桃の木
(一)
季節は、やっと冬到来の十一月半ばを迎えていた。近年は季節の歯車が少しづつ軋みだし、温暖化は地球のいたるところにひたひたと迫り、ある日、突然牙を剥いて人類たちに襲いかかってくるに違いない。地球人たちの視線は崩れつつある足元ではなく、遠い先の未来に国の損得勘定を絡めて先延ばしにしている蜃気楼にある。そんな危うい季節にコートを着るには早すぎる暖かい日、黒のセーターにジーパンといういでたちの若者が気ぜわしげに、新宿歌舞伎町の裏通りを足早に歩いていた。その若者は古ぼけた小さな喫茶店の前に来ると、勢いよくドアを開けた。黒い格子戸に磨り硝子がはめ込まれているドアは、小さな悲鳴を上げて微かに震えた。レトロ調というにはおこがましい喫茶店は、間口は狭いが細長く、良く言えば京町屋風とでも言おうか。
「おおい、慎太朗。ここだ」
細長い店の一番奥にあるテーブル席で、原田誠が軽く手を上げた。そして、やっと来たのかいう文句が口をついてでた。
「遅いじゃん、まだ、寝てたんだろう。まったく優雅だよなぁ、暇人は。俺はお前と違って忙しいんだからな。ああ、ホットでよかっただろう。面倒くさいから頼んじゃったよ」
誠が、やや冷めかけたブラックコーヒーを無造作に高島慎太朗のほうへ押しやると、不安定な一本足のテーブルが微妙に揺れて、カップに黒く細い筋を作った。
「俺だって、いろいろ忙しいんだぜ。何だよ、話って。話ならアパートで話しゃいいじゃねぇか。わざわざこんなとこに呼び出すことねえじゃん」
慎太朗が大あくびをしながら乱暴に腰掛けると、小振りな椅子がその重みに耐え切れず、ぎりりと軋む音がした。そんな慎太朗を軽く睨みながら、誠は声のトーンを極力落として話し始めた。まるでスパイ映画さながらの雰囲気を醸し出している。
店と同様くたびれたテーブルに肘をつき、身を乗り出さんばかりの男は、小柄な誠を威圧しそうな体格の持ち主である慎太朗だ。慎太朗は小声で話す誠の言葉を聞き漏らすまいと、ことさら顔を誠に近づけた。平日の、しかも午前九時過ぎの喫茶店は閑散として、客は誠と慎太朗の二人だけだった。マスターも入り口近くのカウンターで、暇そうに新聞を広げている。それでもなお、誠はあたりを窺うように周囲に目を配らせている。
「何言ってんだよ。俺が帰る頃には、おまえは寝てんじゃねえか、いびきかいてよぉ。そんなことより、いいかぁ、よぉく聞けよ。昨日店の女の子から仕入れた話だけどよぉ、その子のアパートのそばに老夫婦が住んでるんだと。いっつも二人して庭の手入れや家の前の道路なんかを、ちまちまと掃除してるらしいんだ。そんとき、たまたま通りがかったその子と目が合ってぇ挨拶したことから顔見知りになったんだと。そんでよぉ、それから時々話しするようになったってことよ。
まっ、年寄り夫婦のこったぁ、寂しいか、それとも暇持て余してたんじゃねえかぁ。それにさぁ、その子も人懐っこいからよ、誘われちゃあ上がり込んでお茶したり、飯食ったりするようになったって話しだぜぇ。まあ、そりゃどうでもいいんだけどよぉ、そんとき聞いた話らしんだけど、その老夫婦には一人娘がいたらしんだ。何でもよぉ、二十年位前に家出して、その後行方不明になっちまったんだと。何で家出したかまでは言わなかったらしんだが。まあ、家出の理由なんかどうでもいいけどぉ、その老夫婦にとっちゃ、やっと授かった一人娘だったらしいからよぉ、躍起になって、あっちこっち探しまくったんだがよぉ、見つからなかったんだと。もちろん、警察にも捜索願を出したらしいがよ。でもさぁ、家出人の捜索なんてサツが本気でやるわけねぇじゃん。まあ、せいぜいパソコンの捜索人届のファイルに入れるだけよ。それだって数が多すぎて白骨遺体でも出てきて初めてチェックするぐらいじゃねぇ。ほんでもよぉ、三ヶ月くらい前にさぁ、突然警察から、その娘が関西の方で死んでたとの連絡が入ったらしんだ。しかも驚いたのなんのって、何たって死んだのがよぉ、二十年位前のことだったって話だぜ。だからさぁ、その骨が娘のもんかどうかってこともあるし、DNAやなんやらでいろいろ大変だったらしいぜぇ。ほんとだったらよぉ、二十年もたってりゃ、今ごろはとっくに無縁仏の中に放り込まれちまってるぜ。それがよぉ、その頃の知り合いってぇのが、その娘の骨壷を大事に持ってたっていう話だから、まあ、運がよかったというかなんつうか」
誠は一旦話をきって、水で喉を潤した。まずは、最初の説明の段階を通過し、ちょっと落ち着いた気分になった。さあ、これからが大事とばかり本題に入ろうとすると、話の腰を折るように慎太朗が口を挟んできた。
「ふぅん、でもよぉ、その知り合いってやつ、何で二十年以上も他人の骨を後生大事に持ってたんだぁ。さっさと爺達に返してやればよかったのによぉ。持ってりぁ金になるってもんでもねえだろぅにさぁ。もっとも金になるんだったら、二十年前に金に換えてるだろうけどよぉ」
慎太朗は、至極当然な疑問だろうとばかり首を捻った。確かに、二十年は長い。
「何、馬鹿なこと言ってんだよぉ。骨だよ骨。有名人ならともかくよぉ、素人娘の骨が金になるわけねぇじゃん。それはなぁ、その娘が家出した時から偽名を使ってたってことらしくて、骨を持ってたやつが返せなかったって話だぜ」
「偽名かぁ。でもよう、偽名を使ってたってことは、よっぽどのことがあったんかぁ。もっとも家出したってこと自体、訳ありだよなぁ」
慎太朗は、ちょっと考えるような顔してからコーヒーを一口飲んだ。もっとも、訳ありの人間なんて、歌舞伎町界隈にはごまんといるだろう。
「まあ、そんなことはどうでもいいから俺の話を聞けっちゅうの。それでよぉ、今だからDNA鑑定ってやつで、その骨が娘のもんだとわかったってことよ。老夫婦にとっちゃ、骨が戻っただけでもラッキーじゃねぇかと思うけどよぉ、まあ、ショックはショックなんじゃん。それから二人して寝込んだかどうか知らねぇけど、めったに見かけなくなったらしいんだ。でもよぉ、俺はこの話を聞いたときピンときたね、これは金になるってね。いいかぁ、よぉく聞けよ。ここからが大事なんだからな。老夫婦は今、娘の死を知らされ、ショックでがっくりしてるんだ、だろう?でも、もしもだぜ、そんな時、娘に子供がいたとなったらどうなると思う。絶対、飛び跳ねて大喜びするぜぇ。何たって可愛い一人娘に子供がいたんだからなぁ。つまり孫だよ、孫。いいかぁ、話はこれからが重要なんだからな」
誠は話し続けて余程喉が渇いたのか、コップに残った水を一気に飲み干した。空になったコップをそっとテーブルに置くと、またしてもあたりを警戒するように視線を入り口のほうに向けた。マスターは、相変わらず新聞に目を落としている。それを確認すると、誠は話を続けた。
「つまりだなぁ、おまえがその孫として老夫婦の家に行くんだよ。むろん、多少の演技力は必要だがよぉ」
「おい、ちょっと待てよ。俺が孫になるだってぇ。なに言ってんだよ。俺がそんな爺むさい家なんか行くわけねぇだろう、ばかばかしい。冗談じゃねぇや。まったく何が金になるだよぉ。せっかく寝てたのに、こんな所まで呼び出しやがって」
慎太朗は、あまりのばかばかしさに、まともに話を聞いていた自分に腹が立った。こんなんなら電話を無視して寝てりゃよかったと内心ごちた。
「まあまあ、話は最後まで聞けって。その爺さんたちの家は中野にあるんだぜ。まっ、あんまりでかくないらしいがよぉ、そんでも都内なんだぞ。たとえ家がぼろでもさぁ、土地だけでも何千万か、うまくいきぁ一億位いくかもしんねぇぞ」
「だからどうだってぇんだ、ええっ。俺はあんたたちの孫だから、この家をくれとでも言うのかぁ。いくら人のいい爺さんでも、ああいいよぉなんて言うわけねぇだろう。第一、おまえがさっき言ったばかりじゃねぇかぁ。それこそ孫かどうかなんてDNAで一発だぜ」
「そこだよ、そこがおまえの演技力さぁ。泣きだよ泣き。年寄りは泣きに弱いんだぜ。今、娘のことでガックリしてるんだ。そんな時、孫が現れりゃ喜ぶぜぇ。何もすぐに金くれってわけじゃねぇんだから、即、DNA鑑定だなんて言わねぇよ。うまく取り入ってよぉ、しばらく一緒に住むんだよ。何たって人のいい年寄りらしいから、気に入られりゃこっちのもんさぁ。可愛い孫が金に困ってるって知ったら、家を売ってでも金を出してくれるぜぇ。たとえば、借金取りに追われててよぉ、金を払わなけりゃ殺されるぅとか言って泣きつけばよぉ」
「おまえマジでそんなこと考えてるんかぁ、うまくいくわけねぇだろう。大体、娘に子供がいたなんて話、いくら年寄りでも信じるわけねぇだろう。DNAと同じで調べりゃすぐわかるようなことじゃねぇか」
慎太朗は椅子にふんぞり返り、あきれたような表情を浮かべ、二十歳のわりには幼さの残る誠の顔をまじまじと眺めた。
原田誠と高島慎太朗は、滋賀県の、とある養護施設の出身だった。その養護施設は京都府からひと山越した小さな町にあり、自然だけは溢れ返っていた。小柄で甘いマスクの誠と図体がでかく精悍な顔つきの慎太朗は、体格も性格も相反していたが同年齢のせいもあってか、施設内では一番気が合っていた。要領よく立ち回る誠と正面きってぶつかる慎太朗は仲間を従え、近所の不良連中との喧嘩も一度や二度ではなかった。
「そこだよ。そこはおまえの過去をそのまま利用すればいいのさ。娘は不倫の末に一人で子供を産んだ。しかも偽名を使ってたから病院にも行けなかったってね。だが、自分一人では育てられずに養護施設の前に捨てたと。これなら娘に出産の記録が無くても不自然じゃないし、あとは娘の子だという証拠を何か作ればいいじゃねぇか。確か、おまえが捨てられていたときよぉ、手紙があったって聞いたことあるって言ってたじゃねぇか。それにさぁ、なんたって二十年以上も昔の話なんだし、家出してたんだからよぉ、親だってその頃の娘の生活がどんなふうだったかなんてわかりゃしないぜ。万が一、DNAでばれてもよぉ、やっと俺にも家族ができたと信じてたのにぃとか言って、涙でも見せればいいのさ。騙すつもりはなかったってね」
「まったく、そんなバカな話をよくでっちあげられるよなぁ。おまえってそういう悪知恵だけは昔っからよく浮かぶんだからなぁ。まあ、そんなにうまい話ならおまえが行きぁいいだろう。俺は降りるからな」
「何言ってんだよぉ。俺はその爺さんたちの話を店の子に聞いたんだぜ。ましてや、その子と爺さんたちは仲がいいんだ。アパートだって近いしなぁ。もし俺が孫だなんて言ってその家に入り込んだら、すぐばれてやばいだろう。大丈夫だって。何たって相手は年寄りなんだからさ。ほら、オレオレ詐欺だって簡単に騙されてくれるんだぜぇ。あんなみみっちい金より、がばあっと稼がなきゃ。女を口説く要領でやさしくしてやりゃいいんだよ。そうなりゃ、おまえは億万長者か少なくとも千万長者にはなれるんだぞ。こんなうまい話なんてめったにないぜ。幸いっていうか、おまえ、建築現場で喧嘩してクビになったばかりじゃん。いいかぁ、いまどき仕事なんか簡単に見つかりっこないって。よぉく考えてみろよ。さっ、俺はこれから仕事だから話の続きは帰ってからな。俺が帰るまで、ちゃぁんと起きてろよ。ああそうそう、これは俺がやっとあの子から仕入れた情報だぜぇ。まっ、あとはおまえの腕次第だな」
誠はひと通り話し終えると、喋り疲れたのか首を軽く回し、再度あたりを見やった。重要な情報を手に入れたスパイさながら鼻孔を膨らませ、やや得意げな表情をしている。それからおもむろにGジャンのポケットに手をやると、丸めてくしゃくしゃになっていた紙切れを、すばやく慎太朗に手渡した。慎太朗は、誠から受け取った薄汚れた紙切れを広げると、ミミズが這ったような下手くそな字で書かれている名前を読んだ。
その紙には住所の他に、野々宮寅之助 七十七歳、野々宮咲 七十五歳、野々宮桃子 四十二歳、と書いてあった。この桃子という名前が死んだ娘ということになるのだろう。
誠は慎太朗に紙切れを渡すと、言うべきことは済んだとばかりに伝票を掴み、じぁなと言い残してそそくさと店を出て行った。
残された慎太朗は冷めたコーヒーを飲み干し、あらためて紙切れに目を落とした。誠の無茶苦茶な計画が成功なんかするはずないだろうと思いつつ、あいつの言うように大金を掴むチャンスは二度とこないような気にもなっていた。何も年寄りに危害を加えるわけではない。お金だって誠の言うような金額を騙し取ろうと言うわけじゃない。慎太朗は自己弁護しつつも、決心はつきかねていた。
慎太朗と誠は滋賀県の地元の高校を卒業した後、二人そろって東京下町の自動車修理工場に就職した。初めての東京にわくわくしながら上京してきた日のことは、今でもはっきりと覚えている。関西とは違う空気感に少したじろいだのは、多分、言葉のイントネーションに違和感があったのだろう。しかし、憧れの東京で働くという夢と現実の厳しさに長続きせず、誠は二度ばかり転職したあと、現在、歌舞伎町にあるラーメン店で働いている。慎太朗の方は、体力と体格を生かして建築会社の作業員として働いていたが、年配の作業員をかばったことから現場監督と喧嘩して仕事を干され、三日前に誠のアパートへ転がり込んだばかりだった。焦る慎太朗の気持ちを見透かしたような誠の誘いであった。慎太朗は紙切れを四つ折にしてたたむと、Gパンの尻ポケットに無造作に押し込んだ。
「まあ、暇つぶしにちょっくら下見でもしてみっかぁ」
慎太朗は喫茶店を出ると、昨夜の歓楽街の名残をとどめる歌舞伎町を横切り、靖国通りの前に出た。
慎太朗は新宿の地下街へと続く階段を降り、東京メトロ丸の内線に向かって歩き出した。百八十五センチの長身と、がっしりとした体格の慎太朗が歩くとそれだけで、行き交う人々も何となく畏敬の眼差しを送ってきた。
(二)
「おーい、咲、こんなところに四つ葉のクローバーがあったぞ。こりゃいいことがあるかもしれんなぁ」
久し振りに庭の草取りをしていた野々宮寅之助は、むしった草の中からクローバーを見つけると嬉々として摘み上げ、縁側から奥に向って声をかけた。白髪の老人ながら、子供のような得意満面の表情をしている。そんな寅之助の背後から、小春日和のやわらかい日差しが縁側から入り、和室の奥まで足を延ばしていた。
「何ですか、大きな声を出して」
台所で洗い物をしていた野々宮咲は、濡れた手を前掛けで拭きながら縁側に出てきた。
「ほら見ろ、四つ葉のクローバーだぞ。こんなのはめったにないぞ」
得意げに差し出した手の平に、小さなクローバーがのっていた。
「いやですねぇ、子供みたいにはしゃいで」
そう言いながらも咲は、夫の手の平からそっとクローバーを摘み上げた。三ヶ月前に知らされた娘の死から、なかなか立ち直れずにいる自分を励まそうと、ことさら明るい声を上げる夫の心情を察し、咲は微笑んだ。
失踪して二十三年。心のどこかで生きていると信じることで、今まで生きてきたと言っても過言ではない。それが遺骨として戻ってきた娘に納得できぬ気持ちと、やっとという安堵感が入り交じった複雑な感情に苛まれていた。
「可愛いクローバーですね。そうだわ、これ、押し花にしましょうよ。二度と枯れないように」
咲はそれを大事そうにティシュに挟み、奥の和室にある仏壇横の棚に置くと、その上に分厚い本を二冊のせた。そして、それから仏壇に線香をあげ、手を合わせた。高校の制服を着た桃子の遺影は、そんな母にやさしい微笑みを送っている。そして仏壇の前には、まだ埋葬する気になれずにいる、白い布に包まれたままの桃子の遺骨が置かれてあった。
野々宮家は、東京メトロ丸の内線の中野富士見町駅から歩いて五分ほどのところにあった。表通りから少し奥まったところで、閑静な住宅街となっている。過去のバブル期も手伝ってか、お洒落な住宅が建ち並ぶ横道の一角に野々宮家が建っていた。築五十年以上経ってはいるが、今時の新建材と違い、派手さはないものの時間の経過とともに、言いも言われぬ重厚感が増してきたように見える。四十坪ほどの土地に、その重厚感溢れる平屋の木造家屋が足を踏ん張り、でんと構えていた。決して広いとは言えない庭には、所狭しと大小さまざまな木々がびっしりと植えられ、その足元には春になれば賑わいを見せるであろう花々が、今はひっそりとその出番を待っている。この時期かろうじて椿の赤い花が、冬枯れの寂しい庭に彩りを添えていた。そして、その庭のまわりを、東京では珍しくなった生け垣がぐるりと取り囲んでいる。
「おや、庭仕事かい、精が出るねぇ。ほい、回覧板だよ」
