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惨劇(2)

 魚たちの中から嗚咽がこぼれた。血の量はあまりにもおびただしい。そして、目の前には乙姫の片腕だけが残されている。乙姫が助かっていないことは明白だ。それどころか、乙姫は想像を絶する非業ひごうの死を遂げたに違いない。


 乙姫はこの城の姫である。他に替えのきかない存在であり、魚たちにとって自らの命よりも大切な存在であった。

 何年も前に乙姫が「地上に帰りたい」と言ったときですら、魚たちは悲しみ、竜宮城は大混乱に陥った。乙姫が一時的な帰郷である旨を述べても、魚たちは反対し、結果として乙姫は地上に戻ることを断念した。それくらいに乙姫は欠くことのできない存在なのである。その乙姫が死に、変わり果てた姿となってしまった。これほどまでに耐え難いことはない。平目は、周りの魚たちの表情を見ることすらしのびなかった。


「どうして…」「なんで…」と魚たちは口々に言った。乙姫の死因が判明したところで、乙姫が帰ってくるわけでもないため,これらは誰に問いかけるわけでもなかったとは思う。もっとも、浦島は回答する。


 

「殺されたんだ…」


 乙姫は殺された。状況からしてそうとしか思えなかったものの、その言葉自体は魚たちにさらなるショックを与えた。平目の隣にいた魚の気が遠のく。もはや気を失っていない魚たちの方が少ないかもしれない。



「乙姫は殺されたんだ。こいつにな」


 浦島は、部屋の隅に転がっている巨大な魚の死体を指差した。


 鮫の死体である。


 竜宮城にはありとあらゆる魚が生息しており、魚類最大の種目である鮫も当然生息していた。



「このホオジロザメに殺された…いや、食われたんだ」


 ホオジロザメは、海の生き物の中でももっとも獰猛どうもうな部類に入る。さらに人間を食すことでも知られており、「人喰い鮫」との異名も持つ。



「まさか、鮫が乙姫を食べてしまったのですか…?」


 平目の問い掛けに対し、浦島は大きく首を縦に振った。魚たちからは悲鳴が聞こえた。

 平目は取り乱す。



「…そ、そんな、そんなはずはありません。鮫が乙姫様を食べるはずがありません!」



 紛うことなき本心である。平目は、鮫が「人喰い鮫」であることを知っている。しかし、鮫が乙姫を食べるということは絶対にありえない。なぜなら、鮫もまた自分たちと同様に竜宮城の住民であり、自らの命よりも乙姫の命を大事にしているからである。

 それに、竜宮城では食べるものに困ることはない。乙姫を殺して食べなければならないほどの空腹に襲われるということもありえない。



「…だが、食べたんだ」


「ありえません! 鮫は心優しく、さらに乙姫様と仲も良かったんです」


「…そうかもしれないな」


「鮫が乙姫様を食べるだなんて、ありえません!」


「ああ、そうだろうな。…鮫が正気でいる限りはな」


 残された乙姫の腕を胸に抱えた浦島は、横たわる鮫の巨体を睨みつけた。



「乙姫を食ったとき、この鮫は正気じゃなかったんだ。知っているか? 鮫は血の匂いを嗅ぐと狂乱状態になるだ。半ば意識を失った状態で血の匂いの元へと向かい、襲う」


 初めて知った。鮫にはそんな習性であるというのか。理性や乙姫への愛情よりも,その習性が上回るというのか。



「悔やんでも悔やみきれないよ。乙姫に立派な日本刀が飾ってある部屋があると言われ、この部屋に案内してもらったんだ。たしかに部屋には日本刀が飾ってあった」


 普段使わない客室のことは平目には分からなかったが,乙姫は詳しかったらしい。竜宮城の主として、竜宮城のことをなるべく把握しようと努めていたのかもしれない。



「俺がこの日本刀が本物かと尋ねたところ、乙姫はその日本刀に触れたんだ。軽く触れただけなのに、乙姫の指からは血があふれてきた。乙姫は『痛くないから大丈夫』と言っていたが、問題はそこじゃなかった。それから間もなくして、目の色を変えた鮫がこの部屋に現れ、乙姫を襲ったんだ」


 平目は唖然とし、何も言葉を発することができなかった。



「あまりに突然のことに、俺はどうすることもできなかった。鮫はまず、血が出ていた乙姫の右手を引きちぎって喰らい、それから頭を…」


 決して聞きたくない話である。想像でその光景を再現したら、平目の意識まで飛んでしまう。浦島にとっても積極的に語りたい話ではなかったのであろう。浦島はこれ以上は話さなかった。



「では、鮫を殺したのは、浦島様ですか?」


 横たわる鮫の頭部には、黒色のさやが妖艶に煌めく日本刀が突き刺さっていた。この部屋を真っ赤に染めている血のうちの幾分かは鮫から吹き出したものであろう。



「ああ、そうだ。乙姫がほとんど食べられてしまったところで、俺はようやく動き出すことができた。無我夢中で鮫に日本刀を突き刺した。ただ、時すでに遅かった。残ったのはこれだけなんだから」


 浦島は抱きかかえた乙姫の左腕に目を遣った。腕は表情を持たないが、それが乙姫のものであると思うと、愛らしさを感じる。



「浦島様、今から鮫の腹を割いて乙姫様を救えませんか」


「バカ言うなよ。この血の量を見てくれよ。乙姫は、引きちぎられ、細かく咀嚼そしゃくされたんだ。腹を割っても、この腕みたいにバラバラになった部位が出てくるだけだ。もう手遅れなんだよ」


「そうですか…」


 希望は完全に途絶えているということである。平目はうつむくと、畳に向かって嗚咽を漏らした。



「乙姫…守れなくてごめんよ」


 浦島は、乙姫の左腕に優しく囁きかける。そして,それを自らの口元に近づけると、手の甲にそっと口づけをした。

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