【甲の章】その男、浦島太郎
昔むかし。あるところに「浦島太郎」という一人の漁師がおりました。
生まれて直ぐに漁師であったおとっつぁんは海の事故で死に、今は年老いたおっかさんと二人で暮らしているその若者は、「見た目」という取り得以外、取り立てて長所のない男でしたが、その唯一の長所は大層評判となっており、必要最低限の漁師仕事以外は近隣の娘達がこぞって彼の手助けをしてくれる、という有様でした。
「太郎さん、太郎さん! 昆布の佃煮を造り過ぎちゃったから、おっかさんと食べて下さいな!」
「ああ、喜代美さん。いつもありがとうございます」
「太郎さん、太郎さん! ウチのおとっつぁんの船が大漁だったから、獲物を分けてくれるって。だから今日は漁になど行かず、私と遊んで過ごしましょう!」
「ああ、美登里さん、それは有り難いですが、おっかさんからの言い付けで、我が家の食い扶持は自分で稼げとの家訓がありますので、仕事が終わってからにして下さい」
いつの時代、どんな場所でも美丈夫であるというだけでチヤホヤされるのは変わりがない様子でした。
だがしかし、この『浦島太郎』という男は、自分の外見に興味がない為に、それを活かして人生を楽して生きようという考えを持っていないらしいのです。
……ですがそれは、美徳、という訳では決してなく。
「太郎さん、太郎さん。町内会の回覧板がお宅で止まっているのだけれど、いい加減に次に回して頂けないだろうか?」
「ああ、町内会長、すみません。興味がないので捨て置いたので、今度家の中を捜索しておきます」
「太郎さん、太郎さん。ゴミ捨て場の清掃当番がお宅の番なのだけれど、だいぶ汚れているようなのでそろそろ掃除をして貰って良いですか?」
「ああ、班長さん、すみません。興味がないので放置していました。今度、やっておきますね」
自分の容姿だけでなく、全ての物に興味を示さないその姿は、もはや清々しさすら感じさせる程でありました。
そんな太郎さんですが、確かに見目は麗しく──鴉の濡れ羽色ともいうべき黒髪は黒真珠の如き輝きを放っておりましたし、顔の中心を通る鼻梁は富士の裾野を思わせる程にスッキリとした線を描いておりましたし、この時代には珍しい、大きな二重の瞳は黒眼がちで、見る者を吸い込んでしまうかのような魅力に溢れておりました。
……ですが、先述の通り、太郎さんには自分の容姿などどうでも良く、その日を平和に暮らして行ければそれで良いと考える、至って現実主義な若者でありました。
「おっかさん、戻ったよ」
「ああ、太郎、おかえり。今日の漁はどうだったんだい?」
「別に……毎日変わり映えしない成果だよ。ああ、そうそう、お隣さんから昆布の佃煮を頂いたから、今日はこれでご飯にしよう」
ニコリ、と、病床にある母に微笑むと、太郎さんは御勝手に立ち、竈に薪をくべ、フーフーと空気を送り込んで火を起こします。
始めチョロチョロ、中パッパ。赤子泣くとも蓋取るな、とのおっかさんの教え通り、周囲に米の炊ける良い匂いと微かにお焦げの香りが漂うまで、彼は竈の側を離れる事はありません。
米の入手事態は、漁師としての仕事で得た僅かな金銭と交換する他、「逢い引きしてくれたら米一升!」という娘さんの申し出を受けたりしていたので多少の蓄えはある状態でした。
決して褒められた手段ではなかったとしても、太郎さんにとっては「そこに米がある」ことが大切で、病弱なおっかさんに美味しい米を食べて貰う事は更に大切な事だったのです。
浦島太郎──彼は、世の中の殆どの事に興味は示しませんでしたが、こと肉親には深い愛情を与える事の出来る男でありました。
「味噌汁は浜辺で拾ったワカメだけだけど……味噌も米も無添加だし、お隣さんの佃煮は本当に美味いもんなぁ……。おっかさんや、早く元気になってまたおれをどついておくんない」
そして再び、その整った顔に慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、用意した盆の上におっかさん用の食事を並べ、自分の分は畳の上に無造作に置いてクシャッと笑いました。