隣に住む山口さんは、生け垣の隙間からひょっこりと顔を出すと、回覧板をかかげてみせた。寅之助と同じような年齢の山口さんは、三年前に奥さんを亡くしてから一人暮らしを続けている。そんな寂しさも手伝ってか、年々元気をなくしていくようだった。
「おう、山口さん。ちょうどいいところに来たねぇ。今、一服しようと思ってたんだよ。どうかね、お茶でも」
「でも、折角やってるのに邪魔しちぁ」
「いいんだよ、わしもちょっと疲れたとこだったからねぇ。咲ぃ、山口さんがみえたから、お茶を入れてくれぇ」
「はいはい」と、台所のほうから咲の声が聞こえた。
山口さんは生け垣をぐるっと回ると横手の門から入り、庭に面した縁側にひょいと腰掛けた。そこへ咲がお盆に豆大福の皿とお茶をのせ、縁側に出てきた。
「山口さん、そんなところじゃなんだから、どうぞ座敷のほうへ上がって下さいな」
「いやいや、今日は天気がいいからここのほうがあったかいですよ。悪いねぇ、奥さん。いつもいつも」
山口さんは咲に向って軽く頭を下げた。山口さんとは、ここに家を建てた頃からの付き合いだ。近所付き合いが希薄になるご時世に、気心の知れた隣人がいることは、お互いに心強い関係だ。もちろん、ここで産まれた桃子のことはよく知っている。子供のいない山口さん夫婦は、桃子のことをとても可愛がっていた。それだけに今回の桃子のことは、寅之助夫婦の悲しみが手に取るように分かっていた。
「何言ってるんですか。この世はお互いさまですよ。うちだって桃子のことでは随分ご心配かけて。ねぇ、あなた」
「ああ、そうだとも。昔も今回のことも二人して取り乱してしまったからなぁ。山口さんが慰めてくれてありがたかったよ。もう、あれから二十年以上も経っちゃったからねぇ、あるいはって内心覚悟はしてたけど、いざ目の前に遺骨を置かれるとねぇ。ただ、まだ納骨する気にはならなくて。二十三年ぶりに帰ってこれたんだからゆっくりさせてあげたくてねぇ」
寅之助は座敷の奥の骨壷を振り返った。
「ああ、それがいい。桃ちゃんだってやっと親元に帰れてほっとしてるんだ、急ぐことはないよ。しばらくいさせてあげなくっちゃねぇ。ところでこの回覧板に書いてあったんだが、近頃変なやつがここらへんをうろついてるらしいよ。物騒な世の中だから気をつけなきゃなぁ。このあたりも、うちやお宅のような年寄所帯が結構多いからねぇ」
「そうそう、オレオレ詐欺とやらもあるしなぁ。しかし、うちじゃ男の子はいないし、唯一の娘まで死なれちゃったんだから騙されようがないよねぇ」
寅之助は湯飲みを持つ手を止めて、ふたたび骨壷を振り返り、寂しげに呟いた。
「いやぁ、野々宮さんだけじゃないよ。うちなんか子供もいなかったし、婆さんまでいなくなって」山口さんはそこまで言いおよぶと「だめだねぇ、年取ると愚痴っぽくなっちゃって。やっぱり夫婦そろって健康が一番だよ」と続けた。
「そうだわ、たまには一緒にお昼でもどうですか?なんにもないけどね。それにたまには愚痴でも言わなくっちゃストレスが溜まりますよ」
慎太朗は東京メトロ丸の内線の新宿駅から乗車、中野坂上駅で乗り換えて中野富士見町の駅で降りた。新宿から近いわりには初めて来たところであった。顔を上げて遠くに目をやると、新宿の超高層ビルが駅前のビルの谷間から少しだけ顔を覗かせている。
慎太朗はポケットから例の紙切れを取り出すと、書かれてある住所を確認した。電柱に張り付いている茶色の住所表示を見ながら、ぶらぶらと歩き出した。表示に従い横道にそれていくと、以外に早く住所の番号を探し当てた。あとはその近辺の表札を見てまわればいいだけである。駅から近い割には静かな住宅街で、今風のお洒落な家に挟まれた古い家屋がポツリポツリと点在していた。その古い家屋の中で、河原に落ちていそうな石を積み上げてできている門柱に、慎太朗が探していた表札がへばりついていた。木板に墨で書かれている野々宮の文字が、板と同化して見えにくくなっている。慎太朗は表札を確認すると、角地に建つ家の生け垣に沿って庭の方へ回ってみた。すると縁側に座り、お茶をすすりながら談笑していた三人の男女が、生け垣からぬうっと顔を出している慎太朗に、不信の眼差しを投げ掛けてきた。慎太朗は一瞬戸惑いながらもやや反射的に、頭をペコリと下げてしまった。まさか当の本人達にいきなり会うとは思わず来ただけに、この場を切り抜ける策さえ浮かばない。この時、慎太朗が浮かべた不安げな表情が、この後の話に真実味を加えることになる。
(三)
「高島さん、なんにもないけど、どうぞ食べて下さいね。山口さんもね」
「ああ、若い人の口には合わんかもしれんがねぇ。これは昨日の残り物でなんだけど、咲の煮しめは最高なんだよ。そうだ、咲、鳥の唐揚げがあったよなぁ。高島さんにはその方がいいんじゃないか?」
慎太朗は、数々の料理が並べられた座卓の前に座り、野々宮家の人達と食事を共にしていることに、不思議な思いを抱いていた。咄嗟に発した、桃子さんにお線香をあげさせて下さいとの一言で、この人のいい老夫婦は喜んで座敷に迎え入れ、食事まで用意してくれたのだ。慎太朗は熟考する間もなく、この家に入り込んでしまったのである。今更、赤の他人ですとも言いにくい。咲の煮しめは寅之助が誉めるだけのことはあり、慎太朗も感激するほどおいしかった。
食事も終わり、お茶が出てきたころあいを見計らって、慎太朗は話しを切り出した。野々宮夫婦も山口さんも真剣な表情に変っている。二十数年間、音信不通だった桃子のことが聞けるものと期待してのことだろう。
「実は、ここに来るべきかどうか悩んだんです。ただ、どうしても一度、母に会いたくて我慢ができなくなって」
「今なんて?」
「母って母親のことかい?まさか、桃子のことを言ってるんじゃないだろうね?」
咲と寅之助は思いがけない慎太朗の一言に、その後の言葉が続かない。しばらく無言のまま、へたり込んでいる。山口さんさえも言葉がでない。ここまできて引くにひけない状況の中、慎太朗はゆっくりと、そして言葉を選びながら続けた。
「俺は二十年前、滋賀県の養護施設の前に捨てられていたんです。もちろん誰の子かもわからずに。捨てた親を随分怨んだけど、そのうちどうでもよくなっちゃって。でも最近になって、母親の名前が野々宮桃子じゃないかと知ったんです。俺が捨てられていた時、おくるみに挟まれていた手紙があったことと、その後、電話があったことを最近聞いたもんで。俺が捨てられていた頃、その養護施設で働いていた遠藤さんっていう人が手紙を見たことがあると、吉永さんに話したんです。ああ、その吉永さんは、俺がいるとき世話してくれた養護施設の人なんだけど。それで、その手紙には、赤ん坊の名前が慎太朗だということ、この子の父親に内緒で生んだこと、一生懸命働いて必ず引き取りに行くのでよろしく頼むと書いてあったらしいんです。ただし、母親の名前は書いてなかったと言ってるそうなんですが。その手紙は遠藤さんが施設を辞めたころ、施設の職員がほとんど入れ替わったので、きっとその時のどさくさに紛れてなくなってしまったようだと言ってるそうです。それから、俺が捨てられて一ヶ月位たってから一度だけ、野々宮桃子という女性から慎太朗君への問い合わせがあったと言うんです。しかし電話は一回きりで、しかも慎太朗の母だと名乗ったわけでもなかったので、そのままになってしまったと。それが三ヶ月前、地元紙の片隅に二十三年ぶりに遺骨が親元へ返ったという小さな記事が載り、その名前が野々宮桃子だと知って驚き、遠藤さんが吉永さんに知らせ、吉永さんから俺に連絡がきたんです。ただ、昔のことでもあり、絶対に母親だという確証はないと言われました。でも、俺は野々宮桃子の名前を聞いたとき、母だと直感しました。たとえ死んでいても母に会いたい。その一心でここに来ました」
慎太朗はここまで一気に喋ると肩の力を抜き、軽く息を吐いた。我ながら、こんなに堂々と作り話ができるとは思ってもいなかったが、孤児であることや手紙のことなどは本当なので、すべてが嘘というわけではなかった。慎太朗が話し終わっても、三人は金縛りにあったようにピクリとも動かない。最初に口火を切ったのは寅之助だった。
「高島さん、何と言っていいか。あまりにも突然な話で。でも、よう見ると目のあたりが桃子にそっくりだ。なぁ、咲」
「ええ、ええ、本当に」
最後の言葉尻は涙声で、聞き取りにくかった。咲は遺骨の前に座ると手を合わせ、何やらぶつぶつと言い出した。
「桃ちゃんに子供がいたなんて。でも、ほんと、目のあたりが桃ちゃんそっくりだよ」
山口さんまでが何の疑いも持たずに言い出した。あまりにも簡単に三人が納得していることに、慎太朗自身が一番驚いた。誠から人のいい老人達とは聞いていたが、こんなにたやすく騙せるとは思ってもいなかったのだ。あまりの人の良さに慎太朗の方が躊躇し始めた。もともと年寄りにはやさしい慎太朗のことである。誠の話に乗せられたとはいえ、下見に来た段階でこういう状況になるとは予想していなかった。騙していることへの後ろめたさを感じ、慎太朗は一時でも早くこの場を立ち去りたかった。あとは、うまく言い逃れるしかない。
「今日ここに来て、本当によかったと思ってます。確かに桃子さんが母だという証拠はないんです。でも、写真を見、遺骨の前に座ると母のぬくもりを感じてホッとしました。お線香をあげさせてもらってうれしかったです。また、おいしい食事をありがとうございました」
慎太朗は心底そう思い、頭を下げてから立ち上がった。
「ちょっと待って下さらんか。まだ、わしらは混乱しております。二十三年間行方知れずだった娘が遺骨として戻り、さらにその娘に子供がいたと。高島さんは証拠がないとおっしゃったけど、本当に目のあたりが桃子にそっくりじゃ。お願いがあります。今夜一晩、時間を下さらんか?そして明日必ず、もう一度来てほしい。約束してもらえんだろうか?」
寅之助はあわてて腰を浮かすと、すがるような視線を慎太朗に寄越した。寅之助が何度も懇願するので、慎太朗もとうとう根負けし、明日来ることを約束して辞した。
その夜、寅之助と咲は骨壷を前に話し合っていた。
「なあ、咲。あの高島さんのこと、どう思うかね?」
「どうって、あなたはもう決めてるんでしょう、孫だって認めること。だって、顔に書いてありますよ」
「いや、そんなことはないよ。このことはわしの一存で決めるようなことじゃないからね。ただ、わしは高島さんが本当の孫かどうかより、本当の孫だと信じたいんだよ。確かに今の時代は年寄りを狙ったオレオレ詐欺なんかもあるが、高島さんは年寄りを騙すような人には見えないしね。それに、高島さんだって本当の孫だという証拠はないって正直に言ってるんだからねぇ。財産っていったって、この古い家と多少の貯蓄があるだけだし、これだってあの世に持って行けるわけじゃない。ここ数ヶ月、桃子が生きててくれたらって何度思ったことか。それに高島さんと話していると不思議な感じがするんだよね。彼は思いやりのあるやさしい人だ。たとえ一時でも一緒に暮らしてくれたらってね、ちょっとだけ夢を見たいのかもしれんが。もう人生だって先がみえてるからねぇ」
「じぁあ、もう決まりですねぇ。あなたと五十年以上も一緒にいるんだもの、以心伝心ですよ。私だって、高島さんが桃子の子供だと言ったとき、不思議と何の疑いも持ちませんでしたよ。本当かどうかなんかより桃子が私達に授けてくれたんだと思いましたわ。でも、高島さんが年寄りなんかと一緒に暮らしてくれますかねぇ」
「そうだねぇ、明日頼んでみようじゃないか。もし一緒に暮らせなくても、孫としてときどき来てくれたらそれだけでもいいじゃないか。わしらに孫がいる、そう考えるだけで幸せな気分になれそうだよ」
あくまでも人のいい野々宮夫婦は、二人の布団の真ん中に骨壷を置き、何十年か振りに川の字になって眠りについた。
(四)
慎太朗は中野富士見町の駅に降り立つと、迷わずに野々宮家へ向った。今日は、昨日話した孫かも知れないと言ったことは、自分の勘違いだったので忘れてくれるように頼むつもりでやって来た。
昨夜、誠が帰ってきたのは十二時頃だった。慎太朗が野々宮家での一部始終を話し終えると、「そりゃ大成功じゃん。おまえがそんなに演技派だとは知らんかったなぁ。あとはしばらく一緒に住んで、金を引き出すチャンスを待つだけだなぁ」と、言った。
「いや、俺は明日もう一度行って、勘違いだったと言うつもりだぜぇ」
「うっそぅ、おまえ馬鹿じゃん。いいかぁ、おまえは何も絶対に孫だなんて言ったわけじゃねぇんだろう。つまり、あっちが勝手に信じたんだ。だったらばれたって騙したことにはならねぇって。それにさぁ、前にも言ったけど、こんなにうまい話めったにねぇぜぇ。おまえにとっちゃあ最初で最後のチャンスかもしれねぇ」
「いいや、あれは俺の演技力でも何でもねぇ、おまえが言ったとおりさ、いや、それ以上かなぁ、めちゃ人のいい年寄りだぜ。とてもじゃないけど俺には爺さん達を騙せないぜ」
「ちぇっ、ほんとにおまえは変なとこ、お人好しなんだからなぁ。だからこの前みたいに会社をクビになったりするんだよ。あん時だって年寄りを庇ったんだろう。まっ、しょうがねぇな。それがおまえのいいとこかもなぁ」
簡単に慎太朗に同調してくれるところは、誠も悪にはなりきれない人のよさを持ち合わせているからだった。
昨日と同じ座卓を挟んで、慎太朗は野々宮夫婦と向かい合って座っていた。昨日の今日で、どんなふうに話を切り出そうかと考える間もなく寅之助が口火を切った。
「高島さん、わしらは夕べ一晩考えました。昨日は突然な話に混乱してしまって申し訳なかったが、わしらは高島さんが桃子の息子だと信じることにしました。いや、実際息子だと思っております。もちろん若い高島さんは、こんな年寄りと一緒に暮らしたいとは思わないだろうが、わしらは高島さんと一緒に暮らせたらなんて夢見ております」
「いや、ちょっと待って下さい。夢を見たのは俺のほうなんです。昨日も言ったように親なんていないもんだと思って生きてきたのが、突然、野々宮桃子という名前が出てきて舞い上がってしまって。でも、よくよく考えりゃたった一本の電話、それも二十年前のことだから不確かなことなんです。俺のことで色々迷惑かけちゃってすみませんでした。あのぅ、昨日のことは忘れて下さい」
慎太朗がぺこりと頭を下げると、そばで黙って聞いていた咲が突然泣き出した。慎太朗は驚いて咲のほうに顔を向けたが、何と声を掛けるべきか戸惑いながら何も言えずにいた。ひとしきり泣いた咲は、慎太朗にすがるような眼差しを向けた。
「ごめんなさいね、急に泣いてしまって驚かれたでしょう。昨夜は眠れなくてね。桃子の小さい頃のことが次から次へと思い出されて。私達は結婚してから、なかなか子供が授からなかったの。だから十年目にやっと生まれてくれた桃子は、私達にとってかけがえのない宝だったわ。桃子が泣いても笑っても、そう、あの子がいるだけで私達は幸せだったわ。それが二十三年前、突然あの子は私達の目の前からいなくなってしまった。信じられなかったわ。あんなにやさしい桃子が私達を置いて出て行くなんて。高島さん、お願です。一緒に暮らしてくれなくてもいいんです。高島さんには高島さんの生活がおありでしょうから。ただ、ご都合のいい日、月に一度でも三月に一度でもいらしていただけませんか。昨日みたいに一緒に食事するだけでも。高島さんにはご迷惑でしょうが年寄りには何かをしてあげられる、いえ、何かをしてあげられる人がいると思うだけでも幸せなんです」
慎太朗は、今まで誰かが自分を必要としているなんて考えたこともなかった。施設には、親から見捨てられたという共通点で結ばれた仲間はいた。もちろん、誠も。それは親から必要とされなかった自分達が、他人を必要とせず生きていく強さと負い目をかばい合う仲間で、頼り合うことではなかった。自分の存在が人を幸せにする。慎太朗は咲の目に浮かんだ哀願の眼差しに逆らうことができなかった。騙すつもりで乗り込んだ野々宮家に、こんなにも自分のことを必要としてくれる人達がいる。そう思った時、慎太朗は咲に肯いていた。
「ありがとうございます。でも、こんな俺が孫でいいのかなぁ。もし、俺にできることなら何でも言って下さい。力だけなら有り余ってるから」
「ありがとうだなんて私達から言うことですよ。ねえ、あなた。孫がいるだけで幸せですよねぇ」
「まったくだよ、高島さん。ああ、わしらに孫がいる。そう考えるだけでなんて幸せなんだろう。本当に長生きしてよかったよ。ありがとう」
寅之助の目にも、うっすらと涙が光っていた。
