悪鬼との遭遇/蛮勇の代価
馬車が横転する。
鼓膜が破れそうな音。全身に殴られたような痛み。傷から流れる赤い血。
全てが一瞬の事だった。
体中が痛むが、傷の程度は軽い。
すぐに立ち上がり混濁した意識の中で状況を理解しようと周囲を見渡す。
メイドは既に立ち、少し離れた一点を睨んでいる。
5体程度であろうか。緑色の悪鬼が、そこにはいた。
見るだけでわかる。直感が教えてくれる。
彼らが敵意を持っていること。容易に、いつでも自分を殺すことが出来る事を。
そして、容赦などしてくれないであろうことを。
あれが...オーク。
心の中で反芻する。"もし見かけたら絶対に逃げろ"
そう言いつけられていた。約束は守らなければならない。
しかし、
御者の少女-アムケムを小脇に抱えた悪鬼が走り去る姿が視界の隅を掠める。
メイドが睨んでいる連中とは逆方向に。
樹海へと向かって。
ここからでも視認出来る。結界に、街へ向かう時は無かったはずの小さな穴が開いている。
あそこから樹海へと帰っていくつもりなのだろう。
"オークを見かけたら絶対に逃げろ!"
今一度頭の中で言いつけを反芻する。
しかし、その約束を守るには、少女は少しばかり正義感が強すぎた。
「オラなら追える!」
「ダメですイール様!!!」
少女は振り返らない。聞こえていても、もはや脚を止めることなど出来なかった。
メイドが睨みつけているオーク達は動かない。
恐らくこちらの動向を警戒しているのであろう。
こちらも迂闊に動くわけにはいかない。
こうしていなければ彼らの内の誰かが間違いなく少女を追いかけに走るだろう。
結果的に、エリナは少女の姿が樹海の奥に消えるのを見つめていることしか出来なかった。
彼らが動き出す。こちらへ向かって...
メイドもじりじりと彼らとの距離を縮める。
そして、言う。
「ここで退いてくれる、というならあなた方を傷つける必要もないのですが。」
彼らは答えない。邪悪な笑みを浮かべながらまだ接近してくる。
メイドがふっと溜め息をつくと、腰の剣を抜く。
「今一度、忠告します。
死にたくなければ武器を捨ててそこで大人しくしていてください。」
剣を構えて最後の忠告を行う。
彼らからの返事はない。
いよいよ彼らも武器を構えた。
「では、仕方ありません。
こちらは、時間の無い身ですので。」
普通の人間ならば複数のオークを見れば全力で逃走するのが賢い選択である。
しかし、ここにいるのは普通の人間ではなくメイド。
だからこそ、剣を構え、彼らに飛び掛かるのだった...
樹海の中を走り抜ける。
少女を抱えた悪鬼を絶対に見失わないように。
敵との体格差は歴然であるが、その程度で諦められるほど少女は軽薄ではなかった。
木々が鬱蒼としていて視界が悪い。
このままでは見失う。そうすれば少女が、アムケムが死んでしまう。
見知った少女が死ぬ。それを思うとどれだけ脚が痛んでも走ることをやめる事が出来なかった。
例えそれが今日知り合っただけの人間であっても。
などと考えていると、突然目の前を走っていたオークが振り向き、足を止める。
「さぁ、その子を返してもらうべ!」
相手をじっと見つめて自身の身長に合った少し小さな剣を構える。
目の前の怪物は何も言わない。
動かない。ただこちらをニヤニヤと笑いながら見ているだけだ。
ふと、何かの存在に少女が気が付く。
反射的に体が動く。
右側へふわりと跳んで逃げると、先ほどまで自身が居た場所に棍棒が振り下ろされていた。
一瞬恐怖が体の中を走り抜けるが、次の行動の準備は予め出来ていた。
後ろを振り向くその勢いで相手の腹部があるであろう場所に突き刺す。
「浅い!?」
後ろにいるその悪鬼の外皮は、簡単には貫けなかった。
一瞬狼狽えたがすぐに状況に集中する。
しかし、この樹海ではその一瞬はあまりにも長かった。
右手を掴まれている。
とてもではないが少女には振りほどけない。
全身に寒気が走る。恐怖で思考などできなくなる。
逃げ出せない。打破するための、その策すら思いつかない。
怯えて自身の腕を掴んでいる者の顔を見つめると、笑っていた。
大きな口を醜く歪めて。
そして、棍棒が少女の頭に振り下ろされた。