【丙の章】その贈物、玉手箱
「あっはァァ~ン、太郎さまァー! ささ、グイ、グイッと空けて下さいましっ!」
場所は竜宮城の『金剛石の間』と呼ばれる、先程まで太郎さんが案内されていた謁見の間より更に煌びやかに飾られた一室。
『金剛石』の名を冠する通り、その場所の至る所にはキラキラと光を放つ金剛石めいた装飾品が飾られておりました。
青い海の中にあって尚一層の光を放つその場所は──派手過ぎて下品、と言わざるを得ない華美なものでありましたけれど、確かに竜宮城の中でも一番贅を尽くした部屋でありました。
今、太郎さんはその部屋に唯一設置されている、大人であれば五~六人はゆうに座れるであろう巨大な長椅子の真ん中に座り、自分にしなだれかかる様にして寄り添う乙姫様の歓待を受けているのです。
「乙姫よ、おれにそんなに気を遣ってくれるな。どうせすぐに……」
『地上に戻るのだし』と言いかけた太郎さんの頭を目掛けて、何処からか大きな貝殻が飛んで来て見事に額に命中しました。
驚いた太郎さんが貝殻の飛んで来た方向を見やれば、再びあのグラサンを掛けた亀さんが片方のヒレを太郎さんに向けて突き出しています。
……何故でしょう、亀のヒレに指などない筈ですのに、その時、太郎さんには確かに中指だけをオッ立てている下品な仕草が見えるようでした。
亀さんは太郎さんの態度にご立腹のようです。
「気など遣っておりませんわ。こうして貴方様のお側に侍る事が出来て、ワタクシ、本当に幸せですのに……」
上目遣い。涙目。片手は腕に、そしてもう片手は膝の上に。先程から着替えたと思しき更に豪奢な衣装から垣間見える胸元からは立派な谷間。
……普通の男性であるならば、イチコロの筈でした。そう、普通の男性であるならば。
「……キモ……って痛いっ!?」
再び飛んで来た……何とサザエの抜け殻が太郎さんの額に命中します。
発信源は勿論亀さんであり……太郎さんも、本音を隠して演技せよ、という亀さんとの約束を、仕方がない、とようやく実行することにしたようでした。
「おお、おとひめよ。そのうつくしいすがたにみとれてなにもいうことができずにいるおれをゆるしてくれ!」
見事なまでの棒読みでした。
スコーーン! と、見事な音が周囲に響き渡ります。
流石の乙姫様も驚いて太郎さんの様子を見やれば、なんと今、太郎さんの頭には見事なまでの巻貝(中身入り)が太郎さんの頭に取り付いていたのでした。
「……まぁ。太郎さまの麗しい顔に取り憑くなんて……私を差し置いて、随分勇気のある貝ですこと」
勿論それは、巻貝さんの意思ではありません。亀さんの剛腕と精密なコントロールによって、太郎さんの頭を目掛けて投げ付けられただけの巻貝さんはもう涙目です。
そして、巻貝さんに取り憑かれた状態の太郎さんには見えませんでしたが、悪鬼も尻尾を巻いて逃げ出してしまうような怖い表情を見せた乙姫様は、意外な程の膂力を発揮して巻貝さんを太郎さんから剥ぎ取りました。
「……下がりなさい、下衆が。料理人、これを壺焼きにしておしまい!」
そうして、巻貝さんの不幸な貝生は、壺焼きにされて醤油をさされ、太郎さんに美味しく頂かれるという結末を迎えたのでした。
ですが、この場において大切なことは、巻貝さんの人生などでは決してなく。
「太郎さま。部下が失礼を致しましたわ。ささ、もう一献!」
嫣然と微笑んだ乙姫様が、尚も太郎さんにしなだれかかり、お酒を勧めて来ます。
今までの失態から、これ以上の失言は無駄に怪我をするだけ、と悟った太郎さんは、意外な程の演技力を以てその誘いに乗るのでした。
「……気にしておらぬよ、乙姫殿。ハハハ、この城の従業員は、うっかりさんが多いでござるなぁ!」
……訂正します。演技など、全く出来てはおりませんでした。無理しているのが丸解りです。
けれど、先程のような棒読みではなく、口調が武士に変わっただけで、その表情には柔和な微笑みが浮かんでおり、稀代の美丈夫の微笑みは、乙姫様を油断させるには充分だったようです。
「まぁ……太郎さまったら。お酒を召し上がると漢らしさが増しますのね……。乙姫、トキめいちゃいますわ……!」
うっふん、という擬音が漫画のように二人の背後に浮かんで見えるようです。