「ただ、ひとつだけお願いがあるんだけど」
「何でも言ってくれ。わしらにできることなら何でも」
慎太朗は人のいい野々宮夫婦の顔を交互に見ながら「俺のことを慎太朗って呼んで下さい。もう、孫なんだから」と、言った。
その日の夜は山口さんも加わって、慎太朗が孫となったお祝いの膳が設けられた。
「山口さん、わしらに孫ができたんだよ。桃子の息子の慎太朗だ」
「やっぱりねぇ。初めて会った時から桃ちゃんの子供だってすぐわかったよ。きっと、桃ちゃんだってほっとしてるよ」
「ええ、桃子が授けてくれた孫だもの。喜んでくれてるわ」
咲は遺骨を振り返りながら涙ぐんでいる。
「咲、折角のお祝いの席で泣いちゃいかんよ。慎太朗が困ってしまうじゃないか」
「ごめんなさい。でも、これは嬉し涙ですよ」
咲は泣き笑いのような顔で照れて見せた。
「おじいさん、おばあさん、俺だってこんなに嬉しい日は今までなかったからね」
慎太朗自身も、初めて家族を得た喜びを感じていた。たとえ擬似家族だとしても、家族のぬくもりは充分感じられたからだ。
寅之助も、自分のことをおじいさんと呼んでくれる孫ができた喜びで、いつになく陽気にはしゃいでいた。それでも遺骨に目を止めるとしんみりとした。
「そうだ、そろそろ桃子を墓にいれてやろう。このままずっと置いときたい気持ちだが、それでは桃子がいつになっても成仏できないだろうからね。慎太朗が来てくれたから桃子も安心してるだろう。どうだい、咲、慎太朗」
「そうですね、私達の寂しさのために、桃子をいつまでも置いとくのはかわいそうですね」
少し沈んだ表情になった二人に、山口さんは努めて明るく言った。
「二人ともそんな顔したら桃ちゃんだって安心できないよ。慎太朗さんと三人で幸せに暮らしていくことが、桃ちゃんが一番喜ぶことだと思うよ。ねぇ、慎太朗さん」
慎太朗は遺骨の置かれた仏壇の前に正座し、あらためて線香を立て、両手を合わせた。
「お母さん、安心して下さい。おじいさんとおばあさんは俺が必ず守りますから」
それを聞いた寅之助と咲は、声をあげて泣いてしまった。
(五)
一週間後、慎太朗は野々宮家の一員として生活を始めていた。いつまでも誠の部屋に居候している訳にもいかず、また、寅之助達の願いもあってのことだった。しかし、このまま無職というわけにもいかない。ある日、職探しに出かける慎太朗を寅之助が呼び止めた。
「慎太朗、ちょっといいかね。わしはいろいろ考えたんだが、今のご時世、なかなか職は見つからないだろう。だったらいっそのこと大学か専門学校にでも行って、資格を取ってみてはどうじゃ。もし、慎太朗にやりたいことがあるんなら。金のことなら何とかなるだろうし、ならなきゃこの家を売りゃいいことだ」
慎太朗は、あらためて人のいい寅之助の顔をまじまじと見つめた。初めて誠から偽孫の話を聞いた時、いくらなんでも簡単に金を出すような、そんなに人のいい年寄りがいるはずないだろうと言ったのだが、こちらから何も言わぬのに金を出すという寅之助を前に、慎太朗は少なからず騙そうとしていた自分を恥じた。
「大丈夫だよ、何とか探すから。それに、もし勉強したいことがあっても俺は自分で稼いで行くよ。俺にも守るべき家族がいるんだってことがとっても嬉しんだからさ」
慎太朗が探してきた仕事は前と同じで、建築現場の作業員だった。危険な仕事ではないのかと心配する寅之助と咲に、「大丈夫だよ。前にも経験してるし、体力勝負の仕事は俺に向いてると思うしね。それに今度は前みたいに、ただ使われているだけじゃないんだ。俺もいろいろ考えたんだけど、建築の仕事ってやってると面白いし、俺に向いてる気がするんだよ。だから働きながら建築の専門学校に通って、建築士の資格を取るつもりだよ。その時のためにも今の仕事が実務経験として役立つしね。いずれ俺の設計で、ここにおじいさんやおばあさんが暮らしやすい家を建てるからね。たとえ車椅子になっても快適に住める家をね。期待しててよ」と言って、またしても二人を感涙させた。
「ねえ、あなた。ついこの間まで桃子の遺骨を見ては泣いてたけど、今じゃ、慎太朗のお弁当や食事の献立、買い物やら結構忙しいし、また、それを考えたり作ったりするのが楽しくてねぇ。それに、桃子もやっと埋葬されて、ほっとしているでしょうからね。慎太朗が初めて来てからまだ一月しか経たないのに、ずっと一緒に住んでいたような気がしますよ。もうすぐお正月ですもの。来年のお正月は楽しくやりましょうね。今までのように湿ったお正月ではなく」
「ああ、それがいいね。今から咲の御節料理が楽しみだよ。山口さんも呼んでね。そうだ、理子ちゃんにも声をかけてみよう。慎太朗のことで何かと忙しかったから理子ちゃんにも会ってないしなぁ」
「そうですねぇ。でも、お正月は理子ちゃんも実家に帰るんじゃないかしら。今度、アパートのほうへ行ってみますわ」
「ああ、そうしてくれ。正月が無理でも、その前に来てくれってね。慎太朗のことも紹介しときたいからね」
「自慢の孫だから?ですか」
寅之助と咲は顔を見合わせて、ころころと笑った。
桃子がいなくなってから二十三年。声をあげて笑うことはほとんどなかったといってもいい。慎太朗が野々宮家に来てから寅之助と咲の生活は一変した。東京という大都会の真ん中にありながら、ここ野々宮家だけが、まるで時間が空回りしているかのようにひっそりとしていた。そして、そこにやってきた慎太朗という若者が、止まっていた時計の針を再び動かし始め、ひっそりとしていた空間を二十三年前の活気溢れる空間へと戻していったのである。
ある夜、慎太朗が帰宅すると、玄関先に見慣れぬ女性の靴が置いてあった。座敷からは若い華やいだ女性の声がする。珍しく来客かと思った慎太朗は、そっと台所から風呂場のほうへまわった。
「おお、慎太朗が帰ってきたか。咲、呼んでおいで」
寅之助の声も、いつもより弾んでいる。
慎太朗はまず風呂に入り、仕事で汚れた体を洗い流したあと、さっぱりとした服に着替えてから座敷に入った。
「おかえりぃ。慎太朗、待ってたぞ。こちらは三浦理子さんといってね、この近くのアパートに住んでる女性だよ。理子ちゃん、孫の慎太朗だ。よろしくね」
「お留守にお邪魔してます。三浦です。よろしくお願いします」
三浦理子はショートカットの髪にゆるくパーマをかけ、幼さが残るぽっちゃりとした顔に、二重の大きな目が印象的だった。
慎太朗は近くのアパートに住んでいると聞いた途端、誠の言ってた事を思い出していた。そもそも、誠が偽孫詐欺を考え付いたきっかけをもたらした女性に違いなかった。でも、今にしてみれば、この女性のおかげで野々宮の家族になれたのだった。ある意味感謝すべき相手ではあるが、自分と誠が友達だとばれたら偽孫詐欺のことを読まれるんじゃないかと、慎太朗は内心ひやひやしながら話し出した。
「えっ、ああ、こちらこそよろしく。いつも、おじいさんやおばあさんが話してるんだよ。すっごくいい子だって」
「あら、そんなこと。私のほうこそ可愛がってもらってるのよ。それに今、慎太朗さんのこと聞いてたの。やさしくて思いやりのある自慢の孫だってね。おじいちゃんもおばあちゃんもこれで幸せになれるわねぇ」
理子はくったくのない笑顔で、寅之助と咲を見た。二人もまた笑顔で理子に肯いている。
「さあ、飯にしよう。慎太朗も腹が空いただろう」
「あれっ、まだ食べてなかったの。食べててくれてよかったんだよ」
「いいのよ、慎太朗。私もおじいさんも慎太朗と一緒に食べたいんだから。それに、今日は理子ちゃんも一緒だから賑やかだわ。ねぇ、おじいさん」
「ああ、ほんとうだぁ。それから慎太朗。理子ちゃん、来年の正月は実家に帰らんそうだ。店が忙しいから休めんらしい。これで我が家の正月も賑やかになりそうだ。なあ、咲」
「ほんとうに。さあ、おじいさん、料理を運ぶから座卓の上を片付けて下さいな」
寅之助はいそいそと片付け始め、理子は手伝いますと言いながら台所に消えていった。慎太朗も動こうと腰を浮かしかけるのを寅之助が制止し、疲れて帰って来たんだから座っているようにと、肩先を押さえた。
慎太朗が憧れていた、家族の何気ない日常の風景がそこにあった。
(六)
新宿の夜は、クリスマス・イヴを祝う人達でいつにも増して賑やかだった。大きなプレゼントを抱え、クリスマスケーキを手に家路に急ぐ人。クリスマスソングに浮かれて騒ぐ人。クリスマスのイルミネーションにうっとりと見とれながら、ぴったり肩を寄せ合う二人。そんな人々の中に慎太朗と理子の姿があった。クリスマスは若いもん同士で過ごさにゃと、なかば強制的に寅之助から言われ、今夜のデートと相成った。理子も忙しい店を早めに出るには勇気がいったが、どういうわけか一緒に働いている原田誠が店長に掛け合ってくれたのだった。
三日前、久し振りに誠に会った慎太朗は、仕事に就いたこと、野々宮家で歓迎されていること、さらには隣の山口さんのことまでも話した。そして、最後に理子のことを言った。
「慎太朗、まさか俺のことを話してないだろうなぁ」
「もちろんだぜ。おまえと俺のことがばれたら例の話を疑われるからなぁ」
「でも、理子っていい子だろ。ぽちゃっとして可愛いしよぉ。俺達よりひとつ下とは思えないほど、しっかりしてるんだぜぇ。確か、福井のほうに親がいるはずだけどな。よく知らないけど苦労したらしいぞ」
「ひょっとすると、お前惚れてんのかぁ」
「ああ、俺に由紀がいなきゃ、今頃、俺の女になってるぜぇ。何だぁ、気にするとこみると慎太朗、お前のほうこそ惚れたなぁ。図星だろう?」
誠は上目づかいで慎太朗の顔を覗き込んだ。
「ばかぁ、この前会ったばかしでそんなわけないじゃねぇか。ただ、爺さんがよぉ、クリスマス・イヴに、どうしても理子を食事に誘えってうるさく言うんだよなぁ。たぶん理子のなかに娘をみてんじゃないかと思うんだけど。孫じゃなくて娘としてよぉ。婆さんも女同士の気安さがあるんじゃねぇのかなぁ」
慎太朗はこの前夕食を一緒にしたとき、野々宮夫婦が理子に対して近所の娘というより、桃子の面影を重ねてるんじゃないかと感じていた。桃子がいなくなった歳と同じせいかもしれない。
「ところでよぉ、クリスマス・イヴの夜なんだけど、理子の仕事、少し早く切り上げらんねぇかなぁ。恩に着るからよぉ」
「なるほどねぇ、やっぱ、おまえ理子のことを」
「だから、さっきも言ったじゃねぇか。爺さんがぁ…」
愚痴ともつかないたわいないことを言う慎太朗を、誠は寂しげに見ていた。慎太朗が野々宮家で暮らすようになってから今日初めて会ったのだが、その印象が随分変ったことに驚き、親から見捨てられた者同士の仲間意識が、たとえ擬似家族であっても家庭という居場所を得た慎太朗とのあいだで、薄れてしまったように感じていた。
慎太朗は横目でちらちらと理子を見ながら、どこで食べようか迷っていた。野郎同士で行くような居酒屋ならこの新宿で何軒も知ってるが、若い女が喜びそうな店となると思い付かない。しかも、今夜はクリスマス・イヴである。そこらへんのラーメン屋というわけにはいかないのである。もっとも、ラーメン屋で働いている理子に、ラーメンというわけにはいかないが。無言のまま新宿駅の西口にまわると、青梅街道に沿ってぶらぶらと歩いた。シティホテルがあったのでホテルで食事をと、ちょっくら考えたが、ラブホテルではないにしろホテルということで変に勘ぐられてもと、そのまま通り過ぎた。なにも慎太朗にしてみても、女の子との付き合いが初めてということではない。中学一年のとき、すでに女子高生とも経験ずみだし、その後も何人かの女の子と付き合ったことがある。ただ、今までの女の子達みたいに気安くできないのは、寅之助の「頼むぞ」の一言があるからだ。
横道にそれながら何軒かの店を覗いたがクリスマス・イヴということもあり、どこもいっぱいで断られてしまった。慎太朗は、やはりどこかの店を予約するべきだったと内心後悔しながら歩いていくと、こじんまりとしたレストランがあった。白い外壁に赤い窓枠が可愛く、若い女の子が好みそうなおしゃれな店だった。また断られるのではと思いながら扉を細めに開けて覗くと、駅から少し遠く離れているせいか店内はさほど混んでいなかった。慎太朗と理子はほっとして思わず顔を見合わせ、うなずきあった。天井に取り付けられた大きな銀色のベルから窓に向かって色とりどりのモールが吊り下がり、扉のすぐ横には白一色に塗りこめられたクリスマスツリーが置いてあった。クリスマスソングがやわらかく流れている店内はクリスマスの雰囲気に溢れ、若いカップルが大半を占めていた。本日の特別メニューとして書いてあったクリスマスコースを注文し終わると、理子のほうから話し始めた。
「慎太朗さん、今日はありがとう。でも、迷惑じゃなかった?おじいちゃんに頼まれたんでしょう?」
「いやぁ、迷惑なんてことないぜぇ。かえって理子ちゃんに迷惑かけたんじゃないかぁ。仕事だったんだろう今日。何しろ、爺さん達も言い出したら聞かないしなぁ」
「迷惑だなんて、そんなことないわ。それにね、今日の仕事のこと、店の男の子が店長に掛け合ってくれたのよ。その人、私の失敗も何かとカバーしてくれる、やさしい人なの」
今日のデートについて慎太朗は誠に頼んであったので、早退は事前に知っていたのだが、それでも忙しい時間帯に理子を連れ出すことを店長に掛け合ってくれた誠に感謝していた。
「わたしねぇ、東京に出てきてから一年位たったんだけどなかなか友達が出来なくてね。だから、今晩は誘ってくれてとっても嬉しかったわ。それにねぇ、野々宮さんのご夫婦にはいつも感謝してるのよ。アパートに住んでから声かけてくれたの、野々宮さんが初めてなのよ。私、田舎から出てきたから人に声かけるの気後れしちゃって。でも、都会ってそんなことにも無関心なんだよね」
「俺だって田舎もんだけど、都会の無関心がかえってありがたいって思うこともあるんだ。孤児だって偏見的な目で見られることもないしなぁ」
慎太朗はふと、滋賀の養護施設にいた頃を思い出した。何かあると、親のない子だからという偏見的な視線にさらされたのも一度や二度ではなかった。理子も福井のほうの出身で、色々苦労してたらしいという誠の話を思い出し、田舎の話題はそれとなく終わりにした。これ以上話が進めば、慎太朗自身、いやでも滋賀の養護施設から誠に繋がっていく気がしたからだった。
「ねえ、見て。可愛いわねぇ」
理子が声をあげたのは、白い大きな皿にツリーに見立てた香采を真ん中に置き、左右にエビを絡めたブロッコリーやキューリ、人参、セロリなどを細かく刻んで包んだ生ハム、バラの花のように作られたスモークサーモン、少量のキャビアをのせたスタッフドエッグ等をおしゃれに配し、粉雪のようにカッティングチーズを散らした前菜がでてきたときである。
「私ねぇ、家でクリスマスのお祝いってしたことなかったのよ、子供の頃から。もちろんケーキとか食べたことはあるけどね。だからね、友達が、家でクリスマスパーティをやるって言ってるのをそばで黙って聞いてるの、いいなぁって思いながら。あっ、ごめんね、クリスマスだっていうのに暗い話で。でも、このツリー、食べちゃうのもったいないみたいね」
理子はふたたびはしゃいだ声をあげて、サーモンのバラの花びらを口に運んだ。
慎太朗も、クリスマスは施設でみんなとケーキを食べたり歌ったりしただけで、家族で過ごすクリスマスの話を羨ましく、そして、少し妬ましく聞いていた子供時代だった。
「俺、来年から建築関係の専門学校に行こうと思ってんだぁ。資格とるのはすごく難しいと思うけどね。何もしないよりはいいしなぁ」
「偉いわねぇ、私なんか、毎日お店でラーメン配るだけで一日終わっちゃうもの。資格かぁ、いいなぁ」
「別に偉かねえよ。取れるかどうかわかんねえしなぁ。でも、やっと家族ができたんだ。それだけで、何ちゅうか、張り合いみたいなのはできるよなぁ。特に二人とも年だしよぉ」
慎太朗は偽孫から始まっても今では本当の家族と思っている。二人は俺が守らなきゃという思いが重荷ではなく、生きがいに繋がっていると考えていた。それは、野々宮夫婦が慎太朗に生きがいを感じているようにである。
最後に、雪だるまを模したアイスクリームのデザートを食べ終わると店を出て、何となく新宿中央公園に向って歩き出した。夜の十時を過ぎた公園は、クリスマスの魔法にかけられた恋人達の楽園と化している。今にも雪が降り出しそうな寒さの中でも、しっかりと抱き合う男女がベンチを占領していた。そんな中を並んで歩く慎太朗達のほうが、やや浮いている感じだった。理子も視線の矛先に苦慮している。
