二話『野良猫と恩返し』
――「どうでもいいだろ、名前なんて。お前の名前も覚えないし、俺の名前も知らなくていい」。
そう言って、完膚なきまでにミシュリーヌを拒絶したアンリ。二の句が告げないミシュリーヌへ、彼は一方的に「寝ろ」とだけ指示を告げ、灯りを消して椅子に座りさっさと眠りについた。
どうしてあんなことを言うんだろう――それだけがぐるぐると胸の内を回り、されどミシュリーヌは泥のように眠る。
朝になり、強烈な朝日に目を焼かれて叩き起されたミシュリーヌ。寝る前に食べたスープをアンリが温め直し、再びミシュリーヌがご馳走になったのを最後に、アンリは彼女を小屋から放り出した。
「ここを真っ直ぐ行けばすぐに街がある。あとはそこの人間を頼れ」
言うだけ言って、アンリは小屋の中に引っ込んだ。
――ミシュリーヌはアンリに教えられた方角へ歩きながら、彼のことを考える。
(……どうして)
胸を占めるのはそんな言葉だ。
どうして、自分を助けたのか。
どうして、名前なんてどうでもいいと言ったのか。
――どうして、あんなにも警戒していたのか。
「…………」
ミシュリーヌには、アンリが誰しもを警戒しているように感じられた。全方位へ向けた最高レベルの警戒心、それは敵愾心や嫌悪、憎悪とも言い換えられるほどで、行き倒れの小娘へ向けるものではないだろうに。
――彼は、出会う人間全てをあんな目で見ているのではないのか。だから、人里から離れた小屋に住んでいるのではないか。……それは、すごく、寂しそうな生き方だ。
(……お節介、かもしれないけど)
会う人全てに警戒心を向け、近づくことも近づかれることも拒む。そんな生き方を望み、それを心地よいと感じるのかもしれない。だがミシュリーヌには、アンリが好んでそんな生き方を選んでいるのだとはどうしても思えなかった。
――人と関わりたくないと言うのなら、どうして自分を助けたのか。
「……あ」
アンリの言った方角へ歩いていると、森から抜けられた。遠くに街も見え、道はそこまで続いているらしい。
慣れ親しんだ、自分の育った街。言いようのない安心感が胸に巻き起こり、足取りは自然と早くなる。
「――!? ミシュリーヌちゃん!」
人を襲う怪物に対抗するべく、街には城壁がある。その門番――ミシュリーヌとは顔見知りだ――が近づいてくるミシュリーヌに気がつき、血相を変えて彼女へ駆け寄った。
「この一晩、どこに行っていたんだ! ご家族も心配してたぞ!?」
「あ、ご、ごめんなさい……」
自分は想像以上に周りに迷惑をかけていた、と気がついたミシュリーヌは、騒がしくなる周囲に向かって謝罪をしながら小さくなる。
「すぐに捜索隊を呼び戻せ」「ご家族にも連絡を」と、他の門番も慌ただしく走り始めた。ミシュリーヌは申し訳なさそうにその喧騒を眺め、けれど内心はアンリのことでいっぱいだった。
◇
「ミシュリーヌ!!」
「うひゃい!?」
門番に連れられ、ミシュリーヌは生家へと帰還する。そんな彼女を出迎えた母親の第一声は、彼女の名を呼ぶ怒声だった。
本来であれば、おしゃべり好きで噂好き、そしてついでに娘大好きな親バカ。娘離れなら一生できない、と自らも公言するほどの子煩悩なミシュリーヌの母親――ブランディーヌも、今回はさすがに怒り心頭だった。
「ミシュリーヌッ!!」
そしてそれに追随するのが、母娘だけあって怒り方の似通ったミシュリーヌの姉、クラリスである。他にもワラワラと、ミシュリーヌの家族が家の入口に集まり始めた。
「お゛ね゛え゛ち゛ゃ゛〜゛ん゛!」
ミシュリーヌを「お姉ちゃん」と慕う、四歳になるクラリスの一人娘、コレットがミシュリーヌに抱きついた。その後ろについてくるコレットの父親、クラリスの夫であるバスティアンは心配そうな顔だ。
「こ、コレット……ご、ごめんね?」
「うぅぅ〜!」
コレットがミシュリーヌに抱きついたまま、グリグリと顔を押し付けて大泣きを始めた。ミシュリーヌの謝罪はコレットに聞こえていないようだが、彼女の母親と姉は違う。
「ごめんねじゃないわよ! 今までどこでなにしてたの!!」
「っ!? ご、ごめんなさい!」
「ごめんなさいじゃないでしょ!!」
雷が二つ落ちる。それぞれ、ミシュリーヌのブランディーヌとクラリスのものだ。怒声の内容が似ているのが母娘らしいが、言い返せない攻め方をされるミシュリーヌとしては勘弁してほしいところだった。
