第59話 鴨緑江
すずは、直立不動で歌をうたった。大きな声だ。しかも音程がすべて狂っていた。
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世界はひとつ 命もひとつ
楽しく生きなきゃ もったいない
悲しい時は たくさん泣いて
楽しい時は いっぱい笑おう
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日朝首脳会談会場、そして全世界に、すずの調子ぱずれの歌声が流れた。それを聞く誰もが、これは最悪の音痴だと感じ、あまりの酷さに止めようとした者もいたが、矢部はそれを手で制した。
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希望を胸に 前に進もう
かならず毎日陽はのぼる いつかかならず雨はやむ
楽しく生きなきゃ もったいない
楽しく生きなきゃ もったいない
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日本。三柱町、集会所。
テレビの前。椅子に座ったすずの母親は両手で顔を押さえ、両膝に顔をうずめていた。恥ずかしさで耳が赤い。
娘の歌の酷さ加減は、茶子が一番よく知っていたのだ。鈴のように美しい声でみんなに感動を与える人間になって欲しいと「すず」と名づけた。が、高校生になってもその気配は皆無。茶子はすずに、極力、人前では歌は控えるようにと言っていたのだが、下手の横好きである。すずは歌や詩が大好きだった。
レポーターたちが彼女を取り囲み、「お母さん、いかがですか!? 本物ですか!?」とマイクを向けている。
茶子は顔を隠したまま、「娘ですぅ……。自作の歌詞ですぅ……」と小さな声で答えた。
その横で、文芸部の後輩たちは、尊敬の眼差しで、すずの歌う姿を見ていた。
ちなみに、次の日の新聞には、「少女の母親、娘の無事を知り号泣」の記事が載る。多くの人がそれを読み、涙を流した。
その日の記者会見。
翔一は檀上に立っていた。金月成の姿である。その眼下には数百の報道関係者が集まっていた。
「結局は独裁を続けるつもりなんでしょう」
フランスのジャーナリストはそう質問した。翔一は答える。
「独裁制、首領制は廃止いたします。われわれが目指すのは民主主義国家です。ただし一気に移行するのは弊害が大きいので、十分な準備を整え、段階的に行うつもりです」
記者会見はまるで祭りのような騒ぎだった。誰もが勢いよく手を挙げ、翔一を質問攻めにしようとした。「はい、そこ」と報道官が順番に指名する。ベネズエラの記者だった。
「つまり、これから選挙をはじめると言うことでよろしいカ」
翔一は、彼を見て「選挙は行いません」と答えた。すかさず、報道席から野次が飛びかう。
「どこが民主主義だ」
「やっぱり独裁じゃないか!」
翔一は片手を上げて言った。
「われわれがこれから行おうとしているものは、選挙ではありません。選抜です」
各国のジャーナリストたちは、それはどういう意味かと思った。
「直接民主制は、国家のように規模が大きいと無理があるのは、皆さまもよくご存知だと思います。かと言って、今の間接民主制は、政治不信、投票率の低下……、もうすでに末期状態なのが明らかではありませんか」
翔一は、この一週間、必死に勉強した社会科の知識を思い出しながら話を続けた。
「その昔、中国の老子は『小国寡民』を唱えました。インドのマハトマ・ガンジーは『パンチャーヤット』を理想の制度としました。小さな組織でなければ、民意を国政に汲み取ることが困難なのです。われわれは、今後、人民議会の議員を選挙では選びません。一部の人間が議員を選ぶことも、世襲もありません」
みな、翔一に注目する。
「無作為選抜です。国民を男女、年齢、さまざまな職業に分類し、その中から公平に無作為に議員を抽出するのです」
すかさず、「そんなこと出来るのですか」「誰かが抽出を操作するんじゃないですか」と質問が飛ぶ。
「すでに計画は進行中です。第三国、永世中立国に選抜管理委員会を設置します。またローマ法王庁も協力してくれることになりました」
報道席、順子の隣の佐々木は、「コンクラーベを真似る気か! 布教の自由でも土産に協力を買ったのか……」と呟いた。
日本の官邸では、テレビの前で、水井が「なにをバカなことを。無理に決まってますよね」と他の大臣に言っていた。
下川は、薄紫色のメガネを正しながら「裁判員制度といっしょですわ。北欧の一部の組織では限定的にその制度を取り入れはじめた所もありますが……、国家レベルの規模となると……」と答える。
順子は質問しようと必死に手を挙げていた。が、なかなか指名されない。見かねた翔一は、報道官に目で合図を送ってから、彼女に手のひらを向けて言った。
「そこ。ヨンケイの楠田さん」
順子は顔を輝かせて勢いよく立ち上がった。心の中では「ヒーハー!」と叫んでいた。
「はい! しかし、選抜された一般市民が、いきなり政治を行えるでしょうか? それぞれ自分勝手に振る舞うんじゃありませんか」
「だからこそ、準備が必要なのです。選抜民主制を支える、研究機関や大学などの教育機関を充実させ、何より、今までの独裁制の教育方針をすべて変更する必要があるのです。それに……」
翔一は順子、そして世界の記者たち全員を見るように、ゆっくりと視線を動かした。
「われわれは、もっと信じて良いのです。人は、責任ある仕事を与えられれば責任感を持ち、それに見合うように行動するのです」
