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五話『野良猫と決裂、少女の覚悟』

 ――それから、数日が経過した。


 時折家業の手伝いを命じられることはあれ、その合間を縫ってアンリの小屋へ通いつめたミシュリーヌ。何度かアンリの留守に遭遇したりはしたものの、彼女は毎日欠かさずアンリと会うことを心がけている。


 その甲斐あってか、アンリのミシュリーヌへ向ける態度がほんの少しばかり軟化した。ミシュリーヌが小屋の扉をノックした時、彼が扉越しに威嚇をすることがなくなったのだ。


 それ以外の態度は相変わらず冷たく非情なものの、最早ミシュリーヌが訪ねても、アンリは「ああ、またお前か」と言いたげな、手馴れた様子で応対するようになったのである。しかも、ミシュリーヌの小屋への入室はなし崩し的に認められていた。


 アンリがにべもなく切り捨てていた最初期からすると、これは大きな進歩と言えた。毎度の如くミシュリーヌがお土産を持ち込んでいるため、それ目当てだということもあるだろう。


 未だにアンリの名前も、その出自や経歴も聞き出すことができていないミシュリーヌではあるものの、今のところ会話――と言っていい代物かはわからないが――にも困っておらず、彼女はゆっくり行く心積りらしい。


 ――その日のミシュリーヌは、概ねいつも通りの時間にアンリの小屋に向かっていた。


 森へ行くのもすっかり慣れた彼女。初めは彼女のことを心配していた街の門番も、今ではおざなりに声をかけるだけだった。


「――あれ?」


 森へ向かう道を歩くこと少し。ミシュリーヌは、道の向こう側から人が一人歩いてきていることに気がついた。


 距離が離れていてわかりづらく、加えてその人物はフードを被っていたため人相がわからなかったが。恋する乙女の嗅覚故か、件の人物がアンリであることを見抜いたミシュリーヌ。


 顔以外の背格好だけでアンリかどうかを嗅ぎ分けるミシュリーヌがすごいのか、背格好を見るだけでも警戒心が透けて見えるアンリの態度が悪いのか。どちらにせよ、二人は思わぬところで邂逅する。


「――こんにちは。今日は街に行くの?」


 アンリも、真正面から歩いてくる見知った人間のことは見えていたのだろう。ミシュリーヌが開口一番そう話しかけてきても、いつも通りの態度をとった。


「…………」


 曰く、一瞥だけしてガン無視である。


「君はお昼食べた? 私はまだなんだー、一緒に食べよ?」


 がしかし、ミシュリーヌの方も慣れたもの。むしろ、一瞥すらせずガン無視だった最初期からすれば、たかが一瞥だけとはいえ進歩。


 自身が近くに寄ることは彼にとって面白くない、というのは先刻承知。力づくで拒絶されないのだから、構わずつきまとってやれ――と、近頃のミシュリーヌは割と図々しくなっていた。


「……他を当たれ」


 答えなければ強制的についてくる。ミシュリーヌのこれまでの行動からその未来を予見し、アンリは渋々口を開く。


 言葉数は少なく、無愛想でとりつく島もない。だが、最近のアンリが諦めがちなのをミシュリーヌは知っていた。


 言葉で拒絶されてもあの手この手で居座れば、最終的になし崩し――ミシュリーヌは今日もその手を使う腹積もりである。


「うぅん、君とがいい。せっかくだからフェルマー食堂にしよっか。君もいつも――」


 ――「通ってるんだよね?」、とは、続かなかった。


『キシャアアァァア――!!』


 街へ向かって歩く二人の周囲にまで、怪物の咆哮が響いたからだ。


「きゃっ!? な、なに!?」

「…………」


 ビクリと身体を跳ねさせ、咆哮が響いてきた方角を見るミシュリーヌ。アンリも同じように視線を飛ばすが、彼の方は落ち着き払っていた。


 ――彼らが見上げた空には、数匹の影が。


 パッと見は、とてつもなく大きな鳥。しかしあんな大きさの鳥などおらず、鳥は咆哮をあげたりなどしない。


 その上鳥に見えたソレは、鱗に全身を覆われたトカゲのような外見をしており、明らかな殺意をその瞳に湛えていた。


「ひっ――!」


 ――救世主でない、怪物をよく知らないミシュリーヌでも、その存在の正体は目にした瞬間にわかった。


 人間よりも遥かに大きいトカゲで、前足がコウモリの翼のような形状をした、空を飛ぶ異形の生物……すなわち、竜種。


『キシャアアァァア――!!』


 竜種、詳しくは亜竜と呼ばれるその竜たちは、咆哮をあげた後、ミシュリーヌたちの方へやってくる。ミシュリーヌたちの背後には街もあり、そして亜竜の瞳にはわかりやすいほどの殺意。