――成人前の、年端も行かない少女が一人で森へ入った挙句、丸一晩帰ってこないまま本人は朝になったら戻ってきた。
腕や足に切り傷があり、服も汚れている。そして一晩音沙汰がなかったともなれば、家族として怒るのは当然だ。
それがわかるために、ミシュリーヌも怒鳴り声を甘んじて受ける。
「救世主がいても森は危ないのよ! どうせあんたのことだから、きちんとした道を外れて森の中に入ったんでしょう!!」
「子供だけで森に入るなってあれだけ言ったのに、もう忘れたの!?」
「ご、ごめんなさい……」
耳が痛い言葉を立て続けに言われ、ミシュリーヌは謝ることしかできない。際限なくヒートアップしていく怒鳴り声に、ブレーキをかけるのはいつもこの人だった。
「――まあまあ。フランもクラリスもその辺で、ね? ミシュリーヌも疲れてるだろうから」
ミシュリーヌの父親、ブランディーヌの夫であるクロードだ。おしゃべり好きで噂好きなブランディーヌは暴走しがちな面もあるが、クロードはそんな彼女の手網を握っているのである。フランというのはブランディーヌの愛称だ。
「あなたッ……でも!」
「お説教はあとで。まずはミシュリーヌの手当てが先だよ」
「……わかった」
「クラリスも。いいね?」
「……ええ」
クロードによってブランディーヌとクラリスが黙らされる。理性的に相手を言いくるめる手腕は家庭内随一であるクロードは、いつも一家のブレーキ役だった。
「……お、お父さん……ごめんなさい」
「……うん。でも無事に帰ってきてくれてよかった。まずは身体を拭いてから着替えなさい。食事もとろう」
「う、うん……」
優しく、諭すように相手を叱るタイプのクロード。そんな彼でも叱る時は叱るし、ミシュリーヌもやんちゃをした時は激しく叱責されたことがあるのだが、今は叱るべきでないと判断したのか。クロードは優しい口調で娘を労い、それがかえって申し訳なくなってくるミシュリーヌ。
――クロードの言った通り、身体を拭いてから着替え、詰め込むようにご飯を食べさせられ……そうして事情を根掘り葉掘り聞かれたミシュリーヌだったが、アンリのことは秘密にした。
彼は人と付き合うのが嫌なようだし、家族がこの様子ならお礼を言いに行くくらいはありそうだ。ならば彼を守るために――そうミシュリーヌが判断した結果である。
しかし、そんなミシュリーヌでもアンリへお礼はしたい。そう思って、自分のお小遣いでなんとかなる範囲でいろいろと用意し、服飾店の娘として培った技術で小物を作ったりもして、アンリへ礼を言いに行こうと森へ行きたがるも……こんなことになった直後である。当然許可されなかった。
それでも森へ行きたがるミシュリーヌと、決して首を縦に振らない周囲の家族。両者どちらともに理があり、お互いに譲ることのない争いは硬直状態に入った。
故に――友達と遊びに行くと偽って、ミシュリーヌがこっそり街を抜け出す決断をしたのは、そうおかしな話ではなかった。
◇
(結構簡単だった……)
親友の家に遊びに行くと嘘を言い、家を出る。途中で進路を変えて街の門へ行き、心配する門番の人には「家の手伝いで」と嘘を言った。
門番は依然心配そうではあったし、同行する大人がいた方がいいと忠告されたので、それらを振り切るのは罪悪感があったけれど。ミシュリーヌはなんとかそれらを断って、街の外に出ることに成功した。
手には、アンリへのお礼を詰め込んだバスケットが。中身はミシュリーヌ手製のぬいぐるみと、街で買ったお菓子などが入っている。
(……男の人にあげるものって、なにがいいんだろう)
苦心して選んだはいいが、周囲に相談するのもはばかられる内容だったのだ。自分一人で悩んでお礼を決めた結果、渡しに行く最中でも不安になるということになってしまった。
だがここまで来ては後戻りもできない。ミシュリーヌは覚悟を決めて、あの日辿った道をもう一度行く。
「……たしか、この道のはず……」
また迷ってしまったらと思うと足が竦むミシュリーヌだが、道から外れなければ問題はないし目的の小屋は道の傍にある。迷うこともないだろうと決心し、彼女は意を決して森に踏み込んだ。
