三話『野良猫と押しかけ少女』
アンリくんが作者の想定以上に鉄壁です……もうちょっとスムーズに仲良くなってもらう予定だったのに……。
――親友の家に行く、という嘘は家族にはバレず。ミシュリーヌはまた嘘を言い、森に繰り出して。
以前のぬいぐるみと今度は魚の干物を籠に携え、彼女はアンリの小屋を訪れていた。
コンコンコン――
まずはノック。中から足音が聞こえ、それは扉の向こう側で止まる。
――ゾワ、と彼女の背筋が凍え、ミシュリーヌは本能的に扉の向こうにいる存在へ恐怖した。
「――誰だ」
扉が薄く開かれ、アンリが瞳を覗かせて以前のように問う。こうして怯えるのは二回目だが、ミシュリーヌにとっては未知の感覚だ。慣れることはありえず、震えるだけの彼女を見てアンリが力を解くことで会話が可能になる。
「……またお前か」
「あ、えっと、その……」
用心はやめて、されど警戒はいつも通りにバリバリ……アンリは変わらない態度でミシュリーヌに声をかける。未だに震えが収まらないミシュリーヌは、アンリの瞳を扉越しに見つめた。
アンリの視線が、ミシュリーヌの手に下げられた籠に落ちる。
「――いらない。帰れ」
用件をそれだけで察したのだろう。アンリは手短に言って扉を閉めた。取り残されたミシュリーヌ、今度は会話さえまともに交わしていない。
「えっ!? ま、待って!」
そんな状態では帰れないと、ミシュリーヌは慌てて扉をノックした。ノックというより、叩くと表現した方が正しいような勢いである。
「…………」
無言でアンリが扉を開ける。「帰れ」としか語らない瞳。扉は顔が見える程度の隙間が空けられているのみで、もっと扉を開けてほしかったミシュリーヌは無理やり扉を開けようと強行策に出た。
――グッ、と力を込め、ミシュリーヌは扉を開けるようと試みる。
ビクともしなかった。
抑えているのはアンリの片手のみ。対するミシュリーヌは腰の入った両手、加えて全力なのに、である。
(……ち、力、つよい……)
愕然とするミシュリーヌ。強行策を決行されたアンリは、それによって気分を悪くしたのか目付きが鋭くなっている。
危機感を覚えたミシュリーヌが、扉を開く目的ではなく閉められないようにと更に力を込めて、肘に掛けていた籠を諦めずにアンリに突き出した。
「助けてくれたお礼、させて! 君の好きそうな食べもの、持ってきたから!」
……その「君の好きそうな食べもの」というものが魚の干物となったのは、完全にミシュリーヌのヤマカンなのだが。
そのヤマカンの理由は、「なんかこの人って猫っぽい」という割とろくでもないもの。警戒心のみで他者と接するアンリは、見ようによっては確かに「人間慣れしていない野良猫」だが、とはいえただの偏見である。
偶然的を射ていたので功を奏したと言えばそうだが、今度は逆に「なんでコイツは俺の好みを知ってるんだ」とアンリの警戒が強くなる。
言いがかり半分で魚の干物を持ってきて、それが偶然ヒットして裏目に出る――目も当てられない結果となった。
「いらない。帰れ」
アンリの対応は依然変わらない。折れるなど微塵もありえない、と言わんばかりの鉄壁対応で、ミシュリーヌの心の支柱にビキリとヒビが入った。
野良猫相手ににぼしを携えて構いに行き、見事振られた少女のように。「お魚でもダメなのか」とミシュリーヌは衝撃を受けるものの、それでも諦められないと食い下がる。
「そ、そこをなんとか……! これだけ受け取ってくれたら、今日は帰るから……!」
「…………」
グイッと扉を閉めようとしたアンリの動きが、閉めさせまいと踏ん張るミシュリーヌの言葉を受けて止まる。これは脈アリか、とミシュリーヌの顔が輝くと、アンリの眉間にシワが寄った。
彼女が顔を輝かせたのを見て、ミシュリーヌの思惑通りに動くのを癪に感じた――アンリの眉間のシワはそういうわけだが、つまるところミシュリーヌの言い分を認めたということでもある。
