一話『野良猫と行き倒れの少女』
(……疲れた)
少女は、それだけを胸中で呟いた。
最早まともな思考をするだけの体力も残されていないと、少女は本能的に理解する。
――ただ、些細なことで家族と少し言い争いになって、ちょっと嫌な気分になっただけ。
世界を救ってくれる救世主というすごい存在も、街の近くにいるし。人里に近い森でなら、普段から木こりも出入りをしている。
そんな森なら危険はないと判断し、少女は森に入った。気晴らしに散歩をして、少ししたら街に戻って家族に謝ろう……と、そんな軽い気持ちで。
――その軽い気持ちが後悔に変わり、焦燥感と絶望に変わったのは、少女が森に入ってから数時間後のことだった。
少女は遭難してしまった。木こりが使う森の小道ではなんとなくつまらない気がして、そうそう方向を見失うこともないだろうと楽観視をしたのだ。
そうして森の奥へ進んだ結果、ものの見事に迷ってしまう。焦りやストレスのせいで無駄に体力を消耗し、そこそこ運動もできるはずの少女はほんの数時間で限界を迎えた。
それでも諦めずに歩き続けたのは、その場に蹲っても助けなど来ないと思ったためか、その場に残ることが怖かったためか。少女にさえ、本当のところはよくわからない。
――歩いて、歩いて、歩いた。
どことも知れない森の中、木々に囲まれて足場も悪いところを、ただひたすらどこかへ向かって。
(……痛い……)
少女は激しい足の痛みを覚えた。いや、痛みだけならもう全身から。どこかで木の枝でも引っ掛けたのか腕や足は切り傷だらけ、何度か転けたので服が汚れて打ち身もできている。
正しくボロボロで、いかにも遭難しましたといった風体。普段ならば彼女の自慢の亜麻色のストレートヘアも、今ではくすんでしまって見る影もない。
野獣や怪物は遭遇しないようにと祈るしかなく、もし野盗なんかに見つかってしまえば……それは考えたくないと、少女は頭を振った。
まともな思考をする体力はないのに、嫌な想像だけは中途半端に少女の頭をよぎる。この辺りには救世主がいるそうだが、そもそも少女は救世主を見たことがなかったし素性も知らない。救世主そのものが噂程度の話で、そんなものを信じて森へ入った自分に呆れる少女。
フラフラと頼りない足取りで、彼女は森の中を抜ける。
――それからまた数時間、もしかしたら半日にもなるかもしれない。
気が遠くなるほどの長い時間、少女は歩き続けた。いよいよ周囲が暗くなってきて、その時まで野盗や野獣、人に襲い掛かる怪物に遭遇しなかったのは、少女の運がよかったとしか言えない。
――木々の間を抜けると、少女は半ば倒れ込むようにそこへ飛び出した。飛び出したところは空間があり、少女が寝転べるほどの広さがある。
「……ぁ……」
少女の思考に一筋の光がさした。少女が飛び出た空間は、森の中の道と言えるほどのものだったのだ。
これを辿っていけば街へ出られるかもしれない。少なくとも、今までのように道にもなっていないところを歩くよりはいい――疲弊した頭でそう考えて、足を踏み出そうとして、
「……あれ……」
少女の身体が傾いた。道を見つけて気が抜けたのか、少女の身体に力は入らない。そのまま少女は、道の真ん中に倒れ込む。
「う、あ……」
痛みに呻く少女だが、身体を動かすこともできなかった。彼女の身体はそれだけ疲弊――否。衰弱していたのだ。
飲まず食わずで、極度のストレスに晒されながら、舗装されていないどころか道もない森の中を歩き回る。14歳の、一介の町娘にすぎない少女には酷な話だっただろう。
道に出られただけでも奇跡と言える。しかし少女は、身体を動かせないだけでなく意識が遠のくのを感じた。
――こんなところで寝ていては、それこそ死んでしまう。
助けが来る保証なんてどこにもなく、助けよりも野獣や怪物の方が確率は高い。野獣も怪物も来なかったとしても、放置されるだけで少女は死ぬだろう。