「なんか、降ってきそうだな。帰るかぁ」
二人して今来た道を戻りかけると本格的に雪が降り出してきた。慎太朗は雪から守ろうと、自分のコートで理子を包みこんだ。小柄な理子は慎太朗のコートの中にすっぽりとおさまり、慎太朗は自然と理子を抱くような形になった。
「寒くないかぁ」
「うん、大丈夫」
「今度さぁ、映画でも行かないか?」
「うん、嬉し…」
あとの言葉は慎太朗の唇が塞いでしまった。
(七)
春の到来を告げる桃の濃いピンク色の花が、野々宮家の庭先に咲き誇った。
「咲、今年の桃の花はいつになくきれいだねぇ」
「ほんとうに。桃子の気持ちがそのまま花に乗り移ったみたい。でも、早いですねぇ、賑やかだった正月が昨日のことみたいだわ」
「ああ、あんなに楽しかった正月は何年ぶり、いいや、何十年ぶりだったかなぁ」
「理子ちゃんも来てくれて。そうそう、慎太朗、時々、理子ちゃんと出かけてるみたいですよ。理子ちゃんみたいなお嫁さんが、慎太朗のところに来てくれたら嬉しいですねぇ」
「お前も気が早いねぇ。慎太朗はまだ二十歳だよ。理子ちゃんだって、まだ、十九歳じゃないか。それに来月から慎太朗は学校なんだろう」
「そうなんですけどねぇ、大丈夫かしら。仕事だって大変なのにさらに夜学へ通うなんて。もし、体でも壊したらって思うと心配でねぇ」
咲は軽く溜息をついた。
「慎太朗が決めたことじゃ。あとは年寄りのわしらにできることで応援してあげようじゃないか。そういえば、咲の弁当はいつもうまいって慎太朗は感激してたぞ。そうだ、今度の彼岸のおはぎ作りはわしも手伝おう」
「はいはい、助かりますよ」
「なんだぁ、その言い方はぁ、ひょっとすると邪魔だとか思ってるんじゃないか」
「そんなことないですよ。今年はたくさん作って桃子に会いに行かなきゃねぇ。三人で行けば桃子も喜びますよ。それに山口さんや理子ちゃんにもあげなきゃならないから、お手伝いよろしくお願しますよ」
寅之助と咲は春になり、華やかになった庭を見ながら楽しげに話していた。四ヶ月前には考えられなかった話題が次から次と二人の口をついて出る。そんな幸せをかみしめていると、「きれいだねぇ」と、声がして、山口さんが顔を出した。
慎太朗が来たことで山口さんの生活にも変化が起きた。以前にもまして、野々宮家に出入りする回数が増えたからである。寅之助夫婦が、何かにつけて山口さんに声を掛けることが多くなったせいだった。一人暮らしの山口さんの寂しさを思いやってのこともあるが、慎太朗や理子の若い力が、年寄り達の生活に活気を取り戻させたことも一因だった。
「さあ、入って入って。今、咲と話してたんだよ。今年の桃の花は特別だってねぇ。きっと見てるわたしらのせいかもしれんがねぇ」
「それもあるだろうが、今年は特にみごとな花が咲いたなぁ。これは、やっぱり桃ちゃんの気持ちが表れてるんだよ。ほれ、去年とは花のつきかたが違うよ」
いつものように縁側に腰掛けた山口さんは、うっとりとした目付きで桃の花を見上げていた。
桃子が生まれた時、記念にと植えた桃の木が、四十年以上の歳月をこの庭で過ごしている。桃子の誕生、成長の喜び、そして、失踪してからの二十余年の悲しみと苦しみ、また、慎太朗がもたらしてくれた新たな喜び。その全てをこの庭先からじっと見守ってくれたこの木には、野々宮家の歴史が深く刻み込まれている。
「そうだ、ほら、向こうの通りの高橋さんから聞いたんだが、何でもこのあたりに高層マンションを建てる計画が持ち上がってるそうだよ。まあ、噂だからはっきりしないけどねぇ」
山口さんは急に思い出したように、視線を寅之助に戻して言った。
「高層マンションだって?まさかぁ。ここらあたりは駅前と違って住宅街じゃないかぁ。それに、そんな高層マンションを建てられるような広い場所だってないよ」
「そうですよ。それに、ここらに高層マンションなんか建ったら、近所中、日陰に入ってしまいますよ」
「いやぁ、単なる噂話ですよ。僕だって目の前に高層マンションなんかが建ったらいやですからねぇ」
山口さんは野々宮夫婦の強い反応にあわてて言い訳し、来月から夜学に通う慎太朗のほうへと話題を変えた。
だが、以外にも、マンション計画についての情報は、誠から慎太朗にもたらされていた。
その夜、また例の喫茶店で慎太朗は誠に会っていた。
「あれから理子とうまくやってるみたいだなぁ」
「なんでおまえが知ってんだよ。理子が何か言ってんのかぁ」
「まさかぁ、あの子は口が固いから言うわけないじゃん。彼氏の彼の字も言わないよ。でも、俺には女心がよくわかんのさ。まっ、少なくともおまえよりはよぉ。理子のやつ、前より幸せ一杯っていうオーラが溢れてるぜぇ。まあ、それはめでたくていいけどよぉ。それよりさぁ、おまえの家のほうに高層マンションを建てる計画があんの知ってるかぁ」
「高層マンションを?ほんとかよぉ」
「ああ、多分なぁ。この前、店が終わってから由紀とスナックに飲みに行ったんだけど、そこで一緒になった工務店の親父がよぉ、中野のほうで高層マンションを建てるんだと言ってたんだよ。まあ、酔っ払っていたから、最初は相手にしてなかったんだがよぉ、どうも話から察するとおまえの家のほうなんだよなぁ。まっ、最後は、カラオケなんぞ歌っちゃったりしたけどよぉ。それはともかく、親父が言うにはよぉ、何でも、一軒一軒つぶして建てるらしいから、かなりの額を出すらしいぞ。よかっただろう。これでおまえも、いよいよ億万長者に手が届くぜ。ちぃっとは俺にも回せよなぁ」
「何、馬鹿なこと言ってんだよぉ。あの家を爺さん達が手放すわけねえじゃん。もちろん俺だって手放すの反対するけどよぉ。でも、それってマジな話かぁ。その飲んだくれ親父の会社、どこだかわかんねぇかなぁ」
「さぁ、俺もこの前スナックで初めて会っただけだからなぁ。でも、ママに聞きゃわかるかもしんないけどよぉ。でも、聞いてどうすんだよ」
「もちろんマンション建設のこと、本当かどうか聞くんだよぉ。もし、本当だったら辞めさせなきゃ」
「うっそぅ、信じらんないぜ。棚ぼただぜぇ、棚ぼた。しかも騙して売らせんじゃないんだ。黙ってたって金が転がり込んでくるんだぜぇ」
誠は真剣な表情をして話す慎太朗をまじまじと眺めていた。確かに以前から親分肌なところはあったが、二人で馬鹿して遊び歩いていた頃の慎太朗より、一まわりも二まわりも大人になった気がして、自分が置いてきぼりをくったような、一抹の寂しさと焦りを感じていた。
「前にも言ったろぅ。今の俺には家よりもその中身が大事なんだよ。おまえだって由紀と結婚でもすりゃ、そんな気になるさぁ」
「さすが慎太朗だなぁ、するどいよ。実はよぉ、俺達、今度同棲することにしたんだぁ。別々に住んでるとアパート代もったいないしなぁ。まあ、いずれ結婚でもしてみっかぁとは考えてるけどよぉ、まずは、金を貯めなきゃな。いつかは自分の店も出したいしぃ」
「えっ、おまえラーメン屋を出すんかぁ」
「まだまだ先の話だよ。夢で終わるかもしんないしなぁ」
「そんときはよぉ、ラーメンただで食わせろよな。応援するからよぉ」
「ただで食って何が応援だよ」
建築士を目指す慎太朗とラーメン店を出す夢を持つ誠。それぞれの二十歳は、自分の道への第一歩を踏み出していた。
(八)
今日は日曜日。夢の中を彷徨っている慎太朗に、枕元の携帯電話が早く出ろとばかりに、しつこく着信メロディを繰り返していた。手を伸ばして携帯を取り上げると、誠からだった。
「早いなぁ、何時だぁ」
寝ぼけた声を出す慎太朗に「何言ってんだよぉ、もう、十時だぜぇ、十時っ。俺なんか、とっくに仕事してんだからなぁ。忙しいんだから用件だけ言うぞ。この前さぁ、おまえが聞いてた工務店の名前だけど、安井だぜ。安井工務店」と、誠が大声で言った。電話の背後から聞こえる雑音は、誠が店から掛けているせいだろう。
「安井工務店?」
慎太朗は、おうむがえしに言ってから「場所わかるか?」と、聞いた。慎太朗は誠から場所を聞き出すと、サンキューと言って電話を切った。以前、桃子の部屋だった六畳間は、二十三年間手付かずのまま、いつ桃子が帰ってきてもいいように、常に掃除がなされていた。そうやって何十年もの間、寅之助夫婦は桃子の帰りを待ち続けていたに違いない。壁に貼られている黄ばんだ映画スターのポスターが、時の重さを物語っている。慎太朗はベッドの上で、軽く伸びをしてから立ち上がった。
慎太朗が座敷に顔を出すと「おお、起きたのか。まだ、寝ててもよかったんだぞ。休みの日ぐらい体を休めなきゃ持たんぞ」と、寅之助が庭から声をかけてきた。慎太朗はパジャマ姿のまま縁側にどっかりと腰を下し、ゆっくりと庭を眺めまわした。桃の花は桜の花に季節を譲り、いまは緑の葉だけが春風に揺れている。桃子の誕生がこの夫婦にとってどんな思いだったのか、この桃の木が伝えているような気がした。何がなんでもこの木を守ってみせる、慎太朗は心のなかに強い決意を漲らせていた。
咲の用意してくれた朝食を食べ終わると、慎太朗はちょっと出かけてくるからと言い残して家を出た。向かう先は誠が教えてくれた安井工務店である。日曜だから休みだろうと思ったが、場所だけでも確認しておきたかった。道路を挟んで大きなデパートやホテルが陣取る新宿駅南口から、歩いて十分ほどの小さな雑居ビルの一階が安井工務店となっていた。新しいビルが連なる表通りと違い、一本入っただけの裏通りには、古くて小さなビルがやたら目につく。
ガラス戸に印刷された『安井工務店』の金文字の隙間から、ちらっと動く人影が見えた。慎太朗がガラス戸を軽く叩くと、中から五十代半ばとおぼしき小柄な男が警戒心をあらわにした顔をして出てきた。
「何か用か。今日は休みだぞ」と、威圧するような低い声を出したが、目の前に立ちはだかる慎太朗の、えもいわれぬ迫力ある存在感に圧倒されたのか、「今、忙しんだけど」と、声のトーンを少し下げた。
「ああ、すみません。お休みかと思ったけど人影が見えたもんで。ここの社長さんですか?」
「ああ、で、何の用?」
「ひとつ聞きたいことがあって」
「何を?」
「中野にできるマンションのことだけど」
慎太朗の一言で、社長の安井は慌てた様子をみせた。この反応に慎太朗は、マンション建設に関して秘密裏に遂行されていると感じた。
「まあ、ちょっと中に入ってくれ」と、慎太朗を招じ入れた社長は、先に奥へと歩いていった。
照明の消された薄暗い事務所にくたびれた事務机がいくつか並び、その奥に、いかにも安物とおぼしき応接セットが置かれた部屋に通された。窓際に、やや大きめの事務机が置いてあるところをみると、どうやらここは社長室らしい。安井は、ずんぐりむっくりした体をソファに沈め、慎太朗にも座るように指差した。油断のならぬ相手だと思ってか、慎太朗への視線が鋭い。
「ところでさっきの話だけど、どこから聞いたんだ?」
「どこからって、どうしてですか?」
「あの話はまだ決まったわけじゃないからさ。だからあんまり公に騒いでもらっては困るんだよ。そうじゃなくても変な噂が流れてるんだからな」
「変な噂って?」
「そんなことどうでもいいだろう。それより、おまえの名前は?」
「ああ、すみません。俺は高島慎太朗と言います」
慎太朗はやや下手に出て、事の真相を聞き出そうとした。
「高島?知らんなぁ。それでさっきのことだけど。マンションの件、誰から聞いたんだ」
「社長ですよ。覚えてませんかぁ。この前、スナックで一緒に飲んだり、歌ったりしたじゃありませんか」
慎太朗は誠から聞いたスナックでの状況を思い浮かべながら言った。初めは敬遠してた誠だったが、マンション計画が中野ということで興味を持ち、最後のほうは社長の奢りとやらで、一緒にカラオケまで歌ったということだった。
「俺と?」
「ええ、かなり酔ってたみたいだけど。その時、社長が言ったんですよ。中野で、でかいマンション建てるってね」
安井は考えるような顔付きになっていたが、結局、思い出せなかったらしい。
「それより、そのこととおまえは何の関係があるんだ」
「実は俺の家もあの近くなんで、もし、おいしい話なら直に聞きたいことがあるんだよなぁ。だから、どこのゼネコンがやるのか教えてくれないかぁ」
「いいか、さっきも言ったようにまだ決まった話じゃないんだ。下手に騒がれちゃ困るんだよ」
「でも、もう噂が出回ってるんだろう。それこそ騒ぎがでかくなる前にうまく収めた方がいいんじゃないか」
「おまえみたいな若造に収められるってのかぁ」
「さあ、ただ、話によっちゃあ何とかなるかもしれねぇ。こう見えても、そっちのほうにちょっとした伝があるしよぉ」
こういうときは慎太朗の仕事柄、手荒い連中との関わりには慣れていた。少しぐらい、はったりをかまさなくっちゃ足元をみられるのだ。安井は視線を宙に浮かしてしばらく考えるような仕草をみせていたが、意を決したように言った。
「いいか、絶対に他のやつに言うんじゃないぞ。俺んとこだってまだ正式に請負った訳じゃないんだからな」
マトバ建設は中堅のゼネコンだった。安井工務店は孫請け会社で、間には建栄という会社が入っているという。慎太朗もマトバ建設の名前は知っていたが、本社の住所など具体的なことは知らなかった。それでもマトバ建設の名前がわかっただけでも今日の収穫はあった。あと、住所を調べるのは簡単なことだからだ。それよりもマンション建設が実際に動き出したら、それを食止めるのは至難の業だということを慎太朗の短い現場経験でもわかる。建設業界は常に巨額の資金が絡んでくるからだ。どっちにしろ、今日は日曜日。明日にならなくては会社に連絡はつかないだろう。
慎太朗が腕時計を見ると一時を少し回っていた。ちょっと考えてから歌舞伎町のほうへと足を向けた。昼どきの新宿周辺は、日曜ということもあって平日よりさらに人通りが多い。人が人を呼ぶ、そんな雑踏の中をかき分けながら誠の働くラーメン屋の前に来た。間口が狭く古い店だが客が路上にまで溢れていた。誠曰く、味はけっこういけるし、今流行のこだわりの店ということで繁盛しているらしい。その行列に並び、慎太朗が店内に入れたのは三十分ほど経ってからだった。中はカウンターのみで、十人位で一杯になってしまうほど狭い。そのカウンターの内側には、店長らしき中年の男と誠、そして理子がいた。慎太朗が入った途端、理子が驚いたような表情を見せ、一瞬言葉を失ったようだったが、少し間をおいてから「いらっしゃい」と、商売的な声を張り上げた。誠も、ちらっと視線を寄越してから、「らっしゃい」と声をあげて忙しそうにラーメンを作り続けた。理子の就業時間は夜の八時までである。カウンターの端でラーメンを食べ終えた慎太朗は、精算時に代金とともに箸袋を理子に手渡して店を出た。箸袋に書いた八時の約束にまで、まだ、だいぶ時間がある。慎太朗は一旦家に帰ることにして東京メトロ丸の内線に向かって歩き出した。
「この辺に高層マンションが建つらしいって噂があるらしんだが、知ってたかぁ?」
家に戻ってお茶を飲んでいる慎太朗に、寅之助が聞いてきた。
「いや、俺は何も聞いてないけど。でも、おじいさん、その話、誰から聞いたの?」
「ああ、この前山口さんが来たときになぁ。何でも、山口さんは向こうの通りの高橋さんから聞いたらしんだが。まあ、噂らしんだがねぇ」
二人でそんな話をしているところに、ちょうど座敷に入ってきた咲も加わった。
「あら、でも、この前クリーニング屋さんに行った時ちょっと聞いてみたけど、そんな話聞いたことないって言ってたわ。あのクリーニング屋の奥さんが知らないんじゃ、やっぱり噂だけじゃないのかしらねぇ」
咲は二人の湯飲みに新しいお茶を注ぎながら言った。
「しかし火のないところに煙は立たないって昔から言うからねぇ。しかも、ここいらは駅から近いからマンション建設には狙われやすいんだよ。そうじゃなくても、この頃マンションが増えてるし。なぁ、慎太朗」
「そうだなぁ、確かにこの辺は駅から近いから、マンションの立地条件は整ってると思うよ。でも、高層マンションなんて俺は絶対反対だからね。お母さんの木は守らなきゃ」
「そりゃそうだよ。ここらへんも新しい家は増えたが、終戦直後から住んでる家だって多いんだ。まだ、畑ばっかりの時からねぇ。金じゃあ思い出は買えないよ。桃子だってここで生まれ育ったんだから」