「乙姫殿。夜は長いでごさるよ。のっけから飛ばしてしまっては、後が続かないではないか……」
もはや、覚悟を決めた様子の太郎さん。
その美貌を不敵な微笑みに変え、乙姫様の頬に手を添えるというサービスまで披露しながら、ズイ、と顔を近づけて彼女の瞳を下から見上げています。
黒真珠のようなその瞳には、諦めと自己嫌悪による涙が浮かんでいたのですが……。
上目遣い。涙目。片手は頬に、そしてもう片手は膝の上に。
期せずして先程の乙姫様と同じ様な仕草を彼女に対してしてしまう事になってしまっておりました。
「ゴフっ……!」
天然物の一点モノの太郎さんの攻撃を受けて、流石の乙姫様も悶え苦しんでいる様子で、鼻を押さえて太郎さんから顔を背けています。
見れば、その白魚のような指の間から、ツツ、と真っ赤な鮮血が滴っており……どうやら乙姫様は鼻血を吹いたようでした。
慌てた周囲の侍女が、手に手に布や薬を持って乙姫様に駆け寄り、太郎さんから引き離して治療を開始したので、太郎さんはやっと一息吐く事が出来たのでした。
(──演技とは言えキツいぞ、亀よ。早くしてくれ……)
フゥ、と人知れず溜め息を吐く太郎さんの姿は深い哀愁を伴っており……乙姫様ならずとも、その姿には見惚れてしまう色気を放っていたのですが……。
勿論、当の太郎さんにはそんなつもりは全くなく、彼の頭の中はこの時も、地上に残して来ざるを得なかったおっかさんの心配でいっぱいだったのです。
─── ●・○・●・○・● ───
「太郎さま、貴方様にはこんな装飾品も似合うのではないかと思うのです」
乙姫様の背後に行列を成し、手に手に宝箱を携える部下たちが持つ宝箱の中身から、乙姫様が美しい耳飾りを取り出し、太郎さんの耳に宛がいました。
金剛石の間の光を受けて輝きを放つその黒真珠の耳飾りは、確かに黒髪黒目の太郎さんの魅力を一層引き立ててくれるようです。
「……おお、何と美しい黒真珠……。未だかつてここまで見事な逸品は見た事がないぞ……。天皇様への献上品ですら、ここまで見事な品はないのではないか……」
装飾品など身に着けた事もなく、また興味もない太郎さんでしたが、流石は漁師、海の宝と言うべき大きさを誇るその黒真珠の価値は一目で解ったようです。
太郎さんの掌より二廻り程小さなその黒真珠は、どこか禍々しいまでの美しい輝きを放っておりました。
流石に身に着けるには重いものでしたが、そんなものは些細な問題であると、太郎さんですら思う程の、それは世界を探してもまたとない価値を誇る逸品でありました。
「良くお似合いですわ、太郎さま!! その美しい瞳の輝きが、より一層輝きを増すようです!」
うっとりと、その黒真珠を飾られた太郎さんに見惚れる乙姫様。
そして、感極まった様子で太郎さんに抱き付き……その豊満な胸を彼に押し付けています。
「……この城に伝わる逸品ですわ。これを差し上げると申し上げたなら……ねぇ、太郎さま。もう少し、乙姫にも優しくして下さいますか?」
そうして再び上目遣いで太郎さんを見上げる乙姫様。
その表情には媚も諂いもありましたけれど……何処か、今までで一番純粋な、太郎さんに対する憧れめいたものも浮かんでいたのです。
乙姫様──彼女は確かに、美丈夫好きなメス犬ではありましたが……自分の感情には酷く正直な女性でありました。
今までの乙姫様は、自分におべっかを使う存在のみを相手にして来た為に、相手を立てる、だとか一歩引いて支える、というような謙虚さを持った事などなかったのです。
けれど、何故だか、初めて出会うただの人間である太郎さんに対しては……ただの美丈夫と言うよりはもっと大切な気持ちを持ちそうな予感すらしていたのです。
勿論、竜宮城の至宝と呼ばれる黒真珠を太郎さんに贈答することには、葛藤もありました。
けれど亀さんの「乙姫様、浦島太郎という男は、金銀財宝に目のない、下衆な人間の一面を持っておりますぜ」という有り得ない進言を真に受け、
一目で恋に落ちてしまった太郎さんへの執着や……本当に珍しい事ですが、深い愛情も、そこにはあったのです。
……彼女がもう少し早く、その気持ちを持ち得ていたならば。そして相手が太郎さんでなければ。
乙姫様も『初恋』という、甘酸っぱい気持ちを持続させる事が出来たのかもしれません。