具体的に言うならば、「これだけ受け取ってくれれば今日は帰るから」と、その部分を。
「…………」
アンリによって扉が開けられる。突然真逆方向に力が加えられ、ミシュリーヌは後ろに転びかけた。
なんとか持ち直す彼女に構わず、アンリはミシュリーヌの手から籠をひったくる。「あ……」と声を発するミシュリーヌを無視して、今度こそアンリは扉を閉めた。
警戒心マシマシの彼らしい、言葉を用いない言外の要求ではあったが。「受け取ったんだから早く帰れ」という彼の意図は、ミシュリーヌに問題なく伝わった。
――が、落とし穴が一つ。
ミシュリーヌは、「今日は帰るから」と言ったのだ。「今日〝は〟帰るから」と。
「恩返しはこれで終わり」などとは一言も言っておらず、口実はまだ充分に残っている。ミシュリーヌがこれからも小屋へ通い詰めることは可能で、故に彼女に不利益は一切ない。
「……!」
――ミシュリーヌの顔が、殊更輝いた。
絶世の美女とは言えないが、野に咲く素朴な花のような可憐さを持ち合わせる、将来が楽しみな美少女。正しく花が咲くように満面の笑顔となり、ミシュリーヌは弾むような足取りで街へ帰った。
その日も家族を嘘で騙し、門番の人には心配をかけて……そんな、罪悪感を覚えることばかりしていたが。ミシュリーヌの口元は、その日一日はずっと緩んだままだった。
なぜならばミシュリーヌにとって、嘘がバレて怒られるかもしれないという心配よりも、アンリが自分の贈り物を受け取ってくれたことの方が、何倍も重要なのだから。
◇
魚の干物を筆頭とし、独断と偏見で選ばれた贈り物を携えて。
――ミシュリーヌは今日も、アンリの小屋を訪ねてきていた。
コンコンコン――
まずはノック。都合三度目となる訪問だが、アンリの対応は変わらなかった。
「――誰だ」
扉越しに力を発動して用心をして、扉の向こうにいるのが敵だと分かれば即座に攻撃……という心構えを、ミシュリーヌを見てから解いて。ビクビクと怯えたままの彼女の手の中に籠があるのも見てとって、アンリはこれでもかと顔を顰めた。
「今日〝は〟帰るから」の罠に気がついていないアンリ。以前のもので恩返しは終わったはずだとも考えており、なんにせよアンリにとってはすさまじい厄介事である。
「――――」
「ま、待って!」
最早言葉を紡ぐのさえ煩わしい、とアンリが扉を閉めようとして、すんででミシュリーヌが扉の隙間に手を差し込んで妨害した。
(あ、気を使ってくれた……?)
扉を閉める勢いはたかが知れていたので、指に怪我をすることもないだろうという憶測がミシュリーヌにはあったが。多少の痛みを覚悟した彼女とは裏腹に、アンリはミシュリーヌの指を扉で挟むなんてことはしなかった。
――他者を嫌いだと態度で示すくせに、行き倒れの自分を助けてくれたり怪我をさせまいと気を使ってくれたり、彼はやっぱり優しいんだ。
その認識を新たにするミシュリーヌだが、扉で指を挟まずともアンリの目付きは変わらない。というかむしろ、強引な手段に踏み切ったミシュリーヌを射殺すかのような目で睨んでおり、それだけでミシュリーヌの顔は引きつった。
「ま、まだ、君の名前聞いてない、から……」
今回用意している口実を口にするミシュリーヌに、アンリの態度は変わらない。依然警戒を瞳に宿し、小屋の中に立ち入ることすら許す気はないようだ。口さえ開かず、冷酷にもほどがある対応である。
教える気はないのだ、とミシュリーヌは悟り、変わらないアンリの態度にここでも彼女の心にヒビが入る。このままアンリの対応が変わらなければ、今度こそ折れてしまうだろう。
「き、聞いたら、今日は帰るよ……?」
苦肉の策で、ミシュリーヌは二度目となるその言葉を出す。アンリはそこで、前回の「今日〝は〟帰るから」の罠に気がついた。
「――――」
彼の目が細くなる。警戒レベルが引き上げられたのを察して、ミシュリーヌの心のヒビが広がった。