それから三人揃って庭の桃の木を眺めた。慎太朗は桃の木を見ながら、マンション建設の噂をおじいさん達までが知っているとなると、早急に動かなけりゃのっぴきならぬ状態になりそうだと考えていた。一軒でも売却を承諾すると、あとは芋づる式に売却してしまう恐れがある。まずは、その風穴を開けさせないことが先決だ。そのためには一時でも早く、マトバ建設に掛け合うことが必要だった。慎太朗は明日の仕事を休む旨、会社に連絡を取った。
その晩、慎太朗は理子との待ち合わせのため、再度、新宿に出向いた。慎太朗は待ち合わせによく使うようになった、新宿駅東口前にあるビル五階の居酒屋で理子を待っていた。
「待ったぁ?」
広場を見ていた慎太朗の背後から理子の声がした。店から急いで来たのか、理子の頬が上気している。
「いや、俺もちょっと前に来たばかりだよ」そう言うと、注文を取りにきた若者に飲み物と料理を頼んだ。
「今日は驚いたわぁ。まさか、慎太朗さんがお店に来るなんて思わなかったから」
「いや、ちょっと新宿に出たから昼飯にラーメンでも食おうと思ってね。どうせなら理子の店に行ってみようって気になったんだよ。迷惑だったかぁ?」
「ううん、むしろ嬉しかったのよ。でも、今日は日曜日だったからメチャ忙しくてね。何にも話せなかったの。ごめんね」
「いいんだよ、理子の顔、見たかっただけなんだから」
慎太朗と理子は去年のクリスマス・イヴ以来、付き合い始めていた。だが、慎太朗は日曜日が休みだが、理子は客商売なので火曜日が休日となっている。その為、もっぱらデートは理子の仕事が終わった八時以降になっていた。
「実はねぇ、昨日、お母さんから手紙がきたの。田舎へ帰って来てくれないかって書いてあったわ」
「なんで?何かあったのか?」
慎太朗の問いにすぐには答えず、理子はちょっと考え込むような仕草で、窓のほうをじっと見つめていた。それから意を決したように、一言一言区切るように話し始めた。
「私の田舎ねぇ、福井の小さな漁村なの。母ひとり子ひとりだったのよ。父はねぇ、私が小さい時、五歳位だったのかなぁ、村の他人の奥さん、つまり、人妻よね。その人と手に手を取り合って、駆け落ちしたらしいのよ。私は、あんまり覚えてないんだけどね。父はその頃、村役場に勤めてたらしいわ。そして、その人妻も、役場に勤めていたんだって。二人が駆け落ちした後、お母さんはね、その人妻の旦那さんから、いろいろ責められたらしいし、小さな村だから、旦那に逃げられたのは女房のせいみたいに噂されてね。でも、それってお母さんのせいじゃないし、むしろ、お母さんだって被害者よね。それなのに、そんなにまで言われても、お母さん、村を離れなかったのよ。いつかは、お父さんが帰って来るって言ってね。お父さんが帰って来た時、家がなくなっていたら、困るだろうって。それから、お母さんは魚の行商や缶詰工場で働いたりして、私を育ててくれたのよ。今、こうして離れてみると、どんなにお母さんが苦労したのか、そして、そんな思いをしてまで私のこと、一生懸命育ててくれたんだって、とっても感謝してるの。ただ、一緒に暮らしている時はねぇ、私、私達母子を捨てた父を憎んでいたし、そんな父を、周りの中傷に耐えて待っているお母さんまでが、厭だったわ。だから、高校を卒業するとすぐに、東京に出てきたの。それがねぇ、お母さんの手紙によると、父が帰って来るらしいの。しかも、何かの病気らしくてね。きっと、病気になったから女に捨てられたんだわ。でも、お母さんったら、昔みたいに親子三人で暮らしたいって、書いてきたのよ。お人好しでしょう、馬鹿が付くくらい」
そう言いながら理子の目には涙が溢れ、鳴咽がもれた。慎太朗は理子の手を握り、理子の気持ちが落ち着くのを待った。
「俺、うらやましいと思うよ。親がいるだけでも」
「でも、慎太朗さんだって、お母さんは死んじゃったけど、あんなにやさしいおじいちゃんやおばあちゃんがいるじゃない。もっと早く巡り会えばよかっただろうけど。養護施設では辛かったんでしょう」
「いや、辛くなかったよ。食うものだってあったし、寝るところだってちゃんと確保されてるんだからね。職員の人達だってやさしかったし、仲間もいたしね。ただ、俺が一番悲しかったのは、自分が誰だかわからなかったことさ」
慎太朗のほうも考えるような目つきをしてから、理子同様に意を決したように話し始めた。
「実は俺、騙すつもりだったんだ。あの爺さんや婆さんを」
「騙すって?」
「理子の店の誠、俺と同じ養護施設で育った友達なんだ。誠が理子から桃子さんの遺骨が見つかって両親がショックを受けている話を聞いて、俺にその桃子さんの孫になりすまし、いずれ家でも乗っ取ったら金になるって言ってきたんだ。俺は、その話に乗るつもりはなかったんだけど、その時仕事をポシャッちゃって暇だったんだぁ。それで何となく下見のつもりで家を見に行ったら、爺さん達に捕まっちゃってよぉ、咄嗟に線香だけでもあげさせてくれって言って家に上がったら、昼飯まで食わしてくれて。人のいい年寄りだって聞いてたけど、いいなんてもんじゃなかったよ。こりゃとてもじゃないけど騙せねぇって思ってすぐ退散しようとしたけど、俺のこと孫だって信じたいって泣かれちゃってね。俺も初めて家族ができたなんて思っちゃったんだよねぇ」
「でも、結局、慎太朗さんはおじいちゃん達を騙せなかったんでしょう。でも、原田さんが慎太朗さんの友達だったなんてぜんぜん気が付かなかったわ」
「あっ、でも、誤解しないでくれよ。誠も本当は気のいいやつなんだ。たまたま俺が仕事を干されてあいつのアパートに転がり込んだもんだから、変なこと考えたんだと思うんだ」
「わかってるってぇ。わたしは二年近くも一緒に働いてるんだから。悪ぶるところもあるけど根は正直でとってもやさしい人だわ。それに、おじいちゃん達だって慎太朗さんが来てくれてとっても幸せだって、いつも言ってるのよ。きっかけはともかく、桃子さんの遺骨が見付かったときの二人とは比べようもないくらい、今、生き生きしてるもの。でもこのことは、おじいちゃん達には絶対に言わないからね」
「ああ、ありがとう。でも、いつかは俺からはっきりと言おうと思ってるよ。ところでさっきの話だけど、理子は田舎に帰るのか?」
「正直、迷ってるの。慎太朗さん、どう思う?」
「俺はさっきも言ったように、親がいるだけで、理子が羨ましいからねぇ。親孝行なんて親がいなきゃ出来ないことだからなぁ。でも、今は爺孝行ができるよなぁ」
慎太朗は笑いながら理子を見た。
「なあ、理子。一度、田舎に帰ってきたらどうだ。なにもずっと住めとは言わないけどよぉ。理子もさっき言っただろう。今なら母親の気持ちがわかるってさぁ。それにしても、理子のお袋さん、よっぽど親父さんに惚れてんだなぁ。男冥利に尽きるよ、そんな女と結婚したら」
「そうね、わかったわ、わたし一度、田舎に帰ってくるわ。慎太朗さんの言うとおりよね、両親がいるだけで幸せなんだものねぇ」
慎太朗も理子も自分達の過去をさらけ出すことで、より一層強く結びついたようだった。慎太朗が誘えば肉体的にも結ばれるであろうが、慎太朗は今までの女達のように、簡単に肉体関係を持ちたくはなかった。
(九)
マトバ建設の本社は、中央線の四谷駅から歩いて十分くらいの所にある、七階建の自社ビルだった。さすが建設会社の本社だけあって、黒光りする石を交互に積み上げたような豪華な造りのビルだった。慎太朗が正面玄関の自動扉から中に入ると真正面に曲線を描いた受付があり、若い女性がにっこりと微笑んでいた。
「的場社長にお会いしたいんですが」
慎太朗がいきなり社長に面会を求めると、案の定、戸惑った表情を浮かべた。こういうときは、慎太朗の若さがかえって不信感を与えてしまうことがある。
「申し訳ございませんが、ここに貴社名とお名前をお書きいただけますか?」と、それでも丁寧に言い、受付簿を差し出した。慎太朗は名前の欄に野々宮慎太朗と書いた。名字を野々宮にしたのは、あのあたりの家を調べられた時、高島ではあの地区にはなかったからだ。それでもスムーズに通してはくれないだろうと覚悟してきた。そのときは、マンション建設反対運動を起すぞっと言ってみるつもりだった。それに反対運動については嘘ではない。実際、話が決着をみないときは反対運動を起こす覚悟でいたからだ。受付嬢は慎太朗の名前を確認すると、下を向いて何やら見ていた。
「失礼ですが、的場とはお約束を頂いておりますでしょうか?」
受付嬢は慎太朗の顔を見上げ、相変わらず丁寧な口調で言いながらも、今度は完全に警戒するような視線に変っている。多分、受付の下に置かれた社長の来客予定リストに、慎太朗の名前が載ってなかったからだろう。
「いいえ、でも、中野のマンション建設について、ぜひとも話がしたいと伝えてもらえませんか?」
マンション建設の一言が効いたのか、受付嬢はあちこちに電話をしていた。そして、「申し訳ございませんが、ただいま的場が来客中ですので、あちらのソファでお待ちいただけませんか?」と言い、フロアーの一角にある応接セットを指差した。
しばらく待たされてから、紺のスーツに身を包んだ五十がらみの紳士が現れた。ひと目で総務の、たぶん秘書課長かとおぼしき男だった。
「お待たせ致しまして申し訳ございません。的場がお会いしますので、どうぞこちらにいらして下さい」
慎太朗は来客中と言われた時点で、こりゃ難しいなと思っていたので、会うと言われて少し拍子抜けした感があった。社長室は最上階の七階にあった。もちろん、社長室直行のエレベーターが備わっている。七階のエレベーターの扉が開くと、そこから廊下に向かって、濃いワイン色のジュータンが敷き詰めてあり、お洒落な壁紙には高価そうな絵が何枚も飾られ、さすが他の階とは違って、ゴージャスな雰囲気だった。その先の重厚感ある木製の扉を開けると、先程の男が奥に向かって「社長、野々宮様をお連れしました」と、言った。
さすが社長室のソファだけあって、大柄な慎太朗でもゆったりと座れる豪勢な作りであった。マホガニーのテーブルを挟んで立っていた的場は、先程の秘書と同じような年格好だが、社長としての余裕なのか、物腰態度がゆったりとしている。背は慎太朗よりも少し低いが、それでも年代的には高い方だろう。柔和な表情でも眼光は鋭く、ひとかたならぬ男のようだ。慎太朗に座るように手まねきすると、自分もゆっくりと腰を下した。
「野々宮慎太朗君と言ったね。と、いうことは桃子さんの息子さん?」
慎太朗は、マンション建設反対について話をしに来たはずが、的場からいきなり桃子の名前が出たことで、足元をすくわれたような感じだった。慎太朗は野々宮慎太朗と名乗った以上、桃子の息子で通すしかないと思った。
「ええ、でも、何故母のことを?母のことを知ってるんですか?」
予想外の展開に、慎太朗は戸惑いを隠せない。的場は慎太朗の問いには答えずに続けた。
「君はマンション建設について話があると言ったんだよね。本当にそれだけ?桃子さんに聞いて来たんじゃないの?」
「いいえ、母は二十年前に亡くなりました」
「えっ」
的場はその瞬間、言葉を失ったように押し黙ったまま、身じろぎもしなかった。ショックで青ざめている的場の表情に、慎太朗は的場と桃子の関係にただならぬ気配を感じた。
「あのう、さっき言った母とのことですが」
無言の数分間が過ぎてから、慎太朗は尋ねてみた。
「ああ、昔のことでね。悪いが、このあと会議の予定が入ってるからあまり時間がないんだ。ところで君が言ってたマンションの件だけど」
的場は意図的に、桃子の話をそらすような言い方をした。慎太朗は桃子のことについて、もっと突っ込んで聞いてみたかったのだが、なにせ桃子の話が出てくるとは予想もせず、慎太朗自身、混乱していた。
「あなたの会社が中野に計画している高層マンションの建設をやめていただきたいと思って、今日伺ったんです。あの家には祖父母や母の思い出が詰まっています。それにうちだけじゃなくまわりの家だって。それがマンション建設によって家を失ったり、日陰になったりしたら、そこに住む人達の生活も暗くなってしまうんです。もし、強引に建設を実行するようなら、俺はマンション建設反対運動を起します」
慎太朗はこのことをもっと強い口調で言うつもりだったが、桃子と的場のことが気になり、やや迫力に欠けてしまった。しかし、的場のほうも気はそぞろで、「わかりました。マンションの件に関しては、もう一度、検討してみましょう」と、これまた、いとも簡単に、おとなしく引き下がった。再度、連絡をするということで慎太朗は会社を後にした。
慎太朗は自分の中にある、もやもやとした気持ちを整理するために、的場の会社から四谷駅に向かう途中にあった喫茶店に入った。ホットコーヒーを注文すると隅のテーブルに座り、先程の的場とのやり取りを思い返していた。的場は桃子のことを知っていた。しかし、死んだことを知らなかった。と、いうことは、ここ何十年かは会っていないことになる。確か、桃子は十九歳のときに家出したと聞いている。家出の原因について聞いたことはなかった。どんな事情であれ、あまり言いたくないことだろうと思っての事だった。的場は桃子の死を知らなかった。だから的場は桃子と、桃子が家出する前、つまり十九歳以前に会ったのか、あるいは、家出そのものに関係してるのか。家出そのものに関係しているとしたら、原因が的場にあるということだ。駆け落ち?慎太朗は考えがそこに至ると、そのことに確信を深めた。あとは寅之助達に確認するしかない。もし、慎太朗の考えが正しいとしたら、寅之助達にとって的場の名前は聞きたくもないに違いなかった。それでも的場に出会ってしまった以上、このままにしておくことは慎太朗にはできなかった。
寅之助と咲は、慎太朗の口から的場の名前が出ると、案の定、苦渋の表情を滲ませた。慎太朗は二人の反応に一瞬後悔したが、また気を取り直した。
「おじいさん、おばあさん、ごめん。俺はこのことについて聞くべきかどうか悩んだけど、俺が孫として一緒に生活をしていくにはどうしても知っておきたい、いや、知らなくてはならないと思ったんだ。桃子の息子として」
「慎太朗、お前の言う通りなんじゃ。隠し通せることじゃない。もっと早く、一緒に暮らし始めた時に言うべきだった。ただ、あのことは、わしらにとっては思い出したくない過去だったんだよ。
あれは桃子が十八の頃だった。まだ、高校生だった桃子は、渋谷の本屋でアルバイトを始めたんだよ。前にも話したが、桃子はやっと授かった娘だったせいか、どうしても過保護になりやすかった。アルバイトをしたいと桃子が言い出した時も、内心反対だったんだよ。渋谷はなんとなく危ない気がしてねぇ。しかし、いつまでも子供扱いしてもと思ったんだよ。それに本屋ということで、なんとなく安心してしまったのかねぇ、わしらは短時間ならって許してしまったんだ。しかし、そのわしらが知らない時間に、桃子は的場と出会ってしまったんだ。マトバ建設の社長の息子だった慎一とね。年齢が一回りも上で、尚且つ、女房持ちだった男と。もちろん、わしらは大反対したんだよ。向こうの家に何度も足を運んだしね。慎一の女房は、人の夫を取ったと桃子を非難し、ただ泣き喚くだけだった。そんな修羅場のさなか、桃子と慎一は駆け落ちしてしまったんだよ。ショックなんてもんじゃなかった。だが、向こうの女房を責めるわけにもいかないし、親達は息子も大人なんだから、責任は息子にあるの一点張りでね。わしらは警察を初め、いろいろな機関に協力を求め探し回ったよ。だが誘拐とは違って、自ら家出した娘を真剣に探してくれるところはなかったんだ。
あれから二十三年、わしらも年を取り、諦めにも似た日々を過ごしていたとき、京都府警から遺骨が見つかったとの連絡が入ったんだよ」
寅之助はそこまで話すと、うっすらと涙を浮かべた。隣で話を聞いていた咲は、当時を思い出したのか、鳴咽をあげている。
慎太朗は自分の考えが正しかったと改めて思っていたが、二人の過去の傷痕を曝け出させたことを少し後悔していた。
桃子が的場と駆け落ちしていた。この事実と的場の名前の慎一が妙に引っ掛かっていた。初めて誠が偽孫詐欺を言い出した時、孫の存在を強引に納得させる手立てを考えていた。その手立てのひとつが手紙の存在だった。まさかとは思いつつも、自分が施設前に捨てられた時期や施設の場所が京都に近い滋賀県であったこと、今は紛失してしまったという手紙に書かれていた慎太朗という名前が、慎一から一字とったのではという疑問。初めて桃子の写真を見た時に感じた自分の中に沸いた懐かしさ。しかし、そのときは偽孫としての後ろめたさに掻き消されていた。しかし、今日的場に会った時にも同じように感じた。それは理屈ではなく、体を流れる血による本能みたいな感じだった。一度芽生えたこの疑惑が、慎太朗のなかでどんどん膨らんでいった。いまや慎太朗の胸中は、マンション建設よりも、桃子の過去と自分の出生への疑問がしだいに大きく占めてきた。