歩幅は自然と小さくなる。不安げに周囲をキョロキョロ見回しながら歩くこと十数分。目的の小屋を発見し、大いに安堵するミシュリーヌ。
足取りを早め、タッタッタッと小屋の扉の前へ。ミシュリーヌは緊張しながら、その扉を叩いた。
――コンコンコン
(あ、足音)
ミシュリーヌは小屋の中から足音を感じた。きっとアンリだろうと結論し、扉を開けてくれるまで大人しく待つミシュリーヌ。
「――っ!?」
――そんな彼女は、急に寒気を感じてその場で身体を跳ねさせた。
ゾワリと背筋が泡立ち、体温が下がったかのような感覚。ミシュリーヌにとっては未知の感覚だったが、胸に抱いた感情は驚愕と恐怖、怯えだった。
なにに怯えているのかはさっぱりだったが、しかしミシュリーヌは本能的に理解する。今自分はなにかに怯えていて、その元凶は高い確率で小屋の中にいる存在だと。
「――誰だ」
小屋の扉が、薄く開かれる。瞳だけを覗かせ、扉の向こう側からミシュリーヌを伺うのはアンリだ。
――そう、ミシュリーヌの怯えの元凶はアンリ。自身の住処を突然訪ねてきた何者かへ、用心として救世主の力を向けたのである。
「……あ、あの……わた、わたし……」
哀れなほどに震えながら、ミシュリーヌがなんとか口を開こうとした。アンリが目を見開き、その数瞬後にミシュリーヌの寒気が消失する。アンリが能力を解いたのだ。
しかし警戒は解いてはいない。用心をやめただけで、アンリは依然ミシュリーヌのことは警戒対象として見ており、懐くには至っていないのだ。
「……なんの用だ。飯でもたかりにきたのか」
非常に失礼なことを、扉越しにミシュリーヌに投げるアンリ。もし頷いたら力を使ってでも追い返そう、と思いながらの発言だったため、アンリにとっては冗談でもなんでもない問いかけだった。
しかし失礼なことには変わりない。ミシュリーヌは顔を引き攣らせ、それによってだいぶ怯えが抜けたので彼女は用件を告げる。
「こ、この間のお礼をしに来たの。えっと、入れてもらっちゃ……ダメ?」
「ダメだ」
おずおずとミシュリーヌが申し出るも、アンリは冷たく切り捨てる。ミシュリーヌは既視感を覚え、そして派手に頬を引き攣らせた。
アンリの態度は、正しく拒絶。来る者は全て拒むという基本方針の下、厚意も善意も切って捨てるのだ。筋金入りと言っても過言でないその突き抜けっぷりは、ミシュリーヌではどうしようもなかった。
しかも、その一言だけで会話が終了したとまで考えたのか。アンリはすぐさま扉を閉めようとして、ハッとなったミシュリーヌが慌てて引き止める。
「あっ、ま、待って!」
「…………」
アンリは「なんだ」と言わんばかりに、扉を閉める手を止めて不機嫌そうな目付きでミシュリーヌを睨んだ。いつもいつも警戒を瞳に宿し、そのせいで目付きがすこぶる凶悪になっているアンリだが、今回のそれは意図的に行っているものだろう。
言葉を使って冷たく切り捨てられるのも悲しいけど、ただただ睨むだけで拒絶されるのも結構くるものがある――と、ミシュリーヌは考えた。
「せ、せめて、これだけでも受け取って?」
若干心が折れかけたミシュリーヌだったが、最後の力を振り絞って手に持った籠をアンリへ差し出した。ミシュリーヌの顔から、籠へと凶悪な視線を移すアンリ。
彼の目付きは雄弁に物語っていた。「変なもの入れてるんじゃないだろうな」と。
とてもじゃないが受け取ってくれそうな雰囲気ではない、と直感するミシュリーヌだが、せっかく最後の力を振り絞って「せめて」と差し出したのだ。引き下がれないと言葉を重ねる。
「お、お菓子と、私が作ったぬいぐるみなの。君が助けてくれなかったら、私死んじゃってたかもしれないし……」
あれこれと言い募る間も、アンリの目付きは変わらない。つまり、「迷惑だ」と雄弁に語る瞳のまま、拒絶のスタンスも変わってはいない。
「……受け取って、ほしい……です……」
折れかけていた心が完全に折れ、振り絞ったはずの力も尽きたミシュリーヌ。言葉は次第に小さくなっていって、アンリへ差し出していたはずの手もだんだん下がっていく。
これ以上、ミシュリーヌがアンリに迫ることはできそうにない。両者がそれを認識し、軍配が上がったのはアンリの方だった。
「――いらない。恩返しもしなくていい。もう帰れ」
アンリは必要最低限の言葉を投げ、今度こそ小屋の扉を閉めた。外に、立ち尽くすミシュリーヌを置いて。