扉が閉まることを妨害している手をアンリが払い除け、ミシュリーヌを閉め出すまでそう猶予はない――焦ったミシュリーヌは、なんとか言葉を重ねる。
「た、助けてくれた人の名前も知らないのは失礼だし、お礼も満足にできないから……!」
「――礼ならいらない。礼儀も気にしなくていい」
「むしろどっちもするな」というアンリの心の声が聞こえた気がして、ミシュリーヌの心はそこで完全に折れた。
彼女の勢いが消失したのを見てとって、勝機と判断したアンリがミシュリーヌの手を払い除ける。「あっ……」と声を漏らすミシュリーヌに構わず、アンリは扉を閉めた。
足音が遠ざかっていき、もしこのままノックをして呼び出そうとしても無駄だろう。というかそこまでしつこくしてしまうと今度こそ彼の怒りを買ってしまうかもしれない、とミシュリーヌは尻込みし、今日のところはそのまま帰ることにする。
十数分をかけて、幾分か見慣れてきた景色を眺めながら彼女は街へ帰る。日はまだ高く、昼時にさえなっていない時間だ。
「…………」
そのまま家に帰るような気分でもないミシュリーヌは、家族へ言った嘘のように、その足で親友の家を訪ねることにした。
――親友の名は、ロザリー・フェルマー。物静かな女の子で、ミシュリーヌより一つ年下の13歳。
いつも一歩引いた態度で、周りを引き立てるような立ち回りをする少女である。年の割に聡明で、ミシュリーヌの良き相談相手でもあった。
「――ミシュリーヌちゃん?」
「ロザリー……」
平民向けの食事処を営むロザリーの両親。修行中のロザリーも仕込みを手伝うことが日常で、今も昼食時に向けた準備中だったが。
ミシュリーヌは知らない仲でもなく、ロザリーの両親からしてみれば一人娘の親友である。そんなミシュリーヌが見るからに落ち込んだ様子でロザリーを訪ねてきたのだからと、ロザリーは仕込みの手伝いを免除された。
「……どうしたの?」
店のテーブル席に並んで腰掛け、ロザリーはミシュリーヌへ問いかけた。ミシュリーヌが持つ籠やその中身、用途にも興味があったが、ロザリーはまずそれを聞くことにしたらしい。
「……私、前に森で遭難したじゃん。その時に、助けてくれた人がいて……」
ミシュリーヌはポツポツと話し始める。ロザリーも親友ということで彼女の遭難は知っていたが、助けてくれた人がいるというのは初耳だった。
ロザリーは無言で先を促す。
「その人に、お礼、したくて……何回か、通ってるんだけど……」
「……受け取ってくれない?」
「……うん……」
ロザリーは、ミシュリーヌが持っている籠の用途を察する。お礼と言うくせに、魚の干物や干し肉などという華やかさに欠けるものが入っていたのは不思議だったが、ロザリーはそれは気にしないことにした。
それきりミシュリーヌが黙り込んだので、ロザリーは相手がお礼を受け取らない理由を、「お礼をされるほどのことでもないと謙遜している」と予想し、それを話していく。
「大丈夫だよ。きっと、ミシュリーヌちゃんのことが嫌いなわけじゃ……」
「っ……」
「ミシュリーヌちゃんのことが嫌い」。その部分で身体を跳ねさせたミシュリーヌを見て、ロザリーは言葉を止める。
思い違いをしていそうだと思って、ロザリーはもっと話を聞き出すことにした。
「……助けてくれた人って、どんな人?」
「……年上の男の人で、たぶん18歳くらい。すごく無口で、警戒心がすごい人で、それで――」
ミシュリーヌが言葉を途切れさせた。ロザリーが怪訝に感じるも、彼女がそれ以上言葉を紡ぐことはできない。
――なぜならば、ミシュリーヌは続く言葉を持たないが故に。
アンリを指して「どんな人?」と聞かれた時、説明のために引き出せる言葉があまりにも少なかった。ミシュリーヌはそのことに愕然として、酷くショックを受けて俯く。
「……私、その人のこと、ぜんぜん知らない……」
「え、え? な、名前、は……?」
「…………」