その表情は、隣近所の娘さん達が見たら悲鳴を上げそうな程に素敵なものではありましたが、太郎さんが外の世界でこの笑顔を放出する事は決してないと言えました。
浦島太郎──彼はまた、外の世界に向けるべき愛情を、家庭内に持ち込んで最大限に発揮している男であったのです。
そんな彼でしたから、勿論おっかさんも彼をとても愛していたのですが……残念ながら今、彼の母親は重い病に冒されており、医者も匙を投げている状況でありました。
「有り難うね、太郎。出来ればおっかさんの事など気にせず、自分の幸せを探しておくれ……」
ゴホン、ゴホンと咳をするおっかさんの背を優しく撫でてやる太郎さん。
自分が結婚して幸せな家庭を築く姿を、出来れば最後に見せてやりたいと願う気持ちはあれど……いかんせん、彼は外の世界に全く興味を持たない男でしたし、
自分の容姿にばかり興味を示して言い寄って来る娘さんたちの顔は、全員がへのへのもへじに見えている有様だったので……
「……おれの事は心配すんない。どうとでも生きて行けらァ。それより、早く元気になってまた一緒に海に出ようや」
そんな未来はきっと来ないと知りながらも、優しく微笑む太郎さんの姿に、おっかさんはそっと涙を拭うのでした。
─── ●・○・●・○・● ───
そんなある日。太郎さんが適当に海に出ようと浜辺に出ると、近所の童達が何やら騒いでおりました。
「よーよー、ノロマの亀さんよ! 首や足を引っ込めてばかりじゃつまらねぇだろー!」
「ガメラになりない、ガメラに! そしたら仮○ライダーがやって来て世紀の闘いが見られるだろうがよォー!」
「くっせェなァ、亀、亀よ! ノロマでクサくて不細工とくりゃア、突かれても仕方のない事だよなァ!」
手に持った木の棒で、次々に大きな亀をつついて遊ぶ子どもの集団でした。
船に乗るにはその場を通り過ぎて行かなければならない太郎さんでしたので、亀と子ども達をチラ見しつつやり過ごそうとしていたのですが……
「ちょっとそこ行くお兄さん! か弱い亀を助けておくんなまし!!」
円らな瞳に涙すら浮かべて、亀さんが太郎さんにそう直談判をして来るではありませんか。
この世界の動物たちは人間同様に言葉を話す存在であったので、亀が言葉を発した事に対しては太郎さんも子どもたちも別段驚きを見せなかったのですけれど。
「……自分の事は自分で何とかしなせェ。生憎おれは、今日の漁で使う道具で両手が塞がっているんでな」
一瞥しただけで、その場を通り過ぎる太郎さん。
そんな太郎さんの様子に焦った様子を見せた亀さんは、声を荒げて言いました。
「ちょっとォォーー!!?? これでは子ども達の雇い損ではないですか!? 設定通りに助けて下さいよォォーー!!??」
けれども、亀さんの悲痛な叫びが太郎さんに届く事はありませんでした。
「太郎さん、太郎さん。今日はどんな獲物を狙って海に出るんです?」
「ああ、五月さん。今日も今日とて適当に何か獲って来られれば良いなと思っていますよ」
「太郎さん、太郎さん。漁が終わったら宅に寄って下さいな。おっかさんの滋養に良さそうな馬鈴薯をやわく煮込んでお待ちしています!」
「ああ、弥生さん。それは有り難いので是非頂きに参りますが、お宅の旦那と子ども達、それから病気のおとっつぁんに先に召し上がって頂いて下さいね」
今日も今日とて、太郎さんは近隣の娘さんや人妻さんにモテモテでした。
そんな彼が、物語の設定通りに「イジめられている亀」に興味を示さなかったのは当たり前の事かもしれません。
何故なら彼は、娘さん(一部人妻)の対応に追われ、それどころではなかったのですから。
浦島太郎──彼はまた、世の中に興味を示さない男ではありましたけれど、自分に向けられた言葉には容赦ないながらも、何らかの反応を示す事で誠意を見せる男でありました。
「浦島さァァァァーーーーん!! こっちも仕事なんですゥゥーー!! カム・バァァァァック!!!!」
なので、亀さんの悲痛な叫びも、太郎さんの耳に届く事はありませんでした。
何故なら彼は、次々に掛けられる言葉に自分なりの言葉を返す事で精一杯だったのですから。