それは、翔一が一国の主席になって、はじめて実感したことだった。
核の放棄の話も済み、記者会見の終わりには、誰もが聞きたかった質問が飛び出た。
「あなたは、本当に、金月成主席なのですか」
翔一は、檀から下りる前に、次のように答えた。
「それについては、バチカンの奇跡調査委員会が結論を出してくれると思います」
会見が終わると、ジャーナリストたちは、狂ったように走りはじめた。
矢部を後押ししたのは、習禁屏だった。矢部首相とサランプ大統領をノーベル平和賞の候補として推薦し、それを他国にも働きかけると約束をしたのだ。
条約が調印され、しかも拉致被害者が全員帰国する。核を放棄させ、独裁国家は民主国家となる。半世紀以上続いた戦争が終結するきっかけとなる。十分以上に賞に見合う成果だ。
矢部は密かに胸を躍らせていた。念願の実績が手に入る。歴史に名を残せるのだ。
また禁屏は、北朝鮮に対し巨額の融資を行うと発表した。月成はそれを用いて海外の企業にインフラの整備、自然エネルギー発電の導入を依頼すると語った。
二日目の調印前だった。習禁屏は言った。
「で、矢部総理大臣。金主席は今回の件について、深く謝罪の意を表したが、あなたはどうするのです」
矢部は覚悟していたようだった。彼は真剣な表情で言った。
「過去に起きた不幸な出来事に対し、日本政府は責任を痛感し、日本国首相として心からおわびと反省の気持ちを表明します」
矢部は、金月成や金晶勇の前で頭を下げた。そして、国連制裁が解除され次第、朝鮮の名誉と尊厳の回復ための事業を行うと約束した。
平壌では、金泰南や、日本軍と戦った元抗日パルチザンの老運動家たちは、涙を流して、その調印式を見ていた。
「やりやがったね」
佐々木と順子は、ホテル近くの中華レストランで食事をしていた。エビチリや空心菜の炒め物、チャーハンなどがテーブルに並べられていた。
「なんだか話がトントン拍子で進んでいますね」
「アメリカもこれじゃあ身動き取りづらくなる。なんせ自分たちで作った憲法だ。大っぴらに反対できやしない。国内のキリスト教団体や経済界が動くし、サランプも国連制裁解除を真剣に検討しはじめるだろうね」
順子は、プーアル茶の入った湯飲みを置いた。
「アメリカも本当は早く朝鮮戦争を終わらせたいんじゃありません?」
「それはないね」
佐々木は、大きなエビを口に入れながら言ったが、順子がムスッとしているのを見て、あわてて付け足した。
「あ、いや、サランプを代表とする、ほとんどのアメリカ人は戦争を終わらせたいと思ってる、と僕は思ってる。戦争をして得するのは、限られた少数の資本家と軍人だけだ。兵士になるのは基本的に貧しい一般市民さ。血を流して死んでいくのも、やっぱり彼らだ。朝鮮戦争でもベトナム戦争でも、湾岸でもイラクでも、アフガンでも、アメリカ国民は戦争にウンザリしきってる」
「じゃあ……」
「そんな民衆に推されてサランプが出現したが、あいかわらず、国務長官や国防長官になるのは、軍人、あるいは軍需産業の上級役員さ。そんな国にアメリカはなってしまった。それはサランプでも変えられないだろうね。これが今の民主主義の限界だ」
佐々木は、エビをモグモグしながら「だけど」と続けた。
「アメリカは法治国家だ。情報公開制度も確立している。いやいや、それよりも、あいつら、とんでもないことを発表しやがった。無作為選抜制だって?」
佐々木は目を輝かせて話し続けた。時々、彼の口からチリソースが吹き出す。彼のワイシャツには赤い染みがいくつも出来ていた。
「いったい誰が考えついたんだ? これで世界の目は、ここ東アジアから離れられなくなった。今の民主主義に不満を持つ何十億の人間が、この新しい制度が、この先どうなるのか注目するだろう。米軍の理不尽な行動には、大きなブレーキがかけられる。彼らは今後、アメリカ国内の議員や市民団体との関係に腐心して、あからさまに妨害できないんじゃないか」
順子がほっとすると、佐々木はチャーハンをレンゲで取りながら「……あからさまにはね」と言った。
会談を成功に導き、翔一(金月成)は英雄のように扱われた。彼の姿は世界中の新聞の一面に載せられた。過ちを犯したが、潔く罪を認め、頭を下げ、そして平和への道のりを示したことを世界は評価した。
翔一は、調印が終わったその日には北京を発った。朝鮮行きの専用列車には、たくさんの見送る人が集まった。
日本政府は、すずを、今すぐにでも連れて帰りたいと申し出たのだったが、彼女は、友香子たち他の被害者たちと一緒に帰りたいと言った。そのため、列車には、大門をはじめとする一部の政府関係者、そして、佐々木と順子が乗り合わせていた。
順子には一等個室があてがわれた。汗臭い佐々木と相部屋だったが、彼女は苦にならなかった。
深夜、順子はガタゴト列車の揺れる中、眠らず座席に腰かけて休んでいた。
車窓の外は真っ暗で何も見えない。が、昼間に見たような雄大な風景、巨大な山岳や渓谷、海のような川が広がっているはずだ。
佐々木はフラフラと車内のどこかに出かけていた。彼女はコンパートメントに一人。くつろいではいなかった。興奮してしていた。首脳会談で起きたことを思い出し、これから朝鮮で起こるだろう事を想像していた。
列車は国境の都市、丹東を発ち、鴨緑江を渡った。そして新義州を過ぎた時だった。
突然、客室横の廊下を、何人もの北朝鮮の政府関係者たちが走っていった。ただことではない張り詰めた雰囲気をまとっていた。
順子は「事件だわ」と思い、いそいでカメラを用意すると車室を飛び出した。