困惑したロザリー。ミシュリーヌは名前も知らないと、無言で首を横に振った。
――そう。ミシュリーヌはアンリの名前を知らない。性格や趣向だって、なにもかもがわからない。
そんなミシュリーヌでもわかることがあるとすれば、それはただ一つだけ。
彼が酷く人間嫌いで、自分は徹頭徹尾拒まれている――その程度だった。
「…………」
そんな事態は予想外で、ロザリーも二の句が告げない。ミシュリーヌは今更思い知ったその事実に打ちひしがれて、酷く悲しくなる。
ミシュリーヌは悲しくて辛くて、けれどそれと同じくらい悔しくて、その感情のままに口を開いた。
「……わ、私、その人に、恩返ししたい、のに……あの人のこと知らないの、すごくやだ……」
「……うん」
ロザリーが相槌を打つ。
「でも、聞いても、教えてくれなくて……私、あの人の近くに、行きたいだけなのに……」
「……うん」
「……ロザリー、どうしたらいいの……?」
ミシュリーヌは八方塞がりだった。このまま恩返しを口実にして通いつめたところでアンリの態度が軟化するとはとても思えず、かといってこれ以外の手段はない。
だからこそ他者に助けを求めたが、ロザリーもそれに答える言葉を持たなかった。
年の割に聡明で、強かな一面もあるロザリーだが。ミシュリーヌの言う「助けてくれた人」のことも知らない彼女に、それ以上の手段が思いつくはずもなかった。
――そこに、横から割って入る大人が一人。
「――なんだい、随分気の利かない奴もいたもんだねぇ」
リゼット・フェルマー。ロザリーの母親であり、割腹のいい酒場の女主人といった風貌の女性だ。
リゼットはミシュリーヌの前へ水の入ったコップを置き、自らも相談に乗るつもりなのか近くの椅子に腰掛ける。
「ミシュリーヌちゃんみたいに可愛い子の恩返しを無碍にするなんて、そんな酷い奴はほっとけばいいんじゃないかい?」
少々棘のある、アンリを貶すような言い方をするリゼット。自分の話を聞いただけではそんな印象になるのは無理もないと、ミシュリーヌは反論できない。そも、ミシュリーヌもアンリの態度は酷いと思っている。
――だが、リゼットの言葉の中で一つだけ、ミシュリーヌがどうしても我慢できないものがあった。
「ひ、酷いですけど……放ってはおけません、ぜったい」
なにを言われても絶対に曲げない――そんな硬い意思を感じさせるミシュリーヌの言葉を聞いて、ロザリーとリゼットは呆気に取られる。
よもやここまで、〝助けてくれた人〟とやらに入れ込んでいるとは……と、リゼットは感心した。
「……そうかい。ごめんね、悪く言っちまったよ」
「あ、い、いえ……」
目上の人間の意思を跳ね除ける失礼な物言いだったと、ミシュリーヌは申し訳なさから小さくなるが。リゼットは気にした様子もなく、むしろ面白がって話を広げた。
「その助けてくれた人っていうのはどんな奴なんだい? ……あぁ、性格じゃなくて、見た目とかの話だよ?」
「え? え、っと――」
リゼットは、ロザリーがした質問を繰り返す。しかし今度は、外見に限って尋ねているようだ。
ミシュリーヌは頭の中を整理して、そうそう忘れられないアンリの外見を思い出し……その言葉は、やけにすんなり彼女の口から出た。
「――すごく綺麗でつやつやの黒髪で、夜空を映したみたいに澄んだ、綺麗な黒目の……私より身長が高い、かっこいい男の人です。たぶん18歳くらいで、大人びてるんですけど子供っぽい顔つきが可愛くて。それから、すごく目つきが悪くて、人間に慣れてない野良猫みたいなところも可愛いんですけど……」
要約すると、「黒髪黒目でミシュリーヌより身長の高い、言動から察せられる年齢よりも童顔の男性。目つきが悪く警戒心が強そう」、なのだが。
明らかに不要な賛美が、それもかなりの数混ざっており、しかもそれを語るミシュリーヌの表情もどこか柔らかなものだった。
――その顔を見て、女の勘で全てを察するロザリーとリゼット。