「……ぅ、ぅぅ……」
少女は、最後の力を振り絞って手を握りしめようとする。手を握ることができれば、それを起点にして身体を動かせるはずだ、と。
――それすらもできないまま、少女は意識を失った。
「……?」
そんな少女の近くを通りかかり、倒れる彼女に気がつく青年が一人。
「……遭難者、だな。こんな子供がなんで……生きてるな」
青年はアンリ=ルイ・カース。滅びの黒勇者と呼ばれる、世界を呪うことで力を行使する救世主。黒髪黒目、全身の服装も黒一色で、身体から滲み出る雰囲気も真っ黒な、齢19の青年だ。
アンリはポツポツと呟き、倒れた少女の口の前に手をかざして呼吸を確認。自身の疑問を後回しにし、アンリは少女を担ぎあげる。
――救世主と呼ばれ、そう在るようにと生まれつき定められているのだ。
アンリはそれを理由にし、行き倒れの少女を助けることにした。人助けこそが救世主の本懐だろうと、それだけ考えて。
(……ほんとうなら、人間なんか助けたくないけどな)
胸中で呟きながら、アンリは少女――ミシュリーヌ・アルファンを、自身の住処に連れていくのだった。
◇
「――う、ん……?」
森の中で迷い、遂には倒れて動けなくなってしまった少女、ミシュリーヌは、とある物音で目を覚ました。
目を開けて初めに目に入ったのは、木製の天井。随分年季が入った古い天井で、恐らく建物そのものが昔からあるのだろう。
「……!?」
そうまで考えて、ミシュリーヌは驚愕した。自分は森の中で倒れたはず、ここはどこだ。そう考えて、身体を無理やり起こす。
仰向けで、ベッドの上に寝かされていたミシュリーヌ。怪我の痛みを堪え、上半身を起こす。本人はガバッと起こしたつもりでもだいぶ緩慢な動作だったミシュリーヌに気づいて、彼女の覚醒の原因となった物音の主――アンリがミシュリーヌに目を向けた。
「…………」
「あ、あの……!」
アンリは無言で、手にコップを持ってミシュリーヌの下へ歩いていく。そんな彼を見て、警戒を顕にしてミシュリーヌがベッドの上で後ずさった。
ミシュリーヌの警戒も抵抗も、アンリからしてみれば可愛いもの――というか、彼女の衰弱のせいで、その抵抗は様になっていない。動作が酷く緩慢で、疲労を色濃く宿したものだったのだ。
アンリは対応を変えることなく、無言のままミシュリーヌにコップを差し出した。そんな彼に対し、いろいろと言い募ろうとするミシュリーヌ。
「わ、わたしっ、森の中で……! ここはっ、あと、あなたは……!」
「…………」
ミシュリーヌは困惑していた。森の中で倒れたかと思いきや目が覚めると見知らぬ人の家の中、いたのは年上の男で、そうかと思えば無言でコップを差し出すだけ。中には水が入っているので「飲め」ということなのだろうが、そもそも状況が飲み込めなかった。
そんなミシュリーヌの困惑はさすがのアンリもわかった。コップを差し出す手は引っ込めず、アンリが無愛想に口を開く。
「……ここは俺の住処だ。助けただけでお前に興味はないし、なにも入れたりしてない普通の水だ。いいから飲め」
アンリはそれだけ言って、受け取りを催促するように更にコップを突き出した。思わず受け取ってしまうミシュリーヌ。
「あ……えっと……」
両手でコップを持ちつつ、ミシュリーヌは上目遣いでアンリの様子を伺う。アンリは非常に無愛想で、不機嫌そうに眉をひそめて目つきは最悪。おまけに口調まで不機嫌そうなので、ミシュリーヌはなにか彼を怒らせるようなことをしてしまっただろうかと心配になった。
無愛想だったけれど親切心でやっているのだと辛うじて理解できたので、ミシュリーヌとしては別の困惑があるのである。しかしアンリを伺っていても状況は変わらなさそうと思い、ミシュリーヌは水を飲むことにする。
「……っ」