──けれど、全ては遅すぎました。
亀さんの精神的圧迫感は既に最高を振り切っておりましたし、恋をした相手もまた太郎さんという──その美貌が全く通じない難敵でありました。
乙姫様は今まで、相手を慮るどころか虐げることで自分という存在を維持していましたし、生まれた時から『乙姫』という、この城の主であった彼女に刃向う者などいなかったので、
彼女にとって、自分の都合の良いように周囲が動くことなど当たり前の事でしたから、疑問を持つ事などなかったですし……裏切り、などという言葉すら知らずにいたのです。
ですが勿論、そんな乙姫様に虐げられていた竜宮城の生物達にとっては、彼女は只の我が儘女でありました。
「乙姫よ……。おれには過分すぎる品だ。申し訳ないが、これは受け取れない」
太郎さんの口調が少し、普段のものに戻ったようです。
……実は亀さんと立てた作戦は『乙姫を誑かして金銀財宝分捕って、それを間界に持ち帰って楽して生きようぜ!』といったものでした。
そして、その作戦の為に慣れない演技をするなどという苦労をしていた太郎さんでしたが、この言葉は、その作戦を台無しにしてしまうものでありました。
今、亀さんはようやく太郎さんが約束通り演技を開始したことに安心したのか、次なる作戦の為に部屋から出て行ってしまったので、そんな太郎さんに対する攻撃はありません。
そして太郎さんも、決して乙姫様に絆された、という訳ではありませんでした。今でも彼の目には、彼女の顔はへのへのもへじに見えているのですから。
ですが、浦島太郎というその男は──人の心の機微には疎いくせに他人の欲しい言葉には非常に聡く、無意識で言ってしまうという『天然タラシ』な一面がありました。
「おれはお前が嫌いだから一切の関わりは持ちたくない。けれど……お前の幸せを妨害する権利は、おれにはない。
乙姫よ。自分の短所を認めて改善し、今、自分に向けている愛情を少しでも他人に分け与える事が出来れば……幸せになれるのではないか。少なくともこの城を任される程度の器量はあるのだから」
太郎さぁーん!! と、亀さんの代理で叫びたい程のタラす台詞でございます、『その器量があれば幸せになれる』と……乙姫様のような誇大解釈が得意な相手に対して言ったのですから。
しかも、今までつれない発言をしていた太郎さんから齎された、突然の、乙姫様にとっては愛の告白にも似た……最初に落とし、次に心配し、最後に上げる、という高等技術を発揮した発言でした。
乙姫様がこの言葉を言葉通りに受け止め、今までの自分を少しでも良い、省みる事があったならば、彼女も少し変わる事が出来たのかもしれません。
……ですが、本当に残念です、乙姫様はあくまで乙姫様でありました。
「……亀の情報が偽りであったようです。あとでキツ~~~~い折檻を与えませんとねぇ……」
……本当に残念です。生まれ変わるきっかけがあったと言うのに、乙姫様はその機会を活かす事をしませんでした。
結局彼女は、太郎さんからの褒め言葉は脳内で盛大に拡大して受け取り、その他の言葉は脳内のお花畑の肥やしにしてしまったのです。
そして、竜宮城の至宝と言われているお宝を差し出したのに太郎さんが陥落しないのは、亀さんが自分に齎した情報が嘘であった為だと考え、ここにはいない亀さんに対して残忍な気持ちを向けるのでした。
──最も、浦島太郎という男が金銀財宝では落とせない、という乙姫様の理解は、皮肉な事に真実ではあったのですけれど。
「止めてやれ。その黒真珠を貰う代わりにおれの願いを叶えてくれるというなら……あの亀を、おれにくれ」
……その言葉は、乙姫様にとっては非常に屈辱的な言葉でした。
乙姫様の贈り物の替わりに亀をくれ、と、太郎さんは言うのです。
それは、国宝とも言うべき宝石よりも亀さんが大切であるという事と大差がないことだと、乙姫様は思ってしまったのです。
「まぁ……太郎さまったら欲のない方ですのね。竜宮城の至宝とも言うべき黒真珠を袖にしてまであの亀を望まれるとは……。乙姫、少し嫉妬してしまいますわ」
豪華な扇子で口元を隠し──その奥歯からはギリリ、という歯軋りの音が聞こえておりましたが、太郎さんを含め、周囲の存在にはその音は『聞こえませんでした』。