「――へぇ。黒髪黒目っていうとこの辺りじゃ珍しいね」
「うん、珍しい。それなら目立ちそうだよね?」
リゼットがニヤニヤ笑いを堪えて頷き、ロザリーも同じような顔で同意する。ミシュリーヌは彼女たちの内心には気づくことなく、素直にリゼットに話を聞き始めた。
リゼットがもし彼を見かける機会があるのなら、森の小屋以外でも彼と会う機会があるということになる。また、もしもリゼットと彼が知り合いならば――と、ミシュリーヌは考えていた。
「ですよねっ、珍しいんです! なので、心当たりとかありませんか?」
――ミシュリーヌが、「珍しい」というアンリの評価に勢いよく同意し、その上顔が歓喜で輝いている理由は……まあ、恋する乙女の恋心というヤツで、つまりそういうことである。
「……っ!」
それを察し、ミシュリーヌの可愛さで思わず吹き出しかけたリゼット。ミシュリーヌが怪訝に思う前に表情を取り繕い、リゼットは記憶を探っていく。
黒髪黒目は珍しい。リゼットはすぐに、該当する人物に思い当たった。
「――普段はフードを被ってるけど、確かに黒髪黒目の男の子なら心当たりがあるね。何度かここに来たことがある。ロザリーも覚えてるかい?」
「あ、うん。あの人のこと……だよね? なんか、黒い感じ? の人」
リゼットが記憶を引き出して、ロザリーもそれに同意する。ロザリーから大まかな印象の話まで飛び出して、それを聞いたミシュリーヌの顔が更に輝いた。
「っ! そうっ、その人! あの人、なんか黒っぽいよね!」
「うッ、うん……そうだね……!」
ミシュリーヌのテンションの上がり方は完全に、年頃の少女が、自身の想い人を指して「あの人かっこいいよね」と言われた際の反応だったが……それを見て吹き出しかけても、それを堪えてミシュリーヌに悟られないようにするだけの分別がロザリーにはあった。
――ちなみに、ミシュリーヌの言う「黒っぽい」と、ロザリーの言う「黒い感じ」は、微妙に意味が異なる。
ミシュリーヌはアンリの髪や瞳、服装を言っており、ロザリーはアンリから漏れでる雰囲気やオーラ、もっと言うなら救世主としての本質を言い当てている……のだが、それは今は関係のない話である。
「ここによく来るんですかっ?」
テンションの上がるまま、食い気味にロザリーやリゼットに尋ねるミシュリーヌ。やけにキラキラと期待に満ちた瞳の彼女に、しかし二人は有力な情報を告げることはできない。
「時たま……そうさね。二、三週間に一回、くらいの頻度で来る程度かねぇ」
「うん、あんまり来ないんだ。来た時はたくさん注文してくれるし、印象が強いから覚えてたけど……」
リゼットが記憶を探りながら言って、ロザリーは申し訳なさそうに同意した。ミシュリーヌの肩が落ちる。
「そう、なんだ……」
見るからにしょんぼりするミシュリーヌ。仮にこの食事処を頻繁に利用するならば、と彼女は期待したのだが、それはあまりアテにならないようだった。
二、三週間に一度程度。正確には、猫のように気まぐれ極まるアンリの気が向いた時。彼は街へ訪れ、日用品を買い足したり食事をとったりしていく。
それをミシュリーヌが待ち構える、という手も取れないでもないが、あまり現実的ではない。ミシュリーヌはそれを悟り、しょんぼりと肩を落とした。
「……あー、次見かけた時は話しかけてみるよ。世間話がてら、いろいろね」
「えっ、あ、それは……」
見かねたリゼット。ミシュリーヌにそう提案するが、彼女は乗り気ではない様子を見せた。
それもそのはず、アンリは極度の人間嫌いである。リゼット相手であってもそれは変わらないだろうと、ミシュリーヌはそう思ったのだ。
「……あの人、話しかけても答えてくれないと思います」
「え? そんなことないよ……?」
ロザリーが意外そうに首を傾げた。
――ミシュリーヌが衝撃を受ける。
「えっ……?」
よもや、自分はダメでロザリーはいいのか――と。
「……あっ、い、いや……ちゅ、注文を聞いた時に、ちょっとだけ話すくらいだけど……」