こくん、と喉を鳴らして水を一口。変な味はせず、それどころかとても美味しく感じられた。約半日ぶりの水、しかも慣れない森を歩き詰めだった直後の水なのだ。ミシュリーヌの瞳が自然と輝いて、コップの中の水はすぐさま消えていく。
「……もっといるか?」
ミシュリーヌの反応を見て、依然不機嫌そうではあるがアンリがそう言った。ミシュリーヌはテンションの上がったまま勢いで答え、直後に後悔する。
「う、うんっ! ……あ、ご、ごめん」
「ふん」
しかし、ミシュリーヌの失礼とさえ言える言動でもアンリがそれ以上気を悪くすることはなく、けれども不機嫌そうに鼻だけ鳴らして空のコップを彼女から奪った。
――もしかしたら彼はものすごく優しい人で、不機嫌そうなのは不器用だとか元からとかで、実は悪い人じゃないのかな。
ミシュリーヌはなぜだかそう思った。今の鼻を鳴らす仕草だって、好意的に見ればなかなか可愛らしい、と。常時不機嫌そうなのは単に人見知りなだけだと考えれば、存外いい人じゃないのかとも考える。
そもそも、森の中で行き倒れていた見知らぬ小娘を助け、介抱している。その時点でかなりいい人だと、ミシュリーヌは内心の疑問に結論を出した。
「…………」
「あ、ありがとう……」
またしても無言でコップを差し出すアンリ。無口な人なのかな、と彼に対する認識に付け加えつつ、ミシュリーヌはお礼を言う。アンリはプイと顔を背けた。
(……照れた……?)
すこぶる好意的に捉えればそうなる、とミシュリーヌは思ったが、しかしアンリの反応が不機嫌そうかつ素っ気なさすぎて判断に困る。
とはいえ悪い人間ではないだろうと思いながらミシュリーヌが水を飲んでいると、アンリはそれを待たずにどこかへ離れていった。
ミシュリーヌが寝かされているベッドから離れたところ。ちょうど部屋の反対側に、料理に使えるようなかまどがある。そこに乗せられた鍋の中になにか入っているようで、スープのようなそれを器によそうアンリ。
まごうことなき食事だ。ミシュリーヌがそう考えると、彼女のお腹がみっともなく音を立てた。
(……う、お腹空いた……)
ここに来て空腹を自覚し、ミシュリーヌは口を引き結ぶ。距離が空いているのでアンリに今の音は届いていないだろうが、しかし一人の乙女として恥ずかしいものがあった。
――けれどどうしてこのタイミングでスープなぞ用意するのか。用意したのは一人分、スプーンも一つだけのようで、まさか彼が食べるわけでもないだろうな。もしかすると自分にくれるのだろうか、だとしたらなんていい人だろう。
そう思ったミシュリーヌの予想は正しかった。
「…………」
再び無言で、コップの時と同じく差し出すアンリ。それを奪い取りたい欲求をなんとか堪えて、ミシュリーヌは自身の中の良識に従って行動した。
すなわち、「そこまでしてもらうのは悪いから」との遠慮である。
「え、で、でも……」
「…………」
しかしアンリは聞かなかった。急かすようにスープを入れた器をミシュリーヌに突き出し、コップの時のように彼女は思わず受け取る。
「……あ、あの……?」
「変なものは入れてない。毒味しろってのか?」
「い、いや、そうじゃなくって……」
ここでもコップの時のように、ミシュリーヌはアンリを上目遣いで伺った。痺れを切らしたのか、アンリは不機嫌そうにそう言う。しかしミシュリーヌが言いたいのはそういうことではない。
ミシュリーヌが言いたいのは、どうして自分にここまでしてくれるのか。理由のない善意を受け取ってもいいのだろうかという、知らない相手に対する警戒と不安だ。
タダより高いものはない。善意を受け取ることへの感謝よりも、「なぜ」という疑問が先に立つのである。
「ど、どうして……」
「……別に、いいだろ。俺の勝手だ」
ミシュリーヌが絞り出すように尋ねると、アンリは顔を逸らしながら答えた。言い返せず、ミシュリーヌは押し黙る。