「……嗚呼、また乙姫様にド突かれる……。子どもたち、有り難うね」
一方の亀さんは甲羅から出した首を項垂れ、短い手で器用に甲羅から小判やら金平糖やらを取り出して子ども達に振る舞っておりました。
亀さんの言う「仕事」や「乙姫様」については、その時の太郎さんには一切関わりのない言語だったのですけれど……
──この後、無視出来ない程の関わりを持つ事になろうとは、その時の太郎さんには予想も出来ない事だったのです。
─── ●・○・●・○・● ───
その日から毎日の様に、亀さんは太郎さんの周囲に現れる事になりました。
ある時は涙ながらに卵を産むフリをして興味を引こうし、太郎さんの無視を食らったばかりか、街の瓦版屋に見つけられ、あろう事か彼が周囲の住人に報告した為に「頑張れ、頑張れ!」と村中の声援を受け、不本意ながらも卵(実体はピンポン玉)を産む事になり、しかしその様を感動と共に観察され、翌日の瓦版に大きく掲載されてしまったり(勿論、偽物の卵は密かに回収しておきました)。
またある時は渾身の力で太郎さんの通行路にある松の木を倒し、通行を妨げて直談判しようとした結果、タイミングがズレて太郎さんが通行した後に木が倒れてしまい、この村の御神木であった松の木を倒した事で捉えられ、奉行所で町方様の桜吹雪を目の当たりにしながら裁きを受け、「ただの亀に悪意などあろう筈もない」と涙ながらに訴えて辛うじて捕縛を免れたり。
そしてまたある時は、遂にグレて当り屋に変貌し、通行する太郎さんに体当たりをして「慰謝料が払えないなら竜宮城へ来な!」とニヒルにキめるつもりが、太郎さんへの接触は成功したものの、当りが強すぎて引っ繰り返り、戻れなくなった所を当の太郎さんに裏返して頂き「気を付けな」と言われてトキめいてしまったり。
……とにかく、亀さんの浦島作戦は失敗続きだったのです。
そして遂に、キレた亀さんは直接交渉に出ました。
「オウオウ、浦島さんやァ! 酒奢ったるでェ! 付き合わんかいワレェ!!」
似合わない特注のサングラスを掛け、一升瓶を片手に、遂に太郎さんに挑みかかったのです。
そしてその日、太郎さんは週に三日と決めた休漁日であり、亀さんにとっては誠に幸運な事に、周囲には娘さんも人妻さんもおりませんでした。
……当たり前です、時刻はまだ早朝。そんな時間から起き出して太郎さんに絡む気概のある娘さんなどおりません。ましてや早朝から存分に酒をカッ食らって登場する者などいよう筈もありません。
ですがこの時、亀さんはとても追い詰められており、半ば自暴自棄になっていたのでした。
「おう、亀がグラサンを掛けて一升瓶を片手に乱入して来るとは珍しいなァ、おっかさん」
「そうだねェ、太郎。余程の事情があると見える。話を聞いておやり、太郎」
おっかさんに言われては太郎さんに否やのあろう筈もありません。
こうしてやっと、亀さんは太郎さんに対して、直接交渉の場を得る事が出来たのでした。
「……全く、ウチの上司と来たらさァ! 世間で評判の美丈夫、浦島太郎に興味津々でさぁ! どんな手を使っても竜宮城に連れて来いと、こう言うワケよ!」
……折角の直接交渉の場であるというのに、亀さんは既にベロベロの状態でした。
そんな亀さんを、太郎さんも彼のおっかさんも無碍に扱う事なく、娘さん達から差し入れて貰った芋の煮っ転がしや自作の海で拾った得体の知れない海藻の佃煮などで持て成してやっておりました。
家にやって来たからには客人であるという浦島家の教えは、ここでは最大限に発揮されていたのです。
「そんな横暴な上司など無視して、自由に生きれば良いのに」
羨まし過ぎる程の美貌を与えられ、自由に生きまくっている太郎さんには、上司に縛られているという亀さんの言い分がとても不思議でなりませんでした。
その美貌面がなくても、太郎さんは家族以外の存在に興味を示さないという性質。その為、上司に縛られる、というお役所勤めな亀さんの苦労がまるで解らなかったのです。
「アタシはさァ! 『核』をあの乙姫に奪われて自由の利かない身なワケ! 命令が実行出来なきゃ、殴る・蹴るの折檻だしさァ!
