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永遠(2)

 乙姫はふいに夢からめた。表情が曇ったことが自分自身でも分かる。



「浦島様、まさか地上に帰られるつもりですか?」


 返事をせず、淡々と下着をまとい始めた浦島に対して、乙姫が畳み掛ける。



「ここは極楽なんです! 地上なんか比べ物にならないくらいの良い環境です!ここを捨てて地上に戻るなんて馬鹿げています!」


「…かもしれないな」


 浦島がぼやく。



「かもしれない、じゃないです。そうなんです。どう考えたってここの方が良いに決まってます! 毎日美味しい料理が食べれて、毎日魚達が舞を披露してくれます。それに、ここには永遠があるんです! 他に何を望みましょうか!?」


 浦島が訪れてからの約200日間、乙姫を始め竜宮城の住民達は浦島をこれでもかとばかりにもてなした。あれほどのもてなしを受ければ、浦島は文句の一つも言えないはずだ。現に浦島は、毎晩酔わせてくれる美味い酒、そして毎晩抱くことができる乙姫の柔肌やわはだに満足していたではないか。なぜ竜宮城を出て行くのか。正気の沙汰さたではない。



 浦島は乙姫の問いかけに答えないどころか、ついに乙姫に背を向けた。


 乙姫は浦島の背中に向かってヒステリックに叫ぶ。



「浦島様! 何のために、一体何のために地上へと戻られるのですか!?」


 浦島が振り返る。



「…家族がいるんだ。地上にな」


「家族?」


「竜宮城では時間が止まっているかもしれないが、こうしている間にも地上では時間が経過している。そうだろ?」


 今度は乙姫が黙る番であった。乙姫はとっくに地上での生活とは決別している。しかし、浦島はそうではない。



「俺の村では、30年前に少女が神隠しにあっている。姉妹で海を散歩していたときに、姉が突然姿をくらました。妹が夕日を眺めているほんの数秒の間の出来事だったらしい。神隠しにあった少女の名前はおと。行方不明になった当時は19歳だった。乙姫、お前のことだろう?」


 乙姫は答えなかったが、沈黙は肯定こうていを意味した。



「妹の方の名前は夢。俺は夢おばさんには大変世話になったよ。俺が乳児の頃には母乳だって飲ませてくれたんだ。乙の神隠しの当時15歳だった夢おばさんは、現在45歳。当然だ。地上の世界では通常通り30年の時間が経過しているんだからな」


 あの夢がすでに45歳だなんて、乙姫は信じられない想いであった。もちろん、頭の中では地上での時間の経過は認識している。しかし、乙姫の記憶の中の夢は15歳で止まっているのである。目の前の男性に母乳を飲ませていただなんて、あべこべな話にしか思えない。



「とにかく、俺は家族に会いたいんだ。お母さんやお父さんは突然行方不明になった俺のことを心配しているだろう。それに、来週、俺の妹の結婚式があるんだ。兄が欠席するわけにはいかない」


 乙姫は上体を起こすと、浦島が羽織った甚平の袖をギュッと掴んだ。こみ上げる感情は涙になり、乙姫の気道をふさぐ。声を振り絞り、乙姫は懇願こんがんする。



「浦島様、行かないでください。私を捨てて地上に戻らないでください」


「捨てるだなんて言わないでくれ。別に俺は乙姫のことが疎ましくなったわけではない。この上なく愛おしく思っているさ」


「ならば、行かないでください」


「だったら、乙姫も一緒に地上に来ればいいじゃないか」



 浦島の提案はとてもありがたい。乙姫をまっすぐに捉えている色素の薄い目には嘘偽りはなく、浦島が乙姫との駆け落ちを本気で望んでいることも分かる。しかし、乙姫は、気持ちとは裏腹に、ここで首を縦に振るわけにはいかなかった。



「浦島様、それはできません」


 予想外の回答に裏切られた気分なのだろう、浦島はポカンと口を開けた。



「何故だ?」


「竜宮城の者が許してくれないのです。私はこの竜宮城の姫ですから」


 30年前、一人の村娘であった乙は、竜宮城に来て乙姫になったのである。別に権力を握っているわけではないが、欠くことのできない中心的な役割である。

 しかし、浦島は乙姫の答えに納得していないようであった。



「乙姫が竜宮城の姫であることは分かっている。もちろん、乙姫がこの城の誰からも愛されていることもな。ただ、乙姫が別にそれに縛られる必要はないんじゃないか。竜宮城の者達に黙って逃げ出せばよいだろう」


 乙姫は大きくかぶりを振る。



「浦島様、それもできないんです。私は竜宮城に軟禁なんきんされているのです」


「軟禁?」


「そうです。地上に戻りたいからといって、私が地上に戻れるわけではありません。私も竜宮城に来て間もない頃には、ちょうど今の浦島様のように、地上に帰りたいと思い、魚たちに頼んだこともありました。しかし、魚たちは許可しなかったのです」


「魚たちの許可なんて不要ではないか。勝手に戻ればいいだろう」


「それはできません。なぜなら、ここから地上に戻る方法はただ一つ、亀の背中に運んでもらうしかないのです。地上と竜宮城を行き来できるのは亀だけなのです。亀が認めない限り、私は地上には戻れません」


 この竜宮城に生息する唯一の爬虫類が一匹の大きな海亀であった。30年前に乙姫を浜辺から竜宮城へと誘拐したのもこの亀である。浦島も、この亀に連れられて竜宮城に来たとのことだ。他の魚たちが竜宮城の中を生息域にしているのに対し、どういうわけかこの亀だけは地上にまで行くことができる。竜宮城と外部との橋渡し役がこの亀なのである。



「なるほど…」


 浦島は大きく頷くと、ついに袖を掴んでいた乙姫の手を払った。



「それじゃあ、残念だけどどうすることもできないな。乙姫、今生こんじょうの別れだ」


 浦島の最後通牒さいごつうちょうが乙姫の頭を激しく揺さぶった。乙姫は懸命に叫ぶ。



「嫌です! 浦島様、堪忍して下さい! 私を置いて行かないでください」


 乙姫がどんなに大声を出しても、目の前の浦島の心には一切届かなかった。


 浦島は再び袖を掴んだ乙姫の手を払おうと、逆の手を伸ばす。



 そのとき-


 浦島は突然動作を止めた。



「…あれ? どういうことだ?」


 浦島は自らの右手をジッと見つめている。



「浦島様、どうされましたか? 浦島様? 浦島様?」


「乙姫、黙ってくれないか。今、考え事をしてるのだ」


 浦島は右手を見つめたまましばらく固まった後、 乙姫にかろうじて聞こえる声でこう呟いた。



「…なるほど。そういうことか」


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