やがて空腹にも耐えきれなくなり、ミシュリーヌは食前の祈りも忘れてスープを口にした。じんわりと染み渡るような塩味と、ほんのり効かせられた肉の出汁。自然と感嘆の息が漏れ、ミシュリーヌの口が緩んだ。
「……美味しい」
アンリは顔を逸らしていた角度を更に深くし、ミシュリーヌから完全に顔を背けた。恥ずかしかったのかな、とミシュリーヌは分析するものの、空腹には抗えない。
コップの水の時のようにみるみるスープは消えていき、その勢いを見てミシュリーヌの腹の空き具合を察したアンリが彼女から空の器を奪い取る。すぐにもう一杯スープをよそって持ってきて、三たび無言でミシュリーヌに差し出した。
(……やっぱり、いい人だ)
今度は具材も入っていた二杯目のスープもすぐに食べ切って、ミシュリーヌは嘆息する。空腹というのもあるだろうが、作ったアンリの力量もあるのだろう。ミシュリーヌにはスープがとてつもなく美味しく感じられ、同時にアンリへの感謝も浮かび上がる。
「……ほんとうに、ありがとう。助けてくれて、ご飯まで」
三杯目は遠慮して、ミシュリーヌはアンリへ真摯に頭を下げた。腹が脹れて視野も広がって、そうしてようやく部屋の外が真っ暗なことに気がついた彼女。ミシュリーヌの礼には、そんな夜中に自身を介抱してくれたことへの感謝も含まれている。
「……いい」
いつまでも頭を下げ続けるミシュリーヌに、アンリは素っ気ない。礼の言葉にはそれだけで、そこから命令口調の指示が続く。
「今日はそのまま寝てろ。あと、俺はしばらく出てるから、その布と水で身体拭いとけ」
「えっ、あ……」
言うだけ言って、アンリは部屋から出ていった。すぐに土の上を歩く足音に変わるので、その場所は部屋というよりも小屋なのだろう。
ミシュリーヌは、アンリの示した布と水に目を向ける。桶になみなみと入れられた綺麗な水と、多少使い古されてはいるもののこちらも綺麗な布。ミシュリーヌが目覚めてから準備していた姿はないので、彼女が目覚める前から用意していたのだろう。
(……すごい、いい人だ)
事前にスープを作ったり、身を清める布と水を用意したり。ミシュリーヌが着ている服も汚れていたはずだが、そちらも随分綺麗になっている。しかし服が乱れていることもないので、脱がせたというわけでもないようだ。アンリがミシュリーヌへ気を使ったことが伺えた。
(……ほんとに、ほんとにすごくいい人だ)
――彼による端々の気遣いはすさまじい。不機嫌そうだが有無を言わさない口調は、自分を気遣ったが故の口調だったのだろう。
ミシュリーヌはそう結論し、布と水をありがたく使わせてもらいながら……アンリへどう恩返しをしたらいいのか、そもそもお互いに自己紹介も全然していない、と焦る。
「いたっ……」
森を歩く最中についた傷が痛んだが、なんとか身体を拭いて綺麗になった。代わりに布と水が汚れてしまって申し訳なくなったが、勝手に歩き回るのもダメだろうと片付けは自粛して。ミシュリーヌはアンリのことを考え始める。
(……まずは、自己紹介。なんとか名前を聞き出して、休ませてもらったあとは家に帰って、なんとかお礼をしないと……)
ミシュリーヌの実家は平民向けの服飾店を営んでいる。店主である両親や、切り盛りしている姉に頼み込んで商品を融通してもらったりも考えられる。
ミシュリーヌがそうして今後の算段を立てていると、アンリが出ていった扉が開かれた。現れるのは、当然と言うべきかアンリである。
「あ、あのっ、ほんとに、今日はありがとう! わ、私は、ミシュリーヌ・アルファンって言って、そのっ……!」
「あなたの名前を聞かせて」。
そう願い出るミシュリーヌに、アンリは、
「どうでもいいだろ、名前なんて。お前の名前も覚えないし、俺の名前も知らなくていい」
「……え?」
不機嫌そうに、無愛想に――信じられないくらい、酷く冷たく。
アンリは、ミシュリーヌの言葉を切って捨てるのだった。