食べ残した場合は別途料金をいただきますのでご了承ください。それでは、ごゆっくりお楽しみください」
女性の席にいるスタッフの説明に聞き耳を立てながら、僕は食べ放題のメニューを見てみる。食べ放題できるのは、この店で焼いたパン三種類と、サーバーのドリンク、それからスープ。八十分食べ放題で六百八十円。なるほど。しかしこんなスレンダーな女性が食べ放題なんて珍しいな。
メニューを戻して彼女のテーブルを再び見る。
「……え?」
あれ? あそこはあの女性一人だったよね?
そう疑ってしまったのは、女性の席には平皿が二枚。その平皿には食パンが大量に積み上がっていたからだ。二、三枚とかそんな甘いものではない。一皿に食パン一本分は積み上がっているんじゃないかと思う。僕の近くに座っていたカップルも驚いているようで、「あのお姉さん一人で食べるの……?」「やば……」と声を漏らしている。
女性は周囲の戸惑いをよそに、焼いていない食パンを何もつけずに涼しい顔でぱくぱく食べ始めた。姿勢も食べ方も綺麗なだけに、そびえ立つ食パンの塔に混乱を極める。そして、女性がクロワッサンを六つもおかわりに行ったときには、自分が注文していたアメリカーノも忘れて倒れそうになった。
あの衝撃から一週間が経った。今日は少し寝坊したので、いつもより来店が遅い。またアメリカーノを頼もうと思いながらドアを開ける。
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
スタッフに笑顔で会釈をして店内に目を向けると、以前見たフレンチショートの女性だった。カウンター席に座る女性の前には、また大量の食パンが皿に積み上がっている。
僕は自然と女性のもとへ足を進めていた。
「おはようございます」
女性はもぐもぐと口を動かしながら、僕に会釈をした。黒目がちなアーモンドアイを丸くして。
「隣、よろしいですか?」
僕は努めて穏やかな声で訊ねた。女性は口元を指先で隠しながら隣の席を掌で指した。
僕はアメリカーノを注文して、女性に向き直った。アイスラテのグラスに口をつけている彼女は、今まで見て来た女性たちのなかで、一番エレガントに映る。
「すみません。不躾なんですが、あなたのことが気になって」
「いいえ。初めて見る人はみんなぎょっとした目で見ます」
泣いているようにふるふると震えるソプラノが、静かに答えた。彼女は容姿や佇まいだけでなく声も美しい。しかし、あの好奇を孕んだ視線に気づいていたらしい。僕はなんだか申し訳なくなった。
食パンの塔が上からどんどん消えていく。平皿に積まれていた食パンはおよそ二斤。これは胃袋が元気な男子高校生でも苦しいだろう。
「この量って……苦しくならないですか?」
「ええ、大丈夫です。このミルク食パン美味しくって……」
微笑んだ彼女の口元には、ほうれい線が控えめに刻まれている。でも決して老けて見えるわけではなく、大人の女性といった品のある表情だ。
朝から固形物を食べられない僕は、この店のフードメニューを頼んだことがなかった。食べ放題のメニューには確かにクロワッサンとベーコンエピの他に「ミルク食パン」と書かれていた。
「ああホントだ、甘い匂いする」
食パンの塔に少し鼻を近づけると、小麦の香りだけでなく、乳製品特有の甘い香りがする。僕の行動に彼女は目尻を下げてくすりと微笑んだ。
食パンにジャムを塗る彼女の優雅な手つきに見惚れているうちに、僕は友人との予定に遅刻しそうになった。
「すみません、僕はこれで失礼します」
「はい、良い休日を」
「あ、あの! また……会えますか? えっと……」
「宮路と言います」
僕の言いたいことを察して、彼女は言った。
「宮路さん……。あの、下の名前は……」
「…カオルコ」
少し間を置いたあと、はにかんだように微笑んだ彼女は控えめな声で名前を言った。
「カオルコさん……。僕は…森嶋黎と言います。毎週日曜日はここに来るので、また会えたら……」
カタンッ!
