翼の跡
「翼なんかないのに」
自分の言った言葉に、カナトはぎくりとした。
翼?
なんだこの違和感。
同じことにソナも気づいたらしい。
「もういい。これを使う」
ソナはリニーが提げていたペンダントを片手でパチンとはずしてしまうと、それで長い髪の毛をぐるぐると巻いてなんとかひとつに束ねた。
カナトもソナを手伝った。
彼女の肩に触れる。
体温が手のひらから伝わってきて、今またすぐにでも目を覚ますんじゃないかと緊張してしまう。
カナトはリニーの体を支えながら、外套の上へうつ伏せにさせた。
ソナが蝋燭の明かりを近づける。
背中のところが裂けたシャツを腕から抜き取り、カナトの眉間に力が入った。
ぺたんとうつ伏せになったリニーの背中は異様に盛り上がっていた。
肩甲骨のあたりの肉が盛り上がり、傷になったところからひしゃげた金属がふたつ飛び出している。
カナトは顔を背けてしまった。
喉の奥に苦いものがこみ上げた。
「酷い……破片が刺さってるじゃないか」
「違うよカナト、刺さったならこの程度の出血で済むもんか。よく見て、刺さってるんじゃなくて突き出てるんだ。翼だよ」
ソナは、裂けたキャミソールをさらに指先で引き下げていた。
カナトは、彼の神経を疑った。
顔を寄せてじっとリニーの背中を見据えている彼の目はきつく、寸分も逸らそうとしないからだ。
怪我をしたリニーの小さな背中は、カナトの瞼の裏にしっかりと焼きついてしまった。
自分が負った怪我でもないのに、ジクジクと背中が痛むのはたぶん錯覚。
けれど目を背けてばかりもいられなかった。
めり込んで見える金属片は鏡鉄鋼のように黒光りしており、いくつかのボルトで止められているようだ。
右側が特に潰れていて、台形の面が捲れ上がっている。
中に見えるのは千切れた血管ではなく、配線だった。
ソナの言うとおり、リニーの背にあるのはおそらく翼の跡だろう。
「──壊れてる。根元を残して折れたんだ」
蝋燭の頼りない光の中で呻くように言ったカナトに、ソナは頷いた。
軍による遺伝子交配で生まれ、パーミテッドと認められて獣術士になったとしても、能力に不足があれば人工的に身体の補強が行われる。
だから、聖堂には足や腕のない遺体もよく運ばれてくる。
棺に入れられる前に、軍が彼らの骨や筋肉の補強に使った金属部分を取り除いて再利用に回すためだと、カナトは見習いの頃に上師から聞いていた。
補強の金属が装着された体を見るのも、カナトは初めてのことだ。
機械人間。
いや、機械獣人──そんな言葉がつい頭に浮かんだ。
「線路に散らばってた金属片はダクトの支えかなにかだと思ってたら、彼女のものだったのか」
ソナは乾いた唇を噛んで、重く首をうな垂れる。
「でもおかしいな。このコ、脚が毛皮で覆われてるのに、翼もあるってのは変だろ。イクシーディングでも見たことがない……ソナはあるか?」
「軍はあれこれ公開せず秘密裏に事を運ぶのが好きだからね。彼女は僕らの知らない『新種』なのかもしれないよ」
首を横に振る代わりに、ソナはぽそりと続けた。
「……破片さえなければいくらでも言い訳が出来たのに」
信じられないことを言うソナの神経を、カナトは本格的に疑ってしまった。
「破片がなくたって、血痕があるだろ。いずれにしろDNA鑑定かなにかで、このコがレジエンド駅に落ちたことはバレるじゃないか」
「そういう調べ方をされればね。ただ血痕だけなら、線路に残ってたのは僅かなものだったしそれほどの大事になったかな。もしかしたら、あのまま今朝の出来事はただの事故か、せいぜい不審な心霊現象として片付けられて、うやむやになっていったかもしれない。実際、あの時点で誰も僕らを追ってきたりはしなかったじゃないか」
「あーそうかよ、じゃあ警察も軍も今朝の出来事には一切目を瞑ってくれるってことなんだな。真面目にそんなこと思ってんのかよ、すごいな」
「思ってるさ。逃れるための嘘ならいくらでも吐ける」
「警察や軍を相手に? そんな自信、悪いけど俺にはないから」
「…………」
さすがのソナも、反論してこなかった。
とうとう喋る力も使い切ってしまったらしく、彼の口からはひたすら深いため息しか出てこなくなった。
培ってきたもの全てが目の前から消えていく。
これまでの努力も、抱いていた望みも、なにもかもをいっぺんに失ってしまう。
そう思うと、カナトも喋る気力が失せた。
きっかけがなんであれ、ここにいる二人の送魂師がパーミテッドの少女リニーと接触したという事実。
終わりだ。
沈黙にいいだけ身をゆだねた後で、ソナがボソリと言った。
「……とにかく薬を買ってこようカナト。僕には彼女を軍へ差し出す覚悟が出来てない。そうしなきゃいけないことはわかっていても、まだ思い切れないんだ」
時に苛々してしまう相手だが、ソナの心中はそのままカナトの心中でもあった。
「わかったよ。じゃあどっちが買いに行く? このコを置いてはいけないだろ」
「僕が行く。信用してくれよ、裏切って逃げ出したりしないから。その証に財布以外荷物は全部置いていく」
カナトはジッとソナを見据えた。
「……わかったよ。財布も置いて、金を何枚か持って行くだけにする。いいだろ?」
頷いてカナトは自分も財布から金を数枚渡すと、シャッターをくぐって出て行くソナの後姿を見送った。
薬に水、パン、インスタント食品、缶詰、毛布にクッション……。
カナトはポカンとして、倉庫に戻ってきたソナの姿を目で追った。
彼がどっかりと置いた袋からは、たった今買出ししてきた物が溢れそうになっている。
凄まじい量だ。
「どうすんだよこんなに」
買い物のセンスがないのか、ソナは。
「必要かなと思って」
カチンと音がしたかと思うと、突然倉庫内に明かりが点った。
採掘屋が好みそうな人の頭ほどの大きさもある電池式のランタンまで購入して来たらしい。
さっきまで命綱のように重要だった蝋燭は床上で小さく虚しい光を放っているだけで、巨大な明かりの前にたちまち存在が薄くなる。
明かりがあるだけで、倉庫内は見違えた。
シャッターからは明かりが漏れてしまうが、そもそもグレイサス駅の地下へもぐってくる人自体がカームの送魂師以外にいないのだ。彼らがやってくる木曜日以外、誰かに見つかる心配はない。
ソナが買ってきた量は確かに膨大だったが、それほど見当違いな物ばかりというわけでもなかった。
リニーの傷になっている部分は買ってきた消毒液で消毒し、酷いところには包帯を巻く。
打撲と思われる部分には湿布を張った。
機械の部分は、カナトにもソナにも手に負えないのでそのままにしておくしかなかった。
「じゃあ、彼女が目を覚まして起き上がれるようになったら基地へ送ってあげよう」
応急処置的ながら傷の手当てを終え、ソナがさらりと奇妙なことを言った。
なんだか疲れてコンクリート壁に背中を寄りかけていたカナトは、重い体を起して首を傾げた。
「まさか、それまで待つ気じゃないだろ」
「そのまさかだよ。考えたんだけど、それしか手はないと思うんだ」
ソナもまた、カナトの斜め四十五度辺りの位置で壁に寄りかかり座っている。
今朝からの出来事でソナはとうとう頭がヘンになってしまったのかもしれない。