初めての街/惨劇の予感
「街へ行きましょう。」
ある日、唐突にメイドが少女に告げた。
「...!」
イールは喜びのあまり言葉もなく感極まっている。
「やっと街に行ける!」
言葉の通りである。
楽しくはありつつも、やや退屈な日々に差した希望の光、それがお出かけである。
ようやく屋敷の奥を探検出来る。
無垢な年頃の少女にはこれこそが何よりも嬉しいイベントなのだ。
「こんにちは。」
感動のあまり天を仰いでいる少女に隣から挨拶を投げかけられた。
横を向く。
自分と同じくらいの年齢であろうか。
背は僅かながらイールの方が高い。
オレンジ色の髪。
赤い瞳。
紫色のフードを被っている。
「こんにちは。」
再び同じ挨拶を繰り返す。
「誰...?」
問う。
当然である。
屋敷から離れたことなど一度もない。
そんな狭い空間での生活を続けていたのだから、"外"の人間に出会ったのは初めてである。
「ふわぁ~、僕はアムケム。」
あくび交じりの間延びした自己紹介。
敵意がないことを伝えるにはある意味最良の選択肢だったであろう。
「オ、オラは...私はイールだべ。です。」
ぎこちないながらもきちんと挨拶を返す。
そして標準語で話そうとの努力までしている。
これまで教えた甲斐があった...!
もうこの時点でメイドは泣きそうである。
ポケットのハンカチに手を伸ばしたくてたまらない。
しかし時間は有限である。
このまま突っ立っていても始まらない為に説明を始める。
「先程もお聞きしたでしょうが、こちらは御者のアムケムさん。
イール様と同じぐらいのご年齢でしょうか。
とはいえ、幼いながらも仕事は確かです。
今日はこの方の馬車に同乗して一番近い街まで向かいます。」
「任せてもらっていいぜぃ」
また何とも締まらない話し方で自信ありげな事を言う。
本当に大丈夫だろうか?
あのメイドが太鼓判を押したのなら信用しないわけにもいかないのだが...
「では、よろしくお願い致します。」
メイドが軽くぺこりと頭を下げると、馬車にイールが乗るよう促す。
イールも続いてぎこちない礼をすると馬車に乗り込んだ。
「んじゃあ出発するぜぃ」
馬車が走り出す。
後ろに目をやると少しずつ見慣れた屋敷が小さくなっていく。
「そういえば、ノーラは?」
今更ながらメイドに尋ねる。
「これは私の仕事の一環ですし...
ノーラ様も一応、一応、お忙しい方ですから。
今回はお留守番です。」
そんな話をしていると小さな林を抜けて広い場所に出る。
太陽が眩しい。道がどこまでも続いている。
そして少し遠くに樹海と、遥かな空まで届く大結界が現れた。
「すごい...」
それしか言葉が出ないほどの絶景であった。
「お嬢ちゃん、この辺は初めてかぃ?」
御者が謎の口調で話しかける。
「屋敷の外に出るのは初めてだべ...です。」
「あのお屋敷の箱入り娘ってことかぃ。
かわいいねぇ。」
よくわからない世辞にイールは苦笑いする。
「街で変な奴に会ってもついてっちゃダメだぜぃ
気をつけないとねぇ。お互いさぁ。」
「う、うん気を付ける...」
アムケムの不思議な雰囲気に完全に翻弄されている。
それをメイドがにこにことしながら見つめていた。
あどけなさの残る幼い少女たちが戯れるのを見ていると心が洗われる。
一応業務中ではあるが、役得というに相応しい光景に彼女は満足していた。
願わくばもう少しこの光景を眺めていたかったが、楽しい時間はいつも短いものである。
「もう見えてきたぜぃ。
あれがお嬢さんのお屋敷の最寄街、アリアさ。」
そう言われ前方を見つめるとすぐ近くにその姿を確認できた。
「すごい...」
今日は初めて見る光景があまりに多くて言葉が出てこない。
「それだけかぃ?心底おったまげてるんだねぃ」
御者にとってはこの少女の反応の方が珍しかったのであろう。
馬車を止めるまでの間中けらけらと笑っていた...
「ほい、着いたぜぃ」
「さて、では行きましょうか。アリアに。」
少女が降り立つ。
初めての街に。
これまで見たことのない景色に。
「当たり前ですが...ここにいる間は私から離れないでくださいね。
すぐに迷子になってしまいますから。」
メイドが言うと、周囲をじろじろと見ながら小さくうなずく。
ちゃんと聞いてもらえただろうか?
とはいえ今回くらい、メイドは多少の失敗も大目に見ると決めていた。
何せ、彼女にとってはここでの何もかもが初めてのことなのだから...
楽しい時間は目まぐるしく過ぎていった。
珍しい物を取り揃えた雑貨屋。見たこともない果実の並んだ八百屋。
鼻腔をくすぐる香りを放っている料理店。
何もかもが屋敷の中では見られない新しいものだらけだった。
「そんなにたくさん買うの?」
荷物を重そうに抱えているメイドに向かって問いかける。
よろよろとしているが大丈夫なのだろうか。
「ええ、ここから屋敷までは距離があるので出来る限りまとめて揃えるようにしているのです。
こんな風に重くなってしまうのは難点ですが...」
荷物を一度地面に置くとイールに問いかける。
「どうでしたか?この街---アリアは。」
「すごかった!楽しかった!」
余程楽しかったのだろう。小躍りして喜びを表現している。
「今度は大都市までお連れするのもいいですね。
ここよりももっとすごいものがたくさん見つかりますよ。」
「大都市...行きたい!」
イールは更に興奮して叫ぶ。大都市はここよりも更に凄い、その一言で遥か彼方の地に思いを馳せずにはいられなかった。
「また一緒に行きましょう。」
メイドがにこりと優しく微笑む。
少女が楽し気に飛び跳ねるのを見ていると不思議と自分も笑顔になってしまう。
「では、今日はこの辺で終わりにしましょうか。
夜になると危ないですから。
馬車に戻りましょう。」
馬車に戻ると御者も既に乗り込んで二人の帰りを待っていた。
「おや、楽しい一日は終わりかぃ?
どうだった、この街は?」
「すごかった!見たことない物だらけでびっくりした!!」
「おやおや元気がいいねぃ
じゃあ積もる話は走りながら聞こうかねぇ」
二人が馬車に乗ると手綱を握り、馬を走らせる。
「よく見ときなぁ
夕暮れ時のアリアは絶景だぜぃ」
言うが早いか、イールが体を翻して少しずつ小さくなっていく街の影を眺める。
「きれい...」
感動のあまり言葉は少なくなってしまう。
最後まで楽し気なイールの姿を見てメイドが微笑む。
馬車に乗った三人はいずれもが明るい笑顔を見せていた。
この後起こる事件など想像する余地もなかった。
夕暮れ時、遠くで鳥の鳴く声がする。
沈みかけて尚、眩しい夕日が彼らを照らしていた。
彼らをじっと見つめて。
そして、馬車から少し離れた位置で蠢く黒い影すらも夕陽だけはじっと見ていた...
血のように赤い、夕陽だけが。