知ってる!? 他世界の亀は知らないケド、アタシの甲羅には血も涙も流れてるワケよ!? ってか、甲羅が『本体』でさ! 固いけど痛いのよ! 殴られても死なないけど痛いのよ!」
既にベロベロの亀さんは、そんな風に意味の解らない愚痴を吐きまくり、くだを巻いています。
……けれど、太郎さんに解る筈もありません。彼は上司、という存在に出くわした事もなければ、『仕事』において、そんな絶対命令を受けた事もないのです。
ましてや亀の気持ちなど、人間に解る筈もありませんし……あまつさえ太郎さんは、やや他人の心の機微に鈍感な人でありました。
「亀よ、お前さんが言い付けられた仕事ってのは、このおれを『竜宮城』とやらに連れて行く事だけなのか?」
けれど、さすがに少し可哀想に思ったのでしょう、太郎さんが問い掛けると、亀さんはその短い首を千切れそうな勢いで上下運動させて肯定するではありませんか。
壊れた赤べこのようなその動きに、太郎さんもおっかさんも少し心配した程です。ましてや亀さんは先程まで浴びるように大量のお酒を飲んでいたのですから。
「そう、そうです! 本当は、私を助けて貰い、その御礼と称して太郎さんを歓待するという筋書きだったんです!
……でも、この際理由なんかどうだって良いや! 太郎さん、貴方をあのクソ女……コホン、乙姫様の面前に突き出せば、取り敢えず今回の任務は終るんです!」
「それで、亀よ、お前はそれで自由になれるのか?」
「……それは……恐らく難しいです。でも、取り敢えず今回の仕事は終り、失敗したからと言って折檻される毎日からは解放されるんです!」
亀さんの円らな瞳から、ポロリと一筋の涙が零れ落ちました。
この流れならイケる!
……亀さんも勿論そう思いましたし、この場に他の誰かがいたのであれば、太郎さんは竜宮城とやらに行くに違いない、そう思った事でしょう。
ところが。
「無理だな、面倒くせェし。別に乙姫とやらにも興味ないし、竜宮城ってのが何処にあるかは知らねェが、病気のおっかさんを置いてこの地から離れて何処かに行くなんて出来ねェな」
迸るような本音を滲ませながら、太郎さんが真顔で言いました。
「え? えっ……!? 今の流れは竜宮城に行って下さる流れではないのですか!?」
突然の事に亀さんは目を白黒させています。
そんな亀さんに、太郎さんは清々しいまでの無表情で言い放ちました。
「は? 行かねェし。亀のクセに自分の都合の良い解釈で物語を進めようとすんな。竜宮城とかまじ、だりィ」
口調すら突然豹変した太郎さんに、亀さんはその時、涙目で叫ぶ事しか出来ませんでした。
「なんでそうなるのォォォォーーーー!!??」
もはやすっかり酔いも冷めた亀さんの絶叫は、太郎さんには何処吹く風で……おっかさんだけが、同情じみた視線を亀さんに向けていたのでありました。
お読み頂き、有り難うございました!