 ――それを見てとり、亜竜たちの目的を察したアンリの行動は早かった。


「……おい、お前はここにいろ」

「えっ……?」


 救世主である、人を助けるための己。それが今、なにをすべきなのか……アンリは考えるまでもなく行動を決め、ミシュリーヌに待機を命じ、彼女の反応を見ることなく弾丸のように勢いよく走り出す。


「あっ、待っ――!」


 ミシュリーヌが止めることは叶わなかった。制止のために彼女が伸ばした手は空を切り、ミシュリーヌの視線の先……亜竜の下へ、アンリは掛けていく。


 アンリは亜竜との距離をある程度まで詰めると立ち止まり、棒立ちの状態から右手を前に突き出した。


 ――その瞬間、虚空から現れた黒い力が、亜竜を串刺しにした。


「――え?」


 ミシュリーヌは眼前の光景が理解できず、思わず呆ける。


 亜竜の内の一体が串刺しになり、続いてやってきた二匹目、三匹目も同様の末路を辿る。それを成したのが誰なのか、そして黒い力はなんなのかを、ミシュリーヌは本能的に悟った。


 ――あの黒い力は、とてもおぞましいものだ。そしてそのおぞましいものは、あの見知った青年から発せられている、と。


 串刺しにされた亜竜は、生命力が強いとされる竜種であるというのに、その一刺しだけで絶命していた。地響きを立てながら無残に地面に落下する亜竜たちの中で、息がある者は皆無である。


 ――たった一度、彼が手を突き出しただけで、亜竜たちは全滅した。


「……え……?」


 ミシュリーヌには、理解しがたい光景だった。人間ではどうあっても太刀打ちできない強大な存在を、まるで赤子の手を捻るように簡単に屠った青年がいる。


 しかしそれ以上に、ミシュリーヌには恐ろしく思うことがあった。


(〝あれ〟は……)


 亜竜を串刺しにした黒い力は、感情ある生物ならば誰しもが持ち得る、殺意や憎悪といった負の情念を形にしたもの。〝誰かを憎む〟という〝最も簡単な呪い〟を、敵を害するための力としたものだ。


 誰しもが、つまりミシュリーヌも当たり前のように持つものだからこそ、その力の正体は見ただけでわかった。


(……なんで、あんなの、使ってるの……?)


 ――それと同時に、〝最も簡単な呪い〟とやらが及ぼす、力の恐ろしさも。


 アンリが、突き出していた手を下ろす。目の前に積み重なる亜竜の死体の山を見て、しばらく彼は動かない。


 彼がどんな顔をして、亜竜の死体を眺めているのか。それはミシュリーヌにはわからなかったが、彼女はそれ以上にどうしていいかもわからなかった。


(……あの、人は……救世主、なんでしょ……?)


 ――救世主とは、世を救う英雄だ。


 華々しく魔王を打ち倒し、世界の平和を守る。人間に災厄が降り掛かった時に、その圧倒的な力を正義のために振るう。


 ミシュリーヌが幼い頃に聞いた、おとぎ話。それらは紛れもない事実であり、救世主として超常の力を持つ者も実在する。


 その内の一人がアンリであることは、ミシュリーヌの目から見ても明らかだった。でなければ、先ほどの恐ろしい亜竜を、一撃の元に沈めてみせるなどどうしてできよう。


 ――しかし、世を救う英雄が、あんなにもおぞましく醜悪な力など、持っていていいものなのか。


(……不吉な救世主、って……こういう意味だったんだ……)


 ――彼を救世主たらんとしている力が、今の黒い力ならば。


(……救世主、なのに……)


 ――あれでは、隣人を滅ぼしかねない。


「……おい」

「っ!?」


 いつの間にか足元にまで落ちていたミシュリーヌの視界に、見慣れた足が映る。それと同時に不機嫌なアンリの声がミシュリーヌに投げられて、彼女は無様に身体を跳ねさせた。


 それは亜竜の咆哮を初めに聞いた時の驚きよりも、より顕著な驚きで。


(……そうか。〝こいつも〟か)


