第58話 わたし、歌をうたいます!
「この場で即答するのは避けて、後日、返答する、という訳には……」
麻原財務大臣は険しい顔をして矢部の顔をうかがった。矢部は両手を組んでテーブルのどこかを凝視していた。
「いかんだろ……」公安委員長の大門は腕を組み、静かに言った。彼の太く黒い眉は、どこか晴れ晴れとしていた。
「しかし、この内容を二国間で約すとなると、これはもう、平和条約だ。総理だからと言って、この場でホイホイ決められるもんじゃない」と麻原。
大門は秘書から日本国憲法とその改正草案を受け取ると、それらをテーブルの上に広げた。
「ひとつ目は第九条。ふたつ目は改正草案の第二十二条で間違いない」
麻原は、確認するまでもないと、それに目に向けず、ソファーに深くもたれ掛かり、独り言のように言った。
「米軍を無視して、勝手に平和条約なんか結べるか。内閣が崩壊したら、今までの苦労がどうなる」
「だが、憲法そのままの条文だぞ。今、この場で、この約定が交わせないとすれば、日本は世界の笑い者だ。法治国家でないと世界に喧伝することになる」
麻原は拳を振った。
「くそ! なんて奴らだ! こんな、こんなアホな、高校生が考えるようなことを首脳会談で提案してくるとは。全世界、生中継だぞ!」
「もし……だ、アメリカを考慮しなければ、どうだ?」大門は麻原の目を見た。
麻原は「考える間でもない」と言った。
「日本は、憲法で戦争を放棄しているから、もともと北朝鮮に武力行使することはない。今まで通り何も変わらん。これは北朝鮮の、いわゆる、戦争放棄宣言。もしそれが信用できるのなら、お互いに国家間の緊張や国民の不安を解消でき、軍事費、防衛費を大幅に削減できる。メリットしかない」
「信用できるかできないかは、彼らがこの先、国をどう変えて行くかにかかっているが……」
「気になるのは、ふたつ目の条文……。これじゃ、あちらさん、無数の脱北者を出して、体制が崩壊するんじゃないか」
それには大門も首をひねった。彼は矢部に顔を向けた。
「総理……、いかがしますか?」
矢部はゆっくりと姿勢を正し、決意したように言った。
「日本の憲法はアメリカから与えられた法です。彼らがそれを持ちだして来たのは、逆に、こちらにとって都合が良いかもしれません……。ただ、その前に、我々にはすべきことがあります」
そう言い、矢部は席から立ち上がった。
ホテルの廊下の隅。佐々木は電子タバコを咥えていた。順子と佐々木は紙コップに入ったコーヒーを飲みながら会談が再開するのを待っていた。新品の絨毯が敷かれた廊下は、あわただしく報道関係者や政府関係者が行き来していた。
佐々木は突然口をひらいた。
「楠田ちゃん。戦艦長門の主砲は?」
「41サンチ砲が4基です!」
「お、さすがだねぇ。よっ、ミリオタ」
長門は太平洋戦争時の日本の旗艦だ。象徴といっていい。順子は、なぜそんなことを聞かれたか考える前に、反射で答えてしまい、そんな自分に気づくと、恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「じゃあさ、長門の最後って知ってる?」佐々木はコーヒーに口をつけながら聞いた。
「中破で終戦を迎えたんじゃありませんでした?」順子は顔を上げた。
「その後だよ」
「えーと、何でした? ビキニ環礁の原爆実験で沈没したんですよね。クロスロード作戦でしたっけ? 今は観光の名所だとか」
佐々木は、「なんだ……知ってたの」とつまらなそうに言った。
「そうだよ。日本の魂は、アメリカの原爆四発で完全に叩き折られた。米軍によって主権を奪われ、今は民主主義の幻想の中に住んでいる」
「なにが言いたいんです」
「え? 核に滅ぼされた後は、世界有数の原発大国になって、んで、核の傘に守ってもらうために、主権を明け渡すなんて、皮肉な話だとは思わないかい?」
順子は、これだからオジサンの話しは回りくどい、とイラついた。そもそも、選挙があるのに主権がないなんて本当かしら、よくある陰謀論じゃないかと思った。
「朝鮮人だけじゃなくて、日本人にとっても朝鮮戦争は終わっていないってことさ。それが今日変わるかもしれない。こんな、うっちゃりみたいな手、誰が考えたんだろうね。ま、これだけじゃ足りない。だいたい、うっちゃりなんて判定にもつれ込むもんさ。で、判定になれば軍事的経済的に力がある方が勝つんだ。さて、彼らの次の手は何だろう……、久しぶりにワクワクしてきたよ」
楽しそうにしゃべる佐々木。その横で、順子は、いいかげん分かるように言ってよ! と心の中で叫んだ。
会談が再開すると、矢部は、拉致された少女、琴之葉すずの安否の確認を要求した。事前協議でも要求していたことで、この会談の場で持ち出したのは当然だった。むしろもっと早くても良かった。
扉が開き、高校の制服を着たひとりの少女が、会場に入って来た。黒服の護衛が付き添って来たが、彼はそのままドアの横に待機した。会場がざわつき、シャッター音が響く。
少女は、キョロキョロと周りを見ながら歩いた。自分が場違いなのが申し訳ないように思っているらしい。数千枚はあろうかという書類を両手で抱えていた。彼女は、金月成が席に座っているのを見ると、ほっとしたように微笑んだ。
彼女は、居並ぶ首脳たちに会釈しながら進み、矢部総理の机の前に立った。
「は、はじめまして! 琴之葉すずです! こ、この度は、私たちのために、ありがとうございます!」
すずは矢部に深々と頭を下げた。矢部は立ち上がり、彼女の傍に行くと、肩に手を添えた。
「大丈夫でしたか? 辛かったでしょう。もう安心です」
「はい!」
すずは嬉しそうに答える。矢部とすずのツーショットが世界に流れた。
「これ、今までに拉致された人の調査書です! 一生懸命調べました。読んでください!」
すずは、元気に書類の束を矢部にさし出した。矢部は微笑んでそれを受け取った。
「これは大切に読ませていただきます」と矢部が言った時だった。
報道席の中から、「彼女は本物ですか! 用意された替え玉の可能性はありませんか!」と声が飛んだ。すかさず、管理官が、誰が言ったのかと動きはじめる。
麻原は目尻をさげてすずに尋ねた。
「たしかにそうですな。あなた、自分が本物の琴之葉すずだと、今、証明できますか?」
彼女は、うーん、と考えた。学生証なんて役に立たない。会場に沈黙がながれる。みな固唾をのんで見守った。彼女は、しばらくすると、そうだ、と顔を輝かせて言った。
「できます!」
会場の者はみな、彼女がどうするのかと、次の言葉を待った。すずは元気に言った。
「わたし、歌をうたいます!」
会場に居並ぶ人々の誰もが、口を開けて固まった。