的場慎一は七階の窓から、下の道路を見下ろしていた。車道と歩道の境に植えられたケヤキの木が、早春の風を受けて気持ちよさそうにさざめきあっている。そして、その下を行き交う車も人も、春の陽光に心なしか浮き足立って見える。
的場はソファに戻り、ついさっきまで慎太朗が座っていた椅子に腰をおろした。秘書を通して会いたいと言ってきた野々宮慎太朗。
的場が二十数年ぶりに聞いた野々宮桃子の名前が、桃子の息子と名乗る若者の口から出てくるとは思ってもみなかった。ましてや、当の桃子はすでに二十年前に死んでいるという。的場はあまりのショックに居たたまれなくなり、会議を理由に慎太朗を追い返してしまった。あのまま平静に、慎太朗と話を続けられる心境ではなかったからだ。
野々宮桃子。的場にとって決して忘れられない女性。五十四年の人生で、あれほど愛した女はいなかった。的場は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。突然訪れた悲しみは、人から泣くことすら奪ってしまうようだった。
二十四年前、マトバ建設は町工場に毛が生えたくらいの小規模な建設会社で、当時、本社は渋谷にあった。社長の的場恭三は、上場会社の仲間入りを夢見て、やや強引な経営を押し進めていた。三十歳目前だった一人息子の慎一と大手銀行の支店長の娘との縁談を決めたのも、そんな思惑があってのことだった。父親の経営するマトバ建設で働いていた慎一は、まさに社長のどら息子そのもので、営業部長とは名ばかりで仕事に託けては毎日遊んで暮らしていた。結婚についても父親の言いなりで、自分の人生にさえ無関心だった。そんな慎一と妻の幸江との結婚生活が上手くいくはずもなかった。惰性的な生活を送っていた頃、渋谷の本屋でアルバイトをしていた桃子に出会った。建築の勉強をもっと真面目にやれとの恭三の命令で、仕方なく建築に関する本を買いに行った時だった。
「建築の本って難しそうですね」
笑顔で話し掛けてきた桃子は、まだ幼さの残る高校生だった。その桃子の笑顔に引かれ、慎一は本屋に足げく通い、桃子とのデートにこぎつけたのである。
「慎一さんって大人ですよねぇ。やさしくて、しっかりしてるんだもの。私なんか甘ったれで世間知らずだから」
桃子は、何も疑うことを知らない純粋無垢な娘だった。慎一は桃子を騙すつもりはなかったが、女房のいることをどうしても言い出せ得なかった。初めて自分を認め、頼ってくれた娘を失いたくなかったから。でも、そんな慎一の自己中心的な愛がいづれ恭三や幸江に知れ、桃子の両親をも巻き込んでの修羅場になっていったのである。一度走り出した、あの時の慎一と桃子を止めることは誰にもできなかった。あとは、二人で駆け落ちというシナリオを描いていったのである。
二人で暮らしたのは、京都山科の古い小さなアパートだった。運送会社の運転手として初めて肉体労働を経験した慎一と、和菓子屋の店員として働き始めた桃子の生活は、金銭的には苦しかったが、まるでおままごとのように楽しかった。しかし、一年後、恭三危篤の報が人づてに伝わり慎一が戻らざる得なくなり、実家に一旦戻った慎一の肩には否応もなく老いた母と病弱な妻、そして、社員とその家族の生活が懸かっていった。慎一が実家に戻った三日後、安心したのか恭三は眠るように息を引き取った。葬儀や雑務を片付けてから、まずは桃子に会わねばと山科に戻った時、そのアパートに桃子の姿はなかった。慎一は桃子がてっきり野々宮の家に戻ったものと思い込み、桃子のためにもこれでよかったんだと、またしても自己中心的な判断を下していた。その後の桃子に何があったのか知る由もないが、慎太朗と名乗った若者が、自分と桃子の間に出来た子供ではないかとの疑いは、今、確信となって慎一の心に響いている。病弱な妻との間に子供はなく、もしそうならば慎一の血を分けた唯一の子供である。あの精悍な顔付きは自分に、そして、やさしいまなざしは桃子そっくりだった。
的場は秘書の角倉を呼ぶと、中野のマンション建設計画書を持ってくるように指示した。分厚い計画書の建設予定地を確認した的場は、「この計画は、すでに手配済なのかね?」と、聞いた。
「いいえ、これから一軒づつ廻る予定にしておりますが」
「そうか。では一旦この計画を凍結してくれたまえ。事後処理については、いずれ私から指示を出すからね」
「はい、わかりました」
角倉は小会社だったマトバ建設の先代社長の時代から、秘書として仕えてきた。社長のどら息子と言われていた慎一だったが、先代亡き後、会社をここまで大きくさせたのは、バブルの時代背景とともに、慎一の手腕によるところが大きいといつも感心していた。それには一度こうと決めたら後には引かない慎一の一徹さが、この業界での信頼に繋がっていたからだった。その的場が、一人の若者の出現によって、いとも簡単に建設計画を撤廃させることに、角倉は奇妙な安堵感と不安感を抱いていた。安堵感のほうは、的場に仕事以外の人間性を垣間見た思いがしたことで、不安感は、会社経営における的場の手腕が後退するのではとの危惧からきている。いずれにせよ、計画が具体的に動き出す前でよかったと胸を撫で下ろした。
(十)
話したいことがあると理子が言ってきたのは、慎太朗がマトバ建設に行ってから一週間程経った時である。待ち合わせの時間は、いつものように理子の仕事が終わった夜の八時過ぎ。場所もいつもの居酒屋だった。慎太朗にも言いたいことは沢山あった。ひょっとしたら、俺はマジで桃子と的場の間に出来た息子では?と、雲を掴むような思いに囚われた慎太朗は、野々宮夫婦を前に本当のことを話したのだった。自分が野々宮家の財産を目当てに、孫と偽って来たことを。寅之助も咲も黙って慎太朗の話を聞いていた。
「慎太朗、お前はわしらを騙そうとはしなかったよ。だってあの時、お前は言っただろう。孫だという確証はないってね。しかも、わしらが引き止めなかったら、お前は帰ってしまって二度とこなかっただろう。お前は施設で育ったといったが、きっと、いい人達に囲まれてたんだろうねぇ。そうじゃなければ、年寄りにもやさしい人間に育つはずがないよ。あのとき、わしらは言ってたんだよ。慎太朗が本当の孫かどうかより、桃子がわしらに授けてくれたかけがえのない孫だってね」
しばらくしてから、慎太朗は的場の名前が慎一だということについて、ひょっとしたらとの考えを話した。
「そんな偶然なんてあるはずないとは思うけど、どうしても確かめたくなったんだ。たとえ違っても、俺はずっと野々宮の孫だから。ただ、俺は誰の子なんだ、自分は誰だという思いを、施設にいるときからずっと抱いていたんだ」
野々宮夫婦も慎太朗の思いに同意してくれ、桃子と自分とのDNA検査をすることにしたのだった。結果はまだきてなかったが、慎太朗は自分の内で桃子と慎一の子供だと確信していた。
「どうしたんだ?何か元気がないみたいだけど、店で何かあったのか?」
慎太朗は、気のせいか青白く見える理子の顔を覗き込むようにして聞いた。慎太朗のほうもいろいろあって、ここ一週間位、理子と会う機会がなかった。
「ううん、仕事のことじゃないの。ほら、前に母からきた手紙のこと、話したでしょう。あれから私ね、慎太朗さんが言ったように田舎へ帰ってきたのよ。そしたらねぇ、父の病気、癌だったの。あともって半年って言われたわ。あの気丈な母までうろたえててね。慎太朗さんの言うように、やっぱり母は父のこと、愛し続けてたのね。今の私なら、人を愛するということがどういうことなのか、よくわかるわ」
理子は慎太朗をじっと見つめていた。慎太朗は黙って理子の肩を抱きしめた。さらに理子は、何かを決心したように思いつめた表情で続けた。
「それでね、私、帰ってからずっと考えてたの。そしてね、決めたのよ、田舎に帰ろうってね」
「ちょっと待てよ。俺は確かに田舎に帰ってきたらって言ったけど」
慎太朗は言葉が詰まったように、押し黙ってしまった。二人の間に、しばし沈黙の時間が流れていた。凍結した時間を崩したのは慎太朗のほうだった。
「うん、わかったよ。そうだね。確かに今、理子がいるべき場所はここじゃなくって両親のところだよね。親孝行って出来る時にしなきゃ、あとから後悔するからなぁ。それに、俺達にはこれから先、ずっと長い時間があるんだしね」
「でも、少し心配なのよ。今、私が田舎に帰ったら慎太朗さんの心が離れてしまいそうで」
理子は、消え入りそうな声で言い俯いた。
「ねぇ、理子。じぁあ何かぁ、確証がほしいのか、俺がお前を愛してるっていう」
「ううん、別にそんなんじゃあ」
「何言ってんだよぉ、理子の目の前にお手本があるだろう。愛するってどんなことかっていう」
「あら、それって母のこと言ってるの。じぁ、慎太朗さんも父みたいに他の女と」
「ばかぁ、いや待てよ、それもいいかもなぁ。理子が俺の事、いつまでも待っててくれるんなら」
「もおぅ」
理子は慎太朗をぶつまねをして、手を上げた。慎太朗はその手を掴んで自分の首に回すと、すばやく理子の唇を奪った。
慎太朗と桃子のDNA鑑定の結果がでたのは次の日だった。届いた封筒を前に三人で顔を見合わせた。
「慎太朗、この結果がどうであれ、がっかりせんようになぁ。わしらは、お前が孫であることは、初めて会った時から変らんのだから」
「そうよ、万が一、結果が期待通りでなくても、絶対に出て行くなんて言わないわよねぇ」
「いやだなぁ、前にも言ったじゃない。どんな結果でも俺達は家族だよって」
慎太朗は、寅之助と咲を前に笑って見せてから封書を開けた。恐る恐る広げた紙面に、野々宮桃子と高島慎太朗のDNAによる親子関係の比率は九十九パーセントで、親子と認められると書かれてあった。たとえ血の繋がりがなくても家族であるとの思いはあったが、それが実際、科学的検査によって証明されたことで、三人の家族としての絆が一層強まった気がした。慎太朗も、自分のルーツがはっきりしたことで、長年自分の中にあったわだかまりが一瞬にして吹き飛んだ。
「やっぱりだぁ、やっぱり慎太朗は桃子の息子だったんだ。初めて会った時から桃子の息子だと確信してたんだよ。ねぇ、咲」
寅之助も、内心緊張していたのか、ほっとしたような表情で声を上げた。
「そうですとも、慎太朗の目は桃子そっくりだったからね。やっぱり桃子は、私達に孫を授けてくれたんですよ。そうだわ、今日は、慎太朗が孫として正式に認められた日ですもの。理子ちゃんや山口さんを呼んでお祝いしなくっちゃねぇ」
咲も、うれし涙で声が上ずっていた。
「それがいい。晴れて堂々と孫だと言えるんだからね。それに、慎太朗の戸籍も野々宮に入れなきゃなぁ。野々宮慎太朗か、うんうん、ぴったりの名前だねぇ」
野々宮夫婦が、あわただしくお祝いの準備にかかり始めたのを尻目に、慎太朗は父親について考えていた。父親には的場しか考えられなくなっていた。しかし、何故、桃子が自分を養護施設の前に捨てたのか。何故、桃子が若くしてこの世を去らなければならなかったのか。その時、的場はどうしてたのか。正式に桃子の息子として認められたうれしさとともに、自分の誕生に至った経緯を知らずにはいられなくなった。まずはもう一度、的場に会う必要がありそうだと慎太朗は考えていた。
その夜、慎太朗のDNA結果の朗報を伝えると、理子も山口さんも心底喜んでくれた。
「ほら、やっぱり慎太朗さんは桃ちゃんの子供だったよね。だって初めて会った時、目元が桃ちゃん、そっくりだったからね。でもすごいねぇ、今の時代は親子かどうか検査ではっきりとわかるんだねぇ」
山口さんは、手紙を見ながらしきりに感心していた。
「慎太朗さん、おめでとう。これで慎太朗さんがずっと気にかけていた、自分のルーツはっきりしたね。あっ、それからね、私、来週でお店をやめることにしたの」
「えっ、理子ちゃん、お店やめるの」
驚いたのは山口さんだけだった。寅之助と咲には慎太朗から伝えてあったのだ。
「そうなんだよ。理子ちゃんはね、親孝行なんだよ。田舎のお父さんがご病気でねぇ、看護にしばらく帰ることにしたんだそうだ。寂しくなるけど、何も外国に行くわけじゃないんだしねぇ」
それでも寅之助の口調は少し寂しげだ。
「おじいさん、今の時代、外国だってあっという間ですよ。ねぇ理子ちゃん、いつだって来れるよねぇ」と、言いながら咲も元気がない。
「おじいちゃん、おばあちゃん、山口さん、いろいろとお世話になりました。ありがとうございました。ちょっと遠くなるけど、また、ちょくちょく来ますので、その節はよろしくお願いします」
理子は、ちょこんと頭を下げた。
帰りに理子をアパートまで送った慎太朗は、「いいか、理子。お袋さんみたいに俺以外の男に惚れるなよ。俺が来いって言ったら、すぐに飛んで来いよ。そのかわり、理子がすぐ来てって言ったら、俺は仕事を放り投げても行くからな」と言い、いつもよりながい口づけをした。
(十一)
慎太朗が的場と再び会ったのは、理子が福井に旅立った日だった。夕方、上野駅で理子を見送った後、的場から指定された新宿西口の超高層ビル五十二階にあるレストランに向かった。レストランには少し早く着いたが、すでに的場の名前で予約がなされていた。通された個室は窓が大きく取られ、東京の夜景の煌きが光の海となって遠く静かに広がっている。慎太朗は的場を待つ間、初めて誠から偽孫詐欺について聞かされた時のことを思い返していた。誠が理子から野々宮家のことを聞かなければ。俺があのままほっといて下見に行かなければ。俺の心の奥底に常にあった自分の存在の不確かさからくる不安感。自分は誰だと叫びたくなる衝動感。家族を得た今、そのことがいかに心の中を大きく占めていたか感じていた。
「すまないねぇ、待たせちゃって。出掛けに何本か電話が入ってねぇ。まあ、まずは話の前に近づきの乾杯をしよう」
約束の時間を十分ほど遅れて来た的場は、持ってこさせたビールを慎太朗のグラスに注いだ。グラスを軽くあげて乾杯のあと、的場はおいしそうに一口飲んだ。
「話って、この前、君が言ってたマンション建設の件だよね。あれについてはまだ話の段階だったから、白紙に戻すように手配したから安心してくれ。まあ、ここに来る前に、その件で電話が入ったもんで、少し遅れちゃったんだが」
的場は何ということないような話ぷりだったが、図面をおこし、孫請けまで流れた仕事を白紙撤回するのは、並大抵のことではないということを、慎太朗にも分かっていた。そして、リスクを覚悟でそうさせた背景に桃子のこと、すなわち野々宮家への配慮があることも。
「ありがとうございました。これで祖父母を初め、近隣の人達も安心すると思います。今日はこの件についてのお願いもありましたが、もうひとつ、ぜひとも伺いたいことがあったんです。この間、会社に行った時、母の桃子を知ってると言ってましたよね。あの時、俺は何も知らなかったが、帰宅後に的場さんと母とのことを祖父達から聞きました。的場さんと駆け落ちした時、母はまだ十九歳だったんですよ。そして、その母を的場さんは捨てたんですよね」
慎太朗は穏やかに、しかし語尾には強い怒りにも似た感情が込められていた。慎太朗は、まだ幼さの残る母を見捨てた男として的場を許せなかった。
「待ってくれ。確かに桃子さんを捨てたと言われても弁解のしようがない。しかし、桃子さんが亡くなっていたなんて君から聞くまで本当に知らなかったんだ。てっきり幸せな結婚をしているもんだと」
そこまで言うと的場は言葉を詰まらせ、視線を慎太朗から窓の方に向けた。暗闇の中をうごめく光の帯が、的場の心に鋭く突き刺さってくるようだった。ゆっくりと視線を戻した的場は慎太朗に言った。
「私は、今日、君と会うことになった時、私と桃子さんとのことについて、君にすべてを話そうと思って来たんだ。それに私から聞きたいこともあるし」
的場は、もう一口、ビールを飲んでから、二十四年前の出来事についてゆっくりと話し始めた。慎太朗は的場の話を黙って最後まで聞いていた。
「と、いうことは母をアパートに一人置きざりにして、奥さんの元に戻ったんですよね。しかも、アパートに戻ってもいなかったら、その後、母がどうなったか探しもしなかったんですよね」
「それを言われたら返答のしようがない。ただ、私もあの頃は若かったし、修羅場の最中桃子を連れ去った私には、野々宮さんに会う勇気がなかったんだ。それに、まさか、桃子が実家に戻らなかったとは思いもしなかったから。でも、いまさら何を言っても言い訳と取られてもしょうがない」