 ……アンリがある納得をするために必要な情報は、それだけで充分だった。


「お前は街へ戻れ。家の中でじっとしてろ」


 「後は衛兵がなんとかする」、と、アンリにしては饒舌に、彼はミシュリーヌに一方的に告げた。


「え……?」


 動揺が災いし、理解が追いつかないミシュリーヌ。呆けるだけの彼女の背後から、複数人の鎧を着た人間の足音が響いた。街に常駐する衛兵である。


「君たちは――」


 訪れた衛兵たちは、突如として現れた亜竜に対抗するための兵力だったのだろう。その亜竜が見知らぬ若い二人組の前に死体を晒しているとあって、困惑と警戒を表情に浮かべながら問いかけた。


 アンリが被っていたフードを取り、顔を見せながら答える。


「――俺は救世主だ。呼び名は滅びの黒勇者。あの死体の処理を頼めるか。……それと、こいつの保護も」


 通りのよい名を明かし、用件を告げた。アンリは必要最低限の言葉で終わらせ、返事も待たずにフードを被り直して踵を返す。


 そして、ミシュリーヌが引き止める間もなく、アンリは去った。


 ――その日を境に、アンリはミシュリーヌの前から姿を消した。


 ◇


 ――隣国、ハイラキア王国との国境にある山脈、トリア山脈。そこにある亜竜の住処に、突如魔王が出現したらしい。


 ――以前現れた亜竜は、その魔王に住処を追い出されたのだろう。今はその魔王に対抗する救世主が世界中から集められ、討伐に当たっている。


 そんな報せが、噂としてミシュリーヌの耳に届いたのは。アンリが姿を消してから、一晩が経過した時のことだ。


「…………」


 亜竜が襲ってきた日の翌日。偶然家業の手伝いもなく、一日暇になったミシュリーヌ。彼女はいつものように、アンリの小屋に訪れていた。


 家主はおらず、戸締りもなされていないそこへ、ミシュリーヌは踏み入る。もはや自身の第二の家とも言えるほど通い慣れた小屋である、遠慮はなかった。


 だが、ミシュリーヌの気分は沈んでいた。


(……あの人は……)


 胸中を占めるのは、やはりアンリのこと。


(……いない、よね。救世主、だもん……今は、魔王と戦ってるん、だよね)


 アンリが衛兵へ名乗った、「滅びの黒勇者」という呼び名。黒い風貌のアンリによく似合っている、とは言えない、しかし言い得て妙ではある通り名だ。


 おぞましい力を使う救世主は、その力のおぞましさ故に、いつもなにかを憎んでいる。なにかを憎むことで力を発揮するからこそ、その憎しみは必ず周囲を滅ぼす。


 ――だからこそ、滅びの黒勇者。敵に……なにもかもに滅びをもたらす、真っ黒な勇ましき者。


 世界を救う救世主なのに、随分と不吉な名前で皮肉がきいており、それさえも救世主の憎しみの糧となるのだろう。周囲から忌み嫌われるからこそ、滅びの黒勇者も同じように、周囲を嫌うのだろうから。


 ――その憎しみを上手く使って、世界を救うのだ。


(……そりゃ、そうだよね)


 ミシュリーヌは、アンリがどうしてあのような性格になったのか、なぜこんなところに住んでいるのかを、今になって正しく理解した。


 アンリが人の温もりを知らないのは当たり前だ。なにせ彼の人生の中で、彼に温もりを与えようとする人間など、誰一人としていなかったのだから。


 なんてことはない、アンリにしてみれば当然の帰結である。誰からも嫌われるから、誰しもを拒んだ。誰からも疎まれるから、誰もいない場所を住処に選んだ。


 ……いくらその環境がアンリの力に都合がいいものであれ、やはりアンリも、疎まれるのは嫌なのだ。


 嫌なものを見ないために、常に一人きりでいるのだ。


「…………」


 ミシュリーヌは誰もいない小屋の中を見渡してから、二脚ある椅子の内の片方に腰掛ける。


(……それ、なのに……)


 ――ミシュリーヌは後悔していた。


(私が、あの人の最初の温もりになるって、決めてたのに……)


 ――ミシュリーヌは、アンリを怖がってしまったから。


 無理もないことではあった。アンリの力は、どうあれ負の情念の塊。感情を持つ生物なら無条件でおぞましく思う、〝最もやってはならないこと〟だ。


 抜き身の刃物に無意識の恐怖心を覚えるように、一介の町娘がアンリを怖がらないようにするなど、できるはずもなかった。


 とはいえ、こうした後悔を抱けることが既に、アンリに対して恐怖以外の感情を持っていることの証左だが、ミシュリーヌやアンリにとっては関係のないことだった。


(……これじゃ、私……あの人に、嫌われる……)