――ミシュリーヌは、お礼がしたかった。
アンリに命を助けられたのだ。無愛想で不機嫌そうで、冷たいにもほどがあるアンリだったけれど、それでも感謝の念はあったから。
それ故に、せめてものお礼にと、労力をかけてここまでやってきた。なのにこの仕打ちは悲しすぎる、とミシュリーヌは俯く。
――アンリは、人が嫌いだった。
生まれつき救世主としての力――世界を呪って憎悪する力を持っていた彼は、生みの親にさえ疎まれ、友達なんて以ての外で、それはいつだって変わらなかった。
そんな彼にも、まともに接してくれた奇特な人間が過去にはいたが。その奇特な人間には救世主としての力を明かしておらず、ありのままのアンリを受け入れていたとは言いがたい。
だからこそ、アンリは人を嫌う。アンリは誰かに嫌われることしかなかった故に、「俺もお前らのことが嫌いだ」と結論することに疑問はなかったのだ。
――ミシュリーヌを助けたことに、アンリにとって深い意味はない。
世界を救う救世主として生まれた自分は、内心がどうであれ、人を助けるのは当たり前だと思っているアンリ。彼曰く、救世主としての本能が人助けをアンリにさせるのである。
その本能に従っただけで、その結果に〝人付き合い〟などという彼の最も嫌うものがついてくるのは、アンリの望むところではない。
アンリにとってミシュリーヌを助けるということは、助けてやって大丈夫になれば放り出して、それで終わりになる出来事なのである。
ミシュリーヌが恩を感じ、それを返そうと彼へ接触してくる――アンリには、それが迷惑でしかなかった。
「………帰、ろう」
どれだけの時間、小屋の前に立ち尽くしていただろうか。ミシュリーヌはポツリと呟き、とぼとぼと元の道を帰り始めた。
森へ感じていた恐怖心や、家族を騙してしまったことの罪悪感は、ミシュリーヌの心から消えていた。
――今はただ、悲しい。
(……どうして、なんだろ)
自分が労力をかけ、ようやくここまで辿り着いたのに、それで得られた報酬は〝拒絶〟のみ。そのことが悲しいのはもちろんのこと、ミシュリーヌにはもう一つ、悲しいと思う出来事があった。
(……どうして、あんなに――)
アンリは、来る者全てを拒む。
独りを愛するのではなく、人付き合いを嫌っている。
孤独を求めるのではなく、人間そのものを拒んでいる。
(――あんなに、嫌そうにするんだろ……)
アンリの瞳が、仕草が、声色が、表情が、その全てが語るのだ。
――「お前が嫌いだ。近づいてくるな」。
警戒心を服にして身にまとったかのような、アンリの態度。その理由がミシュリーヌにはわからず、そしてそんな態度に返ってくる応報を想像してしまうからこそ、彼女は悲しかった。
――あれでは誰も寄り付いてくれないし、誰も彼を好きになることができない。
それでいい、それがいいと言うなら、そうしていればいいとミシュリーヌは思う。けれど、どうにもそれがアンリには当てはまらない気がして、彼女は考えた。
ミシュリーヌがこの考えを抱けたことは、後の二人にとっての、本当の意味での奇跡だった。
――彼はただ、人の温もりを知らないだけ。
知らないからこそ、容易に「いらない」などと言えるのだ。
知らないからこそ、「嫌いだ」と示すことに躊躇がないのだ。
(……なら)
人の幸せを他者が決めつけるのはよくないことだけれど、人の温もりを知らないのは間違いなく不幸だろうから。
知った上でそれでも嫌だと言うのなら、その時は潔く身を引くから――と。
ミシュリーヌは、一つ決心した。
(なら、私が教えてあげなくちゃ)
――人の温もりを知らない彼の、初めての温もりになってあげよう。
まずは今日用意したこれらをちゃんと渡して、恩返しを口実にして通い詰めて、名前くらいは聞き出して――と、ミシュリーヌは今後の方針を頭の中に打ち立てる。
……一連の思考。アンリの態度を悲しく思ったり、初めての温もりになってあげようなどと考えたり。それらを思いつき、実行できるだけの動機がなんなのか……それにはまだ、ミシュリーヌは気づいていない。
「……お菓子、じゃダメだったかな。男の子だし、お肉……いや、お魚がいいかな?」
ミシュリーヌはボソボソと呟きながら、街への道を歩く。彼女が自らの感情と向き合うのは、まだまだ先の話である。