「それから、ひとつ確認したいことがあるんです。的場さんが東京に戻った時、母は妊娠していましたか?」
「いや、私は知らなかった。さっきも言ったように、父危篤の報であわてて帰京したもんだから。もし妊娠していても、桃子なら私を気遣って何も言わなかったんじゃないかと思うが。でも、私が桃子の妊娠を知っていたら、どんなことがあっても桃子と別れたりはしなかった。これだけは信じて欲しい。そのことについては私のほうからも、ぜひ、聞きたかったんだ。君の父親について」
今度、過去について話すのは慎太朗の方だった。慎太朗は、自分が養護施設の前に捨てられていたことから始まり、偶然にも野々宮家と関わりを持ち、さらにDNA検査にて桃子の子供だと正式に認められたことなどを話した。
「母が残した手紙には、名前は慎太朗と書かれてあったということなんです。その時の状況や名前から推測すると、父親は的場さんだという可能性は大だと思っています。ただ、俺が知りたいのは、母が的場さんと別れたあと、何故、家に戻らず俺を産んだのか、どうして俺を捨てたのか、どこでどうやって暮らしていたのか、そして、何よりも何故死んだのかを知りたい。桃子の息子だとわかった今、母の思いを知りたい。それがわかった時、桃子が母だと心底感じることができるような気がしているんです」
的場を父親だと言い切ることに、慎太朗は不思議に抵抗がなかった。初めて的場に会い、的場の口から桃子の名前が出た瞬間、慎太朗の中に父親として的場の存在が明確になったような気がしていたからだった。親と子の、感情を抜きにした動物的感覚と言ってもいい。的場は黙り込み、慎太朗との間にしばし沈黙の時間があった。運ばれてきた料理は冷め切っている。慎太朗は冷たい料理を口に運びながら、解けなかったパズルの一つ一つが繋がっていくのを感じていた。
「君は私を父親として認めてくれるのかね?」
黙りこくっていた的場は静かに言った。
「俺が的場さんを父親として認めるかじゃなく、たぶん科学的に調べたら、DNAが証明するんじゃないかと思っただけですよ。今の俺の家族は、死んだ母と野々宮の祖父母だけです」
慎太朗は何の躊躇いもなく、きっぱりと言い切った。ただ、慎太朗自身が的場を父だと認めることは、一人置き去りにされ寂しかったに違いない母や、やっと授かり大切に育てた娘を的場に連れ去られ、挙げ句の果てに死んでしまった悲しみを背負ってきた寅之助夫婦を、さらに苦しめるような気がしていた。人の心の深い苦しみや悲しみを癒すことができるとしたら、それは、人の心の熱い思いしかないと慎太朗は考えていた。そして、母の魂や寅之助夫婦を救えるのは自分だけだと。
「そうか、そうだよね。君が野々宮の人達に出会うまでの苦労を考えたら、父親だと認めて欲しいと願うのはあまりにも虫がいい話だ。でも、さっきも言ったように、あの時の私には老いた母と病弱な妻を置き去りにすることができなかった。もちろん、社員達も。ただ、桃子の妊娠を知っていたら決して別れなかったよ。こんなことを今更って言われるだろうがね、私にとって愛した女は桃子だけだった。この気持ちは今でも変わらない。それゆえ、強引に結婚させられた妻には申し訳ないと思ってるんだ。子供が出来ない体とわかった妻にしても辛い思いをしてきただろうからね」
今夜、的場に会うことは寅之助達には言ってなかった。多分、言ったとしても、寅之助達は反対しなかっただろうと思った。しかし、聞けば余計な心配をするに違いなかった。今度は慎太朗を的場に取られるのではないだろうかと。
最後に的場から、桃子と暮らしていたアパートの名前などを聞いてから別れた。別れ際、的場は慎太朗に握手を求めてきた。
「この世に私の血を受け継いだ息子がいると思うだけで充分幸せだよ。桃子には言い尽くせないほど感謝している。そして、君が私に会いに来てくれたことにも。ありがとう」
闇の中、慎太朗に、野々宮夫婦に、そして、的場に一筋の光を灯したのは、まぎれもなく桃子だということを、みんなは感じていたに違いない。
(十二)
「慎太朗は、もう、京都に着いたかねぇ」
柱時計を見上げた寅之助は、咲と二人して昼食を食べながら言った。
「とっくに着いてますよ、朝一番の新幹線に乗るって言ってたからねぇ。でも、このところ寒さがぶり返してるけど、京都のほうはどうなんでしょう。盆地だからこちらより寒いんじゃないかしら。昨夜は夜勤だったんですよ、あの子。無理して風邪でも引かないといいけどねぇ」
「大丈夫だよ。慎太朗は若いし、体力があるんだから」
「そうですよね。でも、慎太朗は母親のことがわかったことを養護施設へ報告に行くと言ってたけど、本当は京都へ桃子のことを調べに行ったんじゃないかしら。だって、桃子の写真を持って行ったんですよ」
咲は、このところ慎太朗のようすが少し変ったことに気付いていた。時々、何かを考え込んでいることがあったからだ。最初は、理子が福井に帰ったことで寂しいのかと思っていたのだが。
「ねぇ、咲。もしも自分が施設の前に捨てられていたとしたら、何故、親は自分のことを捨てたんだろうって思うんじゃないのかね。わしだったら、きっとそう思うよ。だから、今は慎太朗の気の済むようにさせてやろうじゃないか。二十歳過ぎの桃子が見知らぬ土地で、たった一人で子供を産むには、よほどの覚悟や苦労があったんだと思うよ。ただ、遺骨として戻って来たとき、わしは桃子の空白の過去に触れることが怖かったんだ。つらい過去にね。しかし、そのことに目をつぶったままじゃ慎太朗だって、いや、桃子だって安心できないのかも知れんな。わしだって、いつかあの世で桃子に会った時、桃子のすべてを抱きしめてやりたい」
寅之助は持っていた箸を置くと仏壇の前に座り、しっかりと両手を合わせた。その傍で咲も手を合わせていた。寅之助は頭を上げると、咲に向かって微笑んだ。
「咲、今、わしは桃子に言ったんだよ。どんなことがわかろうと、お前がわしらに慎太朗を授けてくれたことに感謝するよってね」
涙で濡れた頬を拭きながら、咲は黙って頷いた。
そんな頃、慎太朗は的場から聞いたアパートの住所と名前を手がかりに、京都の町を歩き回っていた。なにせ、二十年以上も前のことだ。その当時、安普請だったというアパートなら取り壊されている可能性が高い。その場所は、京都といっても滋賀県に隣接する山科だった。滋賀県で育った慎太朗にとって京都の町は馴染み深い場所ではあったが、山科の駅に降り立つことはほとんどなかった。それも三条のほうへ向かう乗り換えの時だったと思う。山科はJRの山科駅と京阪山科駅が隣接し、駅前から地下道を通ってロータリーなどに出られるようになっていた。広い山科駅前通りに面して、ホテルやデパートなどの大きなビルが建ち並んでいた。まだ工事中のところもあり、これからさらに変わっていくのかもしれない。駅前を右の方に折れ、商店街をだらだらと歩いて行くと御陵鳥ノ向町という、いかにも京都らしい地名に出会った。慎太朗はその地名を横目に見ながらいくつかの角を曲がり、細い路地裏に辿り着いた。その路地にひっそりと建っている古いアパートは、コンクリートの外壁に幾筋ものひび割れの補修跡が残っていた。『やなみ荘』と書いてある、薄汚れた板が掛けてあったアパートの前に立った時、慎太朗は軽い興奮を覚えた。ここが的場と桃子が暮らし始めた所であり、桃子の中に自分が宿った所でもある。言わば、慎太朗の人生の出発点ともいえる場所なのだ。俺がここから養護施設の前に置かれるまでの数ヶ月、桃子が過ごした時間を知りたい。慎太朗は昼間でも薄暗く、湿った空気が澱む廊下に入ってみた。角々に錆が出て塗装がはげているドアが、端から規則正しく並んでいた。その間隔から察すると六畳一間にトイレ付きという感じだ。社長の息子として何不自由なく育った的場と、野々宮夫婦の一人娘として真綿に包むように育てられた桃子が、見知らぬ土地で始めた貧しい生活。的場に言わせれば、それでも自分の人生で一番楽しい、充実した時間だったと。しかし、果たして桃子も同じように感じていたのだろうか。後悔はなかったのだろうか。慎太朗が感慨に耽り廊下にたたずんでいる様子を、怪訝そうな顔して見ている老人がいた。
「何か、ここのもんに用でっしゃろか?」
「えっ、ああ、すみません。実は昔ここに住んでた人について知りたいんですが、どなたか長年住んでる人はいませんか?」
「長年って?」
「二十三年位前なんですが」
「二十三年位前やと、かなり昔のことでっしゃなぁ」
老人はしばし考え込んでいたが、思い出したように言った。
「わてが住み始めたんのは十六年位前なんやが、そん時すでに住んどった女性がこの先で焼き鳥屋をやっとるわ。あんたはんの尋ねたいお人を知ってはるか、わからんがのぉ」
慎太朗は老人に礼を言うと教えられた焼き鳥屋に行ってみた。屋台をそのまま店にしたような小ささである。しかし、時間が早すぎたのか店は開いておらず、仕方なしに一駅先の京都駅まで戻り、八条西口にあるレストランで遅昼を食べながら時間を潰した。
五時を過ぎたら混むだろうと予測して、四時過ぎに再度、焼き鳥屋を訪ねて行った。今度は店が開いており、慎太朗はすすけた暖簾をくぐって店に入った。
「いらっしゃい」
威勢のいい声で迎えたのは、六十過ぎとみられる中年女性だった。店内は丸イスが八つ。その内、三つに先客がいた。
その女性は忙しなく団扇であおぎながら、焼き鳥を焼いている。ひとりでやっているのか、ビールを注いだり、焼き鳥を皿に盛ったりと忙しそうに動き回っていた。
「何焼きまひょかぁ?」
「じゃあ、ももとネギマとモツを。あっ、それからビール一本」
慎太朗がビールを半分ほど開けた頃、先客の三人が帰っていった。それを見計らって女性に尋ねた。
「昔、この先にある、やなみ荘に住んでたことがあるって聞いたんだけど?」
女性は怪訝そうな顔付きで慎太朗を見返した。
「それが何か」
急にぶっきらぼうな言い方に変り、警戒心をあらわにしている。
「二十三年位前に、やなみ荘に住んでいた野々宮桃子、いや、的場桃子って言ってたかもしれないけど。当時、二十歳だったんだけど、その女性知りませんか?」
桃子の名前が出た途端、その女性の顔付きがやさしい驚きに変った。
「あんたはん、誰?桃ちゃんのこと知ってはるの?」
「俺は桃子の息子で、野々宮慎太朗といいます」
「慎太朗?桃ちゃんの子供の慎太朗君?」
女性の声は裏返り、焼き鳥は焦げてもうもうと煙をあげている。
その時、暖簾をかきあげ五人の男達が入ってきたので、女性は早口で慎太朗に言った。
「今夜、早よう店締めるよって、八時頃また来てくれはりますぅ?」
慎太朗は、再度訪ねることを約束して店を出た。桃子の過去を知ってる人に出会えたことで、慎太朗は、またしても興奮気味だった。
今夜の宿を探しがてら山科の駅に戻り、喫茶店で時間を潰した。
八時を過ぎて店に行くと、もう暖簾はなく、早仕舞いの張り紙が貼り出されてあった。滑りの悪い引き戸を開けると、あの女性がカウンターの中で座って待っていた。
「すみません、遅れて」
「いいのんよ、ちょうど最後のお客が帰ったとこやったから。私のアパート、このすぐ裏やけど、そこでええかしら?」
女性はそう言うとさっさと店を閉め、裏の路地へ向かった。アパートはやなみ荘とたいして変らず、時代の流れを感じさせている。やはり部屋は、六畳一間で家具は古ぼけたタンスと小さな食器棚、これまた小さな冷蔵庫はあるが、洗濯機は見当たらない。隅に置かれたテレビがやたら新しい。慎太朗は部屋の真ん中に陣取る四角いテーブルの前に座ってから、あらためて自己紹介をした。
「今日は突然伺ってすみませんでした。桃子の息子の野々宮慎太朗です」
「私は都竹悦子っていいますねん。もう、おばあちゃんやわ。ところで、あんたはんは、その慎太朗さんは、桃ちゃんの息子さんやって言わはったわねぇ」
「ええ、ただ、母が早くに亡くなったので母のことは何もわからないんです。だからこうして」
慎太朗が話し始めると、悦子は「えっ」と声を上げた。その驚愕の表情は、しだいに暗くなっていった。しばらく間を置いてから、ため息混じりの声を出した。
「桃ちゃんが亡くならはってたなんて。あんなに幸せそうやったのにねぇ」
慎太朗は少し迷ったが、自分が養護施設の前に捨てられていたこと、今は桃子の両親と一緒に暮らしていることを、かいつまんで話した。ただ、的場については黙っていた。桃子の必死の純愛を、不倫、駆け落ちなどの言葉で汚したくなかったからだ。
「そう、慎太朗さんも苦労しはったんやねぇ。でも、あんなに慎ちゃん、あっ、ついつい。でもいいわねぇ慎ちゃんで。慎ちゃんが産まれはってあんなに喜んではったのに。
実はねぇ、桃ちゃん、名字は野々宮でも的場でもなくてねぇ、ええっと、そや、山口ってゆうてはったわ。最初にアパートに来はった時は、だんなはんと一緒やったわ。ちょっと歳が離れていはったみたいやけど、とっても仲が良うてねぇ。いつも二人して買い物なんかに行かはってたみたいやわぁ。でも、一年位しはってから、だんなはんが実家に帰られたぁて聞いたんよ。それから少しして、桃ちゃん、アパートを出て行きはったんやわぁ。私は独身通したさかい子供はおらんけどなぁ、ほんまに可愛いお人やったわぁ。娘やったらって思うくらいにねぇ。
それからどれくらいやったかなぁ、桃ちゃんが赤ちゃんを連れて一度訪ねてくれたことがありますねん。そん時の赤ちゃんが慎ちゃんやったわ。まるまる太った大きな子やったぁ。私は、てっきりだんなはんの実家で仲よう暮らしてるもんと思ってたし、桃ちゃんもあん時はそんなふうに言っとりましたしなぁ。でも、あんなに可愛がらはってた慎ちゃんを手放すいうことは、あれからよっぽどのことがありましたんやろうねぇ。やなみ荘にいた時の二人は、まるで幸せを絵に描いたような新婚さんって感じやったわ」
慎太朗はホテルの部屋でベッドに仰向けになり、先ほどまで会っていた都竹悦子の話を思い返していた。少なくとも、あのアパートで的場と暮らした一年間は、桃子にとって幸せの日々だった。そのことは慎太朗の気持ちを少し軽くさせた。しかし、的場に捨てられたと思った桃子が実家に帰らず、何故一人で俺を産んだんだろう。二十歳の娘がなんの伝もなく、金もないはずなのに。
あのアパートを出てからの桃子の足取りを探すのは、並大抵のことではなさそうだ。手がかりは、二十年以上も桃子の遺骨を保管し、半年前に警察に届け出た人物である。明日は京都府警に行ってみようと思いながら、緊張からくる疲れがあったせいか、深い眠りについた。
さすが警察である。遺骨を保管していた人物の名前は簡単にわかった。半年前、警察に遺骨を持ち込んだのは京都の河原町に住む女性だった。慎太朗が警察で桃子の息子だと言うと、その女性の住所と名前を教えてくれたのだ。もっとも、息子だという証拠の提示を求められたが、DNAではっきりした以後、野々宮桃子の実子として戸籍に入れたので、野々宮慎太朗名の免許証を持っていた。
京都の町は主要な道路で碁盤の目のように仕切られ、一糸乱れぬとまではいかないが、それでも丁寧に区切られていた。河原町はその碁盤の目のひとつ、三条や四条をまたいでいる町だった。昔からの御茶屋が立ち並ぶ花見小路は祇園の中にある。八坂神社に通じる四条通りは一年中観光客が途絶えることがなく、大小さまざまな土産物屋が軒を連ねている。その賑やかな通りから横道に外れて行くと、以外に閑静な住宅街がある。それを更に奥へと進んでいくと、ごちゃごちゃとした間口の狭い商店街が現れた。その中に三階建の中古のマンションがあった。まわりの商店と同じ間口の狭いマンションで、京都特有の奥行きのある建て方だった。慎太朗が警察で聞いてきた坂田美智代の部屋は二階の一番奥にあった。ドアホンをいくら押しても部屋の中から反応はない。慎太朗が腕時計を見ると、すでに昼の十二時を過ぎている。スナックを経営している女性だと聞いたので午前中は寝ているかもと、これでも時間を調整してきたつもりだった。また、あとでと思い直して踵を返した時、隣の部屋のドアが細く開き、若い女が顔を覗かせた。寝起きのせいか顔が腫れぼったく頭も鳥の巣になっていた。
「坂田さんならいいへんよ」と、つっけんどんな言い方をした。京都弁のはんなりとした言葉を想像していた慎太朗にはきつく響いた。
「あっ、すみません。坂田さんに会いに来たんですがいないようなんですが、どこへ行ったかご存知ですか?」