どこかで落下音が聞こえて、僕は我に返った。
しまった。調子にのってナンパまがいのことをしてしまった。こんなガキに言い寄られて、不愉快な思いをしたに違いない。カオルコさんはきょとんとした目で僕を見ている。
「あ、えっと、その……」
「…ええ、また会いましょう。黎さん」
かっこいい。明らかに年下の僕を「さん」付けで呼んだのが、なんだか心の余裕を感じられてかっこよかった。僕は一度、カオルコさんに頭を下げてカフェを出た。
もう惚れていた。一つ一つの仕草が美しくて、花のような気品が漂う彼女に完全に惹かれていた。それから、食パンの塔を崩してしまう食べっぷりにも。
今日もカオルコさんの前にミルク食パンの塔がそびえ立つ午前9時。僕はいつものアメリカーノを飲みながら、彼女が静かに食パンの塔を崩していくのを眺めている。やっぱり視線を感じるのは、カオルコさんの美貌と大食いのギャップだろう。僕はふと気になったことを聞いてみた。
「あの……元々たくさん食べる方なんですか?」
カオルコさんは紙ナプキンで口を拭いながら頷いた。
「ええ、幼い頃から食べることが大好きでした」
「へ~……すごいですね……」
「でも、『みっともない食べ方をするな』と言われてからは、我慢の日々でした」
「え、誰が言ったんですか?」
「……死別した夫です」
「そんな、酷いです……」
「いいんです……夫が逝ってから10年も経っていますから」
カオルコさんの唇が、寂しげに笑った。
「ただ、さすがにあの人が亡くなってからも我慢は出来なくて……もう40になったし、好きなものを好きなだけ食べても罰は当たらないかな、と」
「ってかカオルコさん、40歳なんですか……?」
「ええ、先月40歳になりました。黎さんは……見たところ、大学生ですか?」
「あ、いえ、社会人で、21歳です」
「あ、じゃあ私の長男より1つお兄さんですね」
「長男!?」
いやいやいや、この美貌で成人した息子のお母さん。凄すぎるだろ。だいたい40歳くらいのお母さんは、多少の疲れが見えるはずなのに。僕は改めて彼女の美しさに感嘆した。
それからはカオルコさんと色々な話をした。二人の息子さんがいること、親子揃って炭水化物が好きなこと、本当は濃い味付けが好きだけど、ラーメン屋や焼肉屋は気が引けて一人で入れないこと。カオルコさんは食の話をしていると、一段と目尻が下がる。
「こんなに綺麗なのに、旦那さん分かってなかったんだな……」
カオルコさんは目を丸くしたあと、はにかむように笑った。
「……ふふっ、若いのにお世辞言うものじゃないですよ」
「お世辞じゃないです! ホントに思ってますから!」
「ふふふっ…ありがとうございます」
食べ放題の残り時間5分でカオルコさんは食パンの塔を一掃した。オレンジジュースを飲んでいるときも彼女の背筋は伸びているため、僕の姿勢も自然と良くなる。彼女の側に座っていると、なんだか高級レストランに来たような気分になる。
「ご馳走様でした」
僕はカオルコさんが合わせた、手の指先を見ていた。
僕も冷めきったアメリカーノを飲み干して、会計に行こうとしたが伝票が見当たらない。
「じゃあお会計ですね」
「え? カオルコさん!?」
カオルコさんの華奢な手には伝票が二枚。そしてカオルコさんが立ち上がったとき、彼女の薄いお腹がぽこっと膨らんでいるのがわかって、本当に食パンたちが全てお腹に収まっていることを知った。
会計を終えて、二人で店を出る。
「すみませんカオルコさん、僕の分まで払っていただいて……」
「いいえ、私も誰かと楽しく話しながら食事をするのは久しぶりでした」
「本当に、ありがとうございます。」
「ええ、それでは。良い休日を」
気分よく家までの帰り道を歩く。もう来週の日曜日が楽しみだった。来週の僕は、またあのカフェで食パンの塔を見つけて、「カオルコさん」と声をかけるんだろう。そしてカオルコさんの微笑に胸が高揚して、いい男気取りで座る。そんな僕をカオルコさんは静かに、優しく見ながら食パンを齧っていて、僕のハンサム気取りは一瞬で台無しになるんだろう。
僕はそう思っている。
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自分の息子ほどの青年は、朗らかに、そして柔らかく笑う子だった。幼い頃に「いっぱい食べて大きくなるんだぞ」と可愛がってくれた従兄を思い出す。
青年が見えなくなったあと、女はある人物へ電話をかけた。
『……はい、小城戸です』
「彼を監視していましたね?」
電話先の無骨な声に、女のソプラノが冷たく返した。彼と過ごしていた際に感じていたあの視線はやはりこの男だったかと女は溜息をついた。
「夫の代行をする代わりに、日曜の朝は自由にすると約束したはずです。勝手なことはしないでください」
『しかし、紅宮会の情報が絹川連合の連中に流れることがあってはいけません。貴女と接触したあの男が、貴女のことをぺらぺら話す可能性も……』
この男の危惧することもわかる。だが、あの青年は全くの無関係だ。青年は気づいていなかったようだが、側近はあの時、芽を摘んでおきたいことがはっきりとわかる目をしていた。
「あの子には近づかないでください。あの子は関係ありませんから」
カフェで話していたふるふると震える高音が嘘のように、硬質な声で話す。
「……っ! ……申し訳ありませんでした。馨子姐さん」
「……次はありませんから。私もそっちに戻ります。」
彼女は電話を切り、タクシーを捕まえる為に駅前まで颯爽と歩いて行った。