そうとでも思わなければ、邪悪な表情を浮かべている乙姫様から発せられる、視覚も聴覚も蹂躙されてしまいそうな程の恐怖に耐えられそうにはなかったのです。
視覚は……どう見ても邪悪、としか言い様のない乙姫様の姿は見て見ぬ振りなど出来ない程に強烈な存在感を放っておりましたので、せめて音だけは、幻聴である、と思い込むことで身を守ろうとする防衛本能の表れでございました。
「いや、違うぞ、乙姫よ。おれはあの亀に執着しているのではない。ただ、ここに連れて来られた時に乗ったあの亀はなかなか乗り心地が良かったからな……言わば乗用旅客車だ、ただのアシだぞ、アシ。深い意味はないから気にするな!」
さすがに恐怖を感じたのか、太郎さんがそんな事を言い募ると、見る見る乙姫様のご機嫌が直ってゆきます。
「そうですわよねぇ……。イヤですわ。乙姫ったら、少し勘違いしてしまいましたわ。太郎さまがあんな薄ら小汚い亀をなど、望まれる筈ありませんのにね?」
ギラリ、と擬音が聞こえて来そうな凶暴な光をその紅い瞳に篭めて、乙姫様が太郎さんを見やり、そしてすかさず片腕に縋り付いて今度は涙すら浮かべた上目遣いで言い寄ります。
……変わり身の早さにおいて、乙姫様に叶う存在など世界の何処にもいないと断言出来る程の素早さでございました。
「太郎さま、貴方様の母上様を想われる気持ち、乙姫にもよぉぉーーく解りますわ」
媚びる様な甘い口調の乙姫様の言葉に、一瞬だけ周囲がざわめきました。
「ええぇぇ!?」「そんなん、乙姫様に理解出来るハズが……」「何言ってんだ、あのオンナ……」と、そんな囁きが聞こえて来ます。
ですが、再び邪悪な色を浮かべた乙姫様の紅い瞳が周囲をギロリと一瞥すると、言葉は途端に聞こえなくなりました。
「ですが、こうしてお会い出来たのも何かのご縁。太郎さま、私の心を奪った憎いお方。私とて、貴方のお役に立ちたいのです。どうしても帰ると仰るなら……どうぞ乙姫の玉手箱をお持ち下さいまし。
そして、何かお困りの事があれば必ず乙姫を思い出して下さいませね……私、いつまでもお待ちしておりますわ」
これ、亀や、と言って乙姫様が手を打つと、豪奢な扉が開いてあの亀さんが静々と豪奢な箱を捧げ持って泳いで来ます。
……一瞬、太郎さんに目をやり、ニヤリと微笑んで頷いて見せた様から察すると、どうやら作戦は上手くいったようでした。
「……そうか。そんなに言うなら、この玉手箱は頂いて行こう、乙姫よ」
ようやく帰れそうな段となり、太郎さんも少し安心したようです。
全身の力を抜いてフゥ、と一息を吐いた後、その麗しの顔に笑顔を浮かべて言いました。
「乙姫よ、世話になった礼を言う」
日頃の漁仕事と炊事洗濯で多少荒れてはいるものの、男らしさの中に繊細さのある長い指を乙姫様の顎に添え、クイッと自分の方に向かせます。
そして……
「……息災でな、美しい姫よ」
唇の脇の柔らかい部分に、太郎さんの唇が触れたのです。
「!!!!????」
突然の太郎さんの攻撃に、さすがの乙姫様も顔を真っ赤にしてその場に崩れ落ちました。
そんな様子を、亀さんが腹を抱えて笑いながら見ていたのですが、太郎さんに「亀!」と呼ばれた瞬間にそそくさとその側に歩み寄り、笑い過ぎて涙の浮かぶ瞳を太郎さんに向けて言いました。
「参りましょう、太郎さん。地上までお連れします」
うむ、と鷹揚に頷いた太郎さんを乗せて、亀さんは地上へと戻って行ったのでした。
──この後暫く、乙姫様は放心状態であったそうですが、漸く現実世界にお戻りになった時には既に愛しの太郎さんの姿はなく、そこには只、彼に贈ろうとしていた黒真珠の耳飾が置かれており。
かの瞳を思い出させるようなその煌きに、再びあの感触を思い出してポッと頬を染め、大切そうに黒真珠を両手で抱き包んで熱を持った自分の頬に添えました。
「……太郎さま……。乙姫は、本当にいつまでもお待ちしております……」
そうして、その紅い瞳から涙を落とす様はとてもいじらしいもので……周囲にいる主従たちは皆、乙姫様の改心を期待したのですが……
……乙姫様はあくまで乙姫様であったと、申し上げておくことに致しましょう。
お読み頂き、有り難うございました!