 ミシュリーヌが今考えていることがなんであれ、アンリの力を見た時に怯えてしまったという事実は変わらない。アンリにしてみれば、その一回が決定的なのだ。


 ――彼にとっての自分は、もう既に〝他と同じ〟になってしまった。


「……っ!」


 その考えが頭をよぎって、言い様のない寒気を感じるミシュリーヌ。アンリの力に対して覚えた怯えが可愛く思えるほどの、血の気が引く恐怖心。


(……あの人に、嫌われたくない……)


 ――彼の中の有象無象、その他大勢と同じになってしまうなど、耐えられない。


(せっかく……せっかく、ここまで来れたのに……)


 アンリとミシュリーヌの仲は、順調に進展していた。あのアンリでは考えられないほどに、ミシュリーヌに対して甘くなっていたのだ。


 ――それが、あの瞬間に全て台無しになった。


 溢れ出る寒気を堪えるように、ミシュリーヌは自身を抱き締める。


(………あの人が、帰ってくるまで……ここに、いよう)


 その体勢のまま、酷く追い詰められた精神状態のまま、ミシュリーヌは待機を選択した。


 しかしそんな彼女の下に、その日アンリが帰ってくることはなかった。


 ――日が沈みかけ、諦めてとぼとぼと家に帰ったミシュリーヌ。彼女は出迎えてくれた母親にろくな挨拶も返せず、意気消沈したまま肩を落として家に入る。


「ミシュリーヌ――」


 遅くまでどこに行っていたのか、という旨の小言を言いかけたミシュリーヌの母、ブランディーヌは、娘の様子がかつてないほどおかしいことに気がついて閉口した。


 実のところ、ミシュリーヌが家族に黙ってどこかに通っている、というのはとっくの昔にバレていた。


 ロザリーは口裏を合わせているが、毎日たくさんの人が訪れる食事処である。そこにミシュリーヌも通っているのならば、客の口からそれが出ないのはおかしい。


 今日に至るまで家族がミシュリーヌに追及しなかったのは、彼女を信用してのことだった。だが、そんな彼女がとてつもなく凹んで帰ってきたとあらば、親として心配になろうものである。


「……ミシュリーヌ? どうしたの?」

「……お母さん……」


 小言用のキツい語気から、優しげな口調に切り替えて。ブランディーヌはミシュリーヌに、なにがあったのかを問いかける。


「……実は」


 いい加減家族を騙すことに耐えられなくなったことと、精神的に本気で堪えていることが相まって、包み隠さず全てを母に打ち明けるミシュリーヌ。


 ――遭難した時に助けてくれた人がいたこと。その人のところに連日通いつめていたこと。つい先日気がついたけれど、その人が噂の〝不吉な救世主〟であったこと。……そして、その不吉な力に怯えてしまって、恐らく嫌われてしまったであろうこと。


「……私、ただ、恩返しがしたくて……やっと、ちょっとだけ話してくれるくらい、仲良くなったのに……ぜんぶ、ダメになった……」

「…………」


 涙混じりになりながらも、ミシュリーヌは自身の思いを語っていく。ブランディーヌはそれを静かに受け止めながら、娘の言葉を聞けば聞くほど決まっていく結論を頭の中に思い浮かべた。


「あの人、すごく寂しそう、で……まわり、みんなのこと、嫌ってて……わたし、それが嫌で、わたしが教えてあげるんだって、思ってたのに……!」

「――ね、ミシュリーヌ」

「……?」


 ミシュリーヌが、いよいよ耐えきれなくなって泣き声をあげようとした瞬間。ブランディーヌの声が割って入り、涙で頬を濡らしながらミシュリーヌが母の顔を見上げる。


 ブランディーヌは、最早聞くまでもないだろうけれども、と思いつつも、ズバリと結論を言った。


「助けてくれた人のこと、好きなんでしょう?」

「……ふえ……?」


 ミシュリーヌが呆けた。脈絡もない母の言葉に、思わず思考停止。


(……わたしが、あの人のこと、好き……?)