ミシュリーヌの受けた衝撃を察したロザリー。曰く、「今日はこれがオススメですよ。こういうのお好きですか?」「ああ。それも頼む」程度だと弁明するも、それすらもミシュリーヌには及びつかない話であった。
「……わ、私、そんなに話したことない……」
ミシュリーヌがアンリとしたことのある会話と言えば、端的に表現してしまうのなら「これをやれ」「えっ」「いいからやれ」というような、酷く一方的な代物である。
それ以外と言えば、〝拒絶〟というスタンスのわかりやすいアンリの仕草からミシュリーヌが彼の意図を読み取る、言葉を用いないコミュニケーションのみ。
ロザリーのような、アンリに対して言葉を投げかけ、あまつさえ彼がそれに応えるなど……ミシュリーヌは許してもらえていないのだ。
「…………」
「…………」
――そこまで察して、ロザリーとリゼットは黙り込んだ。
まさかそんなに……、と、ミシュリーヌをとても不憫に思う二人。また、「なんとかしてあげねば」という決意も新たにする。
「……ミシュリーヌちゃん、ちょっと賄いかなにか包んであげるから、今日はそれを持って行ってみるかい?」
「あ……ご、ごめんなさい。今日はもう、行ってきたあとで……出直そうって思ってて」
「なら明日だ。行く前にここに寄って行きな」
食事処の女将、そんな立場を使って、便宜を図ろうとするリゼット。申し訳なく思いつつ、「よく食べているここのご飯を持って行けば」という可能性を認め、ミシュリーヌはその申し出を受け取ることにした。
「あ、ありがとうございます、お願いします」
リゼットはウンウンと頷いた。次いで、ミシュリーヌがロザリーに上目遣いを向ける。
「……え、えっと、その人のこと、お母さんたちには秘密にしてるの。ロザリーと遊ぶ、って言って、出かけてきてるんだけど……」
「口裏を合わせてほしい」、という旨のミシュリーヌの要請。ロザリーはお安い御用だと頷く。
親友の恋路の応援ならばと、アンリの住処が森の中にあるということを知らないこともあって、「それくらいなら」とロザリーは快諾した。
「うん、わかった」
「ありがとう、ロザリー」
――ミシュリーヌが使用する、アンリの鉄壁対応へ立ち向かう兵装が強化された、此度の一件。
……ちなみに、アンリがロザリーやリゼットと会話をし、ミシュリーヌとだけ会話をしないのは、割と複雑な事情がある。
アンリが人と接する際、まず警戒を大前提として、その上で必ず拒否を選択する。しかし、生きていく上で発生する人付き合いを全て拒んでいては生活ができない、ということはアンリも理解しており、警戒と必要性を天秤にかけて「必要」と判断した会話は素直に行うのだ。
食事処の店員に注文を行う――その会話は必須のもの。それに加えて知り合ってからの時間の長さやロザリーたちの態度も関係し、故にロザリーやリゼットとの会話は行う、という結果になるのだ。
対して、ミシュリーヌとは会って数日。しかも第一印象は「行き倒れ」であり、その後の印象は「通い詰めてくる迷惑な輩」。ミシュリーヌへのアンリの認識は最悪に等しい。
だがロザリーやリゼットは、店員と客という関係のせいでアンリへ過度に干渉することがなく、彼にとってはありがたい対応だ。その状態が以前から続いていたのだから、アンリの態度も多少なり軟化しているのである。
――以上の理由で、ミシュリーヌとロザリーたちへ向ける対応の違いが出来上がったのだが。
知る由もないミシュリーヌの内心は、それはそれは穏やかではなかった。
(……ろ、ロザリーは、話してもらえるのに……)
未だにその衝撃が抜け切っていないミシュリーヌ。ロザリーたちとの会話が途切れ、内心はその考えで埋め尽くされた。
「…………」
「…………」
そんなミシュリーヌを見て、内心を女の勘で察し……彼女の不憫さと健気さに、複雑な感情を覚えるロザリーとリゼットであった。