黄色い線の内側までお下がりください
新百合ヶ丘の駅の唐木田行きのホームに今日も河村瑞人は駅員の制服を着て立っていた。朝の通勤ラッシュの時間だというのに、このホームの乗客はそれほど多くはない。ホームの一番前の端の、黄色い線の内側に立ち、瑞人は緑に囲まれたのどかな線路を見ていた。
(ねみー)
大きくあくびをする。
(毎日毎日同じことの繰り返しで……。さすがに飽きてきたなー)
首を一回転する。大学を卒業後、新卒として駅員となってから2年。
朝は同じ時間にホームに立ち、車掌に指示を出し、乗客にどの電車に乗ればどの行先に行けるかを教える。そして、酔っ払いに絡まれ、ホームに吐かれた汚物を無表情で片づける。
この繰り返しが2年続いた。
(駅員が線路に飛び降り自殺しましたー……なんてニュースあったら笑えるよな。いや、笑えねえか)
皮肉な笑みを浮かべ、目を閉じる。
「まもなく3番線に電車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください」
アナウンスが玲瓏な声で告げる。瑞人は立っているところからホームを見渡した。
他の客はみんな黄色い線の内側まで下がっているが、一人だけ線の上に立っている女がいるのを目に留めた。
まっすぐ前を見たその横顔は陽の光に白い肌が透き通り、亜麻色のウェーブがかった長い髪が金色に煌めき、流れている。
「お客様ー!危険ですので、黄色い線の内側までお下がりください!」
自分の立っている場所から大声で女に呼びかけた。
女は、前を向いたまま動かない。
「お客様ー!黄色い線の内側までお下がりください‼」
さっきよりも大きく呼びかけるが、微動だにしない。
ガタンゴトン、という音と共にホームに快速電車が迫る。
「危ねえっ‼」
走り出し瑞人は女に飛びついた。その瞬間に女の驚いた顔が目の端に映る。
女を抱いたまま瑞人は共に黄色い線の内側に倒れる。
同時に2人の前を快速電車が走り抜けた。
荒い息をつきながら、女を抱いたまま瑞人は身を起こす。
瑞人からゆっくり体を離すと、女は目の前を走り抜ける電車を茫然と眺めた後、瑞人に視線を寄越した。
「あいあと……」
(ありがとう)
顔を上げた瑞人に左手を胸の前でかざし、右手で手刀を切る手話をする。
(ああ、この人耳が……)
女の耳には補聴器が付けられていた。
瑞人は安堵からどっと流れた汗を拭うと自然と微笑み返す。
他の乗客が心配そうに周囲に集まるのにも気づかず、2人は尻餅をついたまま笑い合った。
(駅員の仕事も捨てたもんじゃねえな。俺、やるときゃやれる男じゃん)
朝の柔らかく清らかな光は、2人の上に降り注いでいる。