 やがて、少しずつその言葉を飲み込んでいき……ミシュリーヌは、やけにストンと胸に下りたそれを、いっそ不思議がるように認めた。


「うん、そりゃあ、好きだけど……?」


 言いながら、ミシュリーヌは首を傾げる。曰く、「なぜそんな当たり前のことを聞いてくるのだろう?」と。


 いいやむしろ、「なぜ自分は、そんな当たり前のことを今まではっきり自覚していなかったのだろう?」、と。


「あら、それなら簡単じゃない。「あなたは私のこと嫌いになったかもしれないけど、私はまだ大好きです、それを聞いても私のこと嫌い?」って、聞いちゃいなさい」

「え……」


 ズバッと鋭利に切り込まれ、ミシュリーヌは再び呆けた。「そんな無茶苦茶な」と、思考停止ではなく呆れからミシュリーヌの動作が固まる。


 言葉を交わさずともミシュリーヌの内心はわかったのだろう。ブランディーヌは敢えて朗らかに微笑んでみせて、軽い調子で笑い飛ばした。


「女の子から「好き」って言われて嫌がる男なんていないわよ。あなた私に似て美人なんだから、自信持ちなさい?」

「え、いや、ちが……」


 しかしアンリは毛色が違いすぎる。そんなことで上手くいくなら苦労しない、とミシュリーヌが否定しようとするも、母には通じなかった。


「それに、考えてもみなさい。ここで諦めたら、その人は他の誰かのものになるかもしれないわよ? あなたが嫌がった〝寂しい生き方〟を、これからも貫いていくかもしれないわね。――それで、ほんとうにいいのかしら?」

「あ……」


 ミシュリーヌがハッとなった。それくらい、ブランディーヌの言葉は核心を突いたものだったのだ。


(そうだ……私がここで諦めたら、それこそ全部ダメになっちゃう……)


 アンリのなにを見て、どうしてミシュリーヌはここまでしたのか。〝初めての温もり〟などと、なぜそのようなことを考えついたのか。


(私以外で、誰があの人の近くに行くの?)


 そんな奇特な人間はいるわけがない、とミシュリーヌは述懐する。もしいるのなら……などと考えると、彼女はものすごくイラッとしたのでそれを振り払った。


「……よくない」


 ――自分は、彼のことが好きなんだ。


 ミシュリーヌは気づく。


 ――自分は彼に同情して手を差し伸べたのではなく、好きな人だからこそ、自分の手で幸せにしてやりたかったのだ。


 初めにアンリへ抱いた感情の、その動機に。


 ――ならば、彼が持っている力がどんなものでも、関係ない話ではないか。


 その動機の前には、おぞましい超常の力、世界を救う救世主の力であろうとも、ただの些事であることに。


「――よくないよ、お母さん」

「ええ、そうね」


 娘の答えと、覚悟を決めた表情を見て、満足げにブランディーヌは頷く。ついでに「んふ」と気持ち悪く微笑んで、ミシュリーヌへとからかいの言葉を投げた。


「息子が一人増えるのね? また賑やかになるわ」

「増えるけど、賑やかにはならないよ。あの人無口だし、私二人暮らしがしたいから」


 けれど、覚悟を決めたおかげで動じないミシュリーヌに、それは通じない。曰く、「そりゃそうでしょ、なにを当たり前のことを」である。


「……あら」


 凛々しくかっこよく男前に、スパッと切り返した娘に。「これなら心配いらないわねぇ」と、少しだけ寂しそうに呟くブランディーヌであった。


 ――なお、


「ねえ聞いて、あなた。ミシュリーヌが旦那を見つけたの。二人暮らしがしたいんですって。家出よ家出。悲しいわ〜」

「そうなのかい? それは寂しくなるなぁ……ところで、お相手はどこの誰なのかな?」


 その日の内にブランディーヌが家族に暴露して、ミシュリーヌの父であるクロードは不穏な空気を醸し出しながら低い声でミシュリーヌへ尋ね、


「ミシュリーヌが結婚? へえ、どんな人なの? 馴れ初めは? 聞かせなさいよ」

「そ、そっかぁ、ミシュリーヌちゃんもそんな歳だよね……う、うん」


 ミシュリーヌの姉、クラリスは妹を食い物にしようと根掘り葉掘りの体制で、彼女の夫のバスティアンは気まずそうに微妙な顔をし、


「お姉ちゃん結婚するの!? お嫁さん!? わぁ〜! いいなぁ〜!」

「「っ!?」」


 ミシュリーヌの姪になるコレットは無邪気に叔母を羨ましがって、コレットの男親であるクロードとバスティアンは顕著に反応して――と。


「ま、まだ決まったわけじゃないから……こ、断られる方が可能性高いし……! お、押しかけるけど! ほんとにまだ決まってないから!!」


 騒がしくなる家族の勢いに合わせて声を張り上げながら、ミシュリーヌは顔を真っ赤にして余裕をひっぺがされるのだった。

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