第55話 調印案
日本各地、拉致被害者家族の住む町の集会場には、拉致被害の関係者が集まっていた。それを取材するテレビ局や新聞記者もいる。
京都、三柱町はとくに賑わっていた。
すずの母親。隣人。町内会長。学校関係者。同級生、文芸部の部員たち。釣り船屋の増田夫婦。増田の妻はお腹をさすりながらテレビを見ている。増田は、平壌に行った翔一から何も聞いていなかったが、きっと武田のじいさんや翔一たちが何かをやったのだと信じていた。
みな集会場に集まり固唾をのんでテレビを見ていた。これから北朝鮮との首脳会談生中継がはじまる。この結果次第で離ればなれになった家族知人が帰国できるのだ。
「大丈夫よ。きっと帰って来る」
テレビの前、特等席を与えられていた琴之葉茶子は、すずの同級生、杉崎さおりの手をとった。
「おばさん……」
不安げなさおりは毅然とした態度の茶子を見て頼もしく思った。
集会場の小さな玄関では、細田保志と大野秀樹が、ペットボトルのお茶や紙コップを用意していた。店の手伝いで配達に来たが、そのまま小間使いをさせられている。
保志と秀樹は、そこで、三上剛士の母親から、息子の行方を知らないかと聞かれた。
まさこは、しばらく帰って来ない息子を心配していたが、主人から警察には届けるなと言われ、密かに友人たちに聞き回っていたのだ。父親は父親で、そうは言ったものの、息子を心配しており、出て行って三日ほどしてから、毎日していた晩酌を止めていた。
保志が、すぐさま「ああ、三上先輩なら」と答えようとすると、秀樹はあわてて、彼の口をおさえた。
「あの、僕たち、知っているけど……、言えません……」
秀樹が答えると、まさこは、うちのバカ息子に口止めされているね、と思い、それ以上追求しなかった。とりあえず、無事なんだと思い胸をなでおろすと、彼らに言った。
「こんど剛士に会ったら、もう怒ってないから帰って来いって、伝えてくれる?」
保志と秀樹は「はい」と答えた。まさこは「よろしくね」と行こうとしたが、ほっとすると、なんだかムカムカしてきたので、ついでに、こう付け足すように頼んだ。
「本当は怒っているんだよ。あのクソバカ息子。心配ばかりかけて。帰ってきたら、父ちゃんと一緒に、死ぬまで叱ってやるから覚悟しておきな、ってね」
まさこがテレビ部屋の方入って行くと、秀樹は、そんなこと言ったら、ますます帰りづらくなるんじゃないか、と思った。
集会場の中にも外にもジャーナリストが溢れていたが、それに混ざり、目つきの鋭い男が二人いた。くたびれた背広を着た彼らは、保志と秀樹に注意を向けていた
北京。ワールドサミットホテル。首脳会談会場。
「いやあ参ったよ。言葉が通じなくてね」
佐々木は、通訳して警備員の誤解を解いてくれた順子に囁いた。
「編集長、広東語じゃだめですよ。てか、なんで広東語なんです? 普通は北京語でしょ」と順子はあきれた。
「僕、スペイン語やアラビア語は得意なんだけどね。中国語は香港映画を観て覚えただけだから」
佐々木がヘラヘラして言うと、順子は、このオジサンも語学が得意なのかと、心の中で舌打ちした。順子と佐々木が、各国のジャーナリストたちをかき分けて席に戻る途中、中国の管理官が近づいて来た。
「最終警告だ。私語を慎むように」と彼は怖い顔をして言った。順子は「すみません」と謝り、デスクのせいだ、と彼を恨んだ。
彼女は席に座ると、レコーダーとカメラの動作確認を再びおこない、そして胸を高鳴らせて、次々に会場に入って来る中日朝の首脳を迎えた。
順子は、一瞬だけ、佐々木はこの大事な時にどこに行って何していたのかと気になったが、その事はすぐに忘れ、会談に集中した。
(うわ。本物の矢部首相だ。テレビで見たのとそっくりだ)
翔一は感動していた。もちろん金月成の姿である。先日、習禁屏と会った時には緊張したが、感動はしなかった。新聞やニュースを見ないので、顔を知らなかったのだ。
中国のなんか偉い人。翔一にとってはその程度だった。
が、矢部は違った。ニュースは見なくても、ことあるごとにテレビで見、また、保志がよく教室の黒板の前でモノマネをしていたのだ。けっこう上手かった。
翔一は、それを思い出す。保志は眉毛を下げて、神妙な顔つきで言ったものだ。
「われわれは……、国際社会と、協調して、また、足並みをそろえて、かき氷に、黒蜜を……かけ、また、それと並行して、生クリームも、たっぷりと、ぐるぐる巻きに……盛り、誠心誠意、よく、味わって、食べていく、必要が……あります。ただし、この時、けっして、マヨネーズを、かけては……なりません。それは、マヨラー、であっても、です。なぜなら、これは、伝統ある日本の、美しい、かき氷、だからで、あります」
クラスは大爆笑だった。
翔一は、一瞬、顔がにやけそうになったが、それを我慢した。
(気を引き締めないと。俺が、すず先輩を日本に帰らせるんだ。そして友香子さんやヨンニョたちが自由に国を行き来できるようにするんだ。会談を何としても成功させよう)
彼は会場に足を踏み入れ、対面していた習禁屏と矢部仁三に近づいた。そして、習禁屏と握手をすると、矢部の方を向き、握手をしようと矢部に手を差し出した。会場にシャッター音が響く。
矢部は一瞬固まった。大門が矢部の脇に進み出る。
コンマ何秒かの空白。翔一は、握手は何かマズかったのかと思った。
話はすこし戻る。
短い時間の中、山野が進めた協議に登った主な調印案は三つ。
1.生存する拉致被害者の即時帰国。
2.朝鮮は行方不明、あるいは死亡した拉致被害者の徹底した調査を行う。日本はその調査に加われる。
3.日本および朝鮮民主主義人民共和国は、拉致被害者、およびその家族、関係者の日本と朝鮮間の自由な渡航を保証する。
先週、矢部はそれを聞き、半信半疑だった。首相官邸において山野に確認した。
「経済援助だけでなく、アメリカとの関係をとりなす等の要求は、なかったのですか」