慎太朗は鳥の巣の頭を見て、きっと起してしまったから機嫌が悪いんだなと思い、頭を下げた。女は背の高い慎太朗を見上げ、そのきりりとした風貌が気に入ったのか、急に言葉つきがやわらかくなった。
「坂田さんなら、今、入院してはるけど、ご親戚の方?」
「いえ、昔、世話になった者です。こちらに来たので、ぜひ、お礼を言いたくって。どこの病院だかわかりますか?」
「もちろん、うちの店のママしてはったんだもの」
そう言いながら、三条にある総合病院を教えてくれた。
「でも、行かはっても会えるかどうかわからへんよ。もう、だいぶ悪いみたいやから」
「何の病気なんですか?」
「癌なんよ。なんでも、もう体中に転移してて、あとは時間の問題って言われはったらしいわ」
慎太朗は女に礼を言うと病院に行こうと歩き出し、ふっと立ち止まって振り返り、女に聞いてみた。
「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、山口桃子という女性、知りませんか?」
結局、その女はスナックに勤め初めたのがつい最近で桃子のことは知らなかった。
三条にある総合病院は、総合を掲げているわりに規模はたいしたことなく、病院の白い外壁も薄汚れ、くたびれて見えた。また、廊下の低い天井が追い討ちを掛けるように、病院全体に暗い印象を与えていた。その天井からぶら下がっている総合受付と書いてあるプレートも、それとなくくたびれているようだ。
受付で坂田美智代の名前を切り出すと、三十代半ばとおぼしき女性は、受付カウンターから太った体を乗り出すように慎太朗を見上げ「ご親戚の方ですか?」と、勢い込んで聞いてきた。
「いえ、ちょっと坂田さんに伺いたいことがあって」
「あっ、そう、部屋は三○二号室やけど、このところ寝てはることが多いから、話せるかどうかわからへんわ」
あきらかに失望した顔付きで、乗り出した体を元の椅子に戻した。どうやら、美智代の親類縁者の人間が誰も来ず、病院側も今後の対応などに苦慮しているらしい。三階にある三○二号室は六人部屋で、重病患者が多いのか、ベッドに横たわる人達は一様にぐったりとし、静まり返った中で、消毒の匂いだけがやけに鼻を衝いた。美智代は、窓際のベッドにポツンと置かれるように寝かされていた。元気な頃を知らない慎太朗でも、その憔悴しきった顔から病気の悪化が容易に推測された。慎太朗は起すかどうか迷って、ベッドの脇に置いてあったパイプイスに腰を下ろした。
この女性が桃子の遺骨を二十数年もの間、大事に持っていた。無縁仏に入れるでもなく、また、警察に届けることもしなかった。俺の出生を知る、唯一の女性かも知れない。そんなことを考えていた時、美智代がうっすらと目をあけた。自分を見下ろしている若い男が誰であるかわからず、戸惑いの表情を浮かべている。慎太朗は病院に来る前に買った籠入りの花束を掲げて見せ、見舞いに来たことを告げた。
「大丈夫ですか?」
げっそりと痩せこけた人を前に言う言葉でもないかと思ったが、他に話し掛けるきっかけが探せない。
「どなたはん?」
虚ろな視線を慎太朗に向けたまま、美智代は消え入りそうな声を出した。
「俺は野々宮慎太朗と言います。野々宮、いえ、山口桃子の息子です」
「山口桃子、桃ちゃんの?」
美智代は上を向いて天井の一点を見つめ、思い出すような感じで黙りこくった。それからやおら慎太朗を見ると、「慎太朗さんって言いはったわね。本当に桃ちゃんの子供の慎ちゃんなの?」と、呟いた。感極まったような美智代の目尻から涙が溢れ、ひとすじの流れとなり、枕を濡らした。
「はい、本当です。母のことを聞きたくて東京からやって来ました」
「東京から?そう、じぁあ、やっぱり桃ちゃんは東京の娘さんやったのね。そうやないかと思うてたけど、自分のことは何もゆうへんかったからねぇ。うちは、桃ちゃんを警察に預けてなぁ、すぐに入院してしもうたさかい、その後のことはようわからしまへんのよ。でも、慎ちゃんがここに来てくれはったということは、ほな、桃ちゃん、ご両親の元に戻りはったということかしら」
「ええ、ちゃんと野々宮の家に戻りましたよ」
「野々宮って言いはるの、桃ちゃん。うちには山口やぁゆうてはったから。そやから、すぐにわからんかったんやわぁ。でも、ご両親のもとに帰りはって、きっと、桃ちゃんもほっとしてはるわねぇ。よかったわぁ」
話し始めると、美智代の口調がだんだんはっきりとしてきた。慎太朗は美智代の様子を伺いながら、少しずつ話の核心に触れ始めた。
「母に初めて会った時のことを教えてもらえませんか?」
慎太朗は、自分の誕生の瞬間を垣間見るようで、緊張しながら美智代の口元を見つめていた。美智代はうっすらと雲がかかっている窓の外を眺めながら、ゆっくりと、しかし、はっきりとした口調で話し始めた。
「あの日も今日みたいに薄曇りでなぁ、とっても寒い日ぃやったわ。うちなぁ、雇われママとしてスナックを開店し始めて間もない頃やったわぁ。店の外に貼り出したホステスさん募集のチラシを見て来はったんよ、桃ちゃん。ぽちゃっとした可愛い女の子やった。ホステスになりたいゆうてねぇ必死の形相で頼みはるのよ。確か、あの頃、二十歳やったと思うんやけど、もっと幼く見えはったわ。そりゃお人形さんのように可愛かったけどなぁ、ホステスにはむかへんと思うてねぇ。うちが断ると涙をぽろぽろ流しはって、そやけど、諦めて店を出ようとしなはった時、つわりやろねぇ、あわててトイレに駆けこんだんよ。うちも、すぐに妊娠してはるとわかったよって話を聞いたんよ。そなんしたら、名前は山口桃子で好きな人の子供がお腹にいる。どうしても産みたいけど家には帰られへん。掃除でも何でもするさかい置いてほしいと言わはってねぇ。うちは、一目で家出して来はったと思ったわ。実はね、うちも若い時、好きなお人との間にできた娘を産んだことがあったしなぁ。相手は妻子持ちやったし、結婚できへんでもええと思って産んだんよ。時代も今とはちごってたし、ましてや田舎やったしねぇ。うちも京都の町に出て、ホステスとして働いて産む決心をしたんよ。でも、現実は甘いことおへん。無理がたたって早産してしもたぁ。そやけど、ひと月は生きてたんよ。女の子で名前は桃子。桃ちゃんに初めておうたのは年明けの一月十二日、桃子の月命日やったぁ。名前もそやけど、偶然とは思われへんかったんよ。きっと、うちの桃子の生まれ変わりやと。そいでなぁ、あのマンションで一緒に暮らし始めたんやわ。まるで娘と暮らしているようで、そりゃ楽しかったわなぁ。桃ちゃんのお腹もみるみる大きいなってねぇ、うちかて孫が産まれるようで、そりゃ楽しみにしてたんよ。そうそう、慎ちゃん、あんたはんが生まれはったのは九月の十五日なんよ。夜中の二時過ぎやった。前日から陣痛が始まったさかい病院に行こうとなんべんもゆうたけど、いいって言いはってね。偽名やったからかしらねぇ。結局、うちの知り合いの産婆さんに無理ゆうて、とりあげてもろたんよぉ。今でもそんときのこと、よう覚えとるわぁ。初産やったから、産まれはるころは桃ちゃん、だいぶ疲れてはった。そやけど、最後の力を振り絞ってなぁ。産まれたんは大きな男の赤ちゃんよって、産声も大きかったしなぁ。そりゃ桃ちゃんは大喜びやったわぁ、父親似いやとゆうてねぇ。うちかて孫ができたようで、とてもうれしかったんよ。おしめかえたり、ミルク飲ませたりしてなぁ。楽しかったわぁ、あん頃は」
美智代は視線を宙に泳がせ、思い出し笑いのように微笑んだが、息継ぎをする仕草が辛そうにみえた。
「そやのに、慎ちゃんが三ヶ月頃やったかなぁ、うちが家に戻ったら、もう、おらへんようになっててなぁ。あわてて桃ちゃんに問いただしたらなぁ、今のままではよう一人では育てられへんから、お金を貯めて二人で暮らせるまで知り合いの家に預けた言うのんよぉ。うちが桃ちゃんや慎ちゃんくらい食べさせられるって何度もゆうたんやけど、自分の力で育てたいゆうてねぇ、譲らんかったわ。ただ、桃ちゃんの気持ちもわかるんよ。昔のうちを見てるようでね。
それから、桃ちゃん、必死になって働いてなぁ、お金貯めてはったわ。はよぅ慎ちゃんと一緒に暮らしたかったんやろねぇ。田舎から出てきた頃のうちと一緒やった。でも、それで無理がたたってしもぅて体をこわしたんよ。しかも、ずっと我慢してはったから、倒れた時はもう手後れやったの。心不全やったのよ。うちも店を軌道に乗せるのに必死でなぁ、桃ちゃんのこと、倒れるまでわからしませんかったのやぁ。堪忍なぁ」
ここまで話し続けていた美智代は疲れたのか、少しずつ荒くなってきた息を必死に整えていた。まるで話すことに命を懸けているように。
「無理しないで下さい。俺はまた来ますから少し休んで」
慎太朗がここまで言うと、美智代は首を横に振った。
「大丈夫やわ。それに今、ゆうとかんと、もう慎ちゃんに会えへんかもしれんし」
「そんなことないですよ」
美智代は再び息を深く吸い込み、静かに吐き出すと続けて話し出した。
「桃ちゃんが死なはった時、娘を二度失ったようで辛かったわぁ。なんでぇこんなことにぃってね。神さんかて恨みとう気ぃやった。でもなぁ、きっとうちの桃子が母が寂しかろぅて、もう一度来てくれはったと思い直したんやわぁ。二人の桃子は、うちにかけがえのない思い出ぇ残してくれはった。それからなぁ、桃ちゃんのこと、山口桃子で届け出たんやけど、そんな名前はないと役所で言われてしもて。もっとも、住所もわからんよって、役所でもどうにもできへんわねぇ。身元不明で警察に行きはったらどうやって言わはって。そん時、もし無縁仏にでもなったらなんて思うてしまってねぇ、結局、一人で火葬場に行ったんよ。それからは、桃子の遺骨と桃ちゃんの遺骨を並べて二十年持ってたんよ。今思えば、もっと早うに警察で調べてもらえばよかったのよねぇ。でも、桃ちゃんが我が子の生まれ変わりのような気ぃして、離したくなかったやわ。慎ちゃんのことかて気がかりやったけど、桃ちゃんのことがわからんよって、誰に預けたのか調べようがなかったんよ。半年前、胃癌と言われてねぇ、もう、どなんしょうもなくなってなぁ警察に預けたんや。それから、すぐに入院してんやけど、もう手後れでなぁ。でも、よかったわぁ。慎ちゃんがこんな立派にならはって。桃ちゃんが生きてはったら」
美智代はそれまで必死になって話していたが、言うべきことを伝えたと安堵したのだろう。そのあとはただ泣くだけで、言葉にならなかった。通りがかった女性看護師に、これ以上はだめだと言われたのを機に、慎太朗は病院をあとにした。
慎太朗は最初、京都で母のことを調べ終えたら養護施設に立ち寄る予定だったが、今は静かに母のことを思っていたくて、京都から新幹線で直接東京に帰ることにした。夕方の新幹線はサラリーマンで結構混んでいたが、幸い自由席に座ることができた。
桃子が妊娠を的場にも告げず、また、実家に戻らず産むことを決心したのは、自分のことは自分で責任をとるという、意地にも似た思いだったんだろう。確かに未婚の娘が子供を産むと言ったら両親は悲しむだろうし、世間体を考えたかもしれない。妊娠を的場に打ち明けなかったのは、的場に対してではなく、的場の妻に対して申し訳ないという配慮が働いたのだと思う。さらに、俺のことで美智代の好意を蹴ったのも、桃子は自分の力で子供を育てたいとの考えだったのだろう。そうでなければ、両親を悲しませてまで家を出た自分を、自分で許せなかったのだと思う。だが美智代も言ってたように世間はそんなに甘くはない。その時、野々宮の実家に戻って産んでいたら桃子は死なずに済んだに違いないし、俺も施設に入らずに済んだ。しかし、そのことは桃子に対しての恨みではなく、そうまでして自分のことを産んでくれた母に対しての感謝であった。桃子の息子であったことが、偶然とはいえわかったことで、野々宮の祖父母と暮らすことができたが、母親が死んでいたという事実がはっきりしたことでもあった。慎太朗は自分の出生がはっきりし、また、今まで引きずってきた、捨てられたという思いが、桃子の一途さを知ったことで吹っ切れることができた。京都に来てよかったと思うと同時に、列車の揺れに合わせて眠ってしまった。
(十三)
慎太朗が京都から戻って三月が過ぎた。梅雨の真っ只中にいる今は、毎日傘が手放せない季節になった。慎太朗は仕事に学校にとフル回転の日々を送っている。また、理子からの手紙によると、父親の病状も今は安定しているという。母のもとに戻り、安心したのかも知れないと。また、父親を見ていて看護師になる決心をし、今は看護学校に通っているとのことだった。誠からも、由紀と結婚したとのハガキが届いた。どうやらクリスマスは親子三人で迎えそうだと書いてある。
ある夜、慎太朗が帰ると寅之助と咲が座卓の前に座って待っていた。学校が終わるのが遅いので、いつもは二人とも慎太朗を待たずに寝ている。
「ただいまぁ、今日はどうしたの。俺は遅いんだから、寝ててくれていいのに」
「慎太朗、わしらは、どうもこの手紙が気になってなぁ」
座卓の上には一通の手紙が置いてあった。慎太朗宛である。ひっくり返すと、差出人はあの美智代が入院していた三条にある総合病院からだった。慎太朗は荷物を横に置いて座ると、さっそく封を切った。この程で始まる文面はいかにも事務的であったが、要約すると美智代が死んだこと、美智代を引き取る親類縁者がなく、このままでは娘の遺骨とともに無縁仏として葬られることになる旨が書いてあった。慎太朗は先だって美智代を見舞った折、何かあったら連絡してほしいと、病院の受付に住所と名前を書いてきたのだった。
最後の締めくくりに、ご依頼の通り一応連絡申し上げますとなっていた。京都でのことは、慎太朗が寅之助達にすべてを話していたので、二人は美智代のことを知っている。慎太朗は手紙を寅之助達に見せた。寅之助も咲も黙って読んでいる。慎太朗は直接会っているだけに、美智代のやせ衰えた寂しげな横顔が浮かんで自然と無口になった。
「なあ、咲、慎太朗。わしは今、変なことを考えてるんじゃが」
「変なことって何ですか?」
咲は夫の顔を覗き込んだ。
「おじいさん、言ってみてよ」
「ほら、この間、慎太朗が京都に行って、桃子が家を出てからの空白の時間を調べてきただろう。あの時は桃子の苦労を思って、ただ泣くしかなかったが、桃子は桃子なりに一生懸命生きたんだよね。それから、桃子が慎太朗を身ごもり、産むことができたのも、美智代さんの協力があってなんだよね。しかも、桃子が死んだ時も偽名を使っていたから、ひょっとすると桃子の遺骨が無縁仏として埋葬されてしまったかもしれない。そうなったら、わしらのもとに桃子が戻ることはなかったかもしれん。ましてや、慎太朗と会うことすら。そう考えると、美智代さんが桃子の遺骨を大事に持っていてくれたおかげじゃないかと。それに慎太朗の話によれば、美智代さんの亡くなった子供さんも桃子という名前だったらしいしね。どうだろう。美智代さんとそのお子さんの桃子ちゃんを、わしらで引き取ったらどうかね。墓はその一族の為だけでなく、寄り添っていたいと願う人達が一緒に入ってもいいんじゃないかと思うんだよ。桃子にとって、美智代さんは母みたいな存在だったんじゃないかと。本当の供養とは、その人達を思いやることではないかとね。どうじゃろうか?」
「ええ、私は賛成ですよ。もし、桃子が無縁仏になっていたらって考えたら、美智代さんに感謝の念でいっぱいですよ。桃子だってきっと喜んでくれると思いますよ」
「ありがとう、おじいさん、おばあさん。俺は京都に行って母の思いを知った。短すぎる人生だったと思うけど、母は母なりに一生懸命的場さんを愛し、俺を守って産んだ。そして、一生懸命働いて自分の力で俺を育てたかったんだと思う。それができた時、きっと、この家に戻ったに違いないと思ってる。美智代さんは自分も同じ苦労をしてきたから、そんな母の唯一の理解者だったんだ。そんな美智代さんや桃子ちゃんを無縁仏にするわけにはいかない、おじいさんやおばあさんがそう考えてくれるなら、俺はとってもうれしいよ」
その夜、慎太朗は自分が初めてここに来た時のことを思い出していた。寅之助達は俺が本当の孫かどうかより、孫がいると思うだけで幸せだと言ってくれた。その懐の深さに思い至った時、的場のことを思い出していた。父親かどうかだけでなく、母が全身全霊で愛した男として、いつか普通に話し合えるようになりたいと考えていた。
きっと、母である桃子が、そのことを一番望んでいるに違いないと。




