仮病
†
こんなはずじゃなかったのに。
今日という日も、特別になにが起こるわけでもなく平穏に過ぎ去るはずだったのに。
(オワってる──)
送魂師団に入って初めて、カナトは仮病を使って勤めを休んだ。
公衆電話からカーム送魂師団の事務所へ連絡を入れたときの気分は最悪そのものだった。
こんな思いまでして、自分はいったいなにをしているのだろうか。
それもこれも全て、今朝起こった耳も目も疑いたくなる出来事のせいだ。
レジエンド駅のホームの真上から突然落ちてきたパーミテッドの少女。
奇遇というには軽すぎる。
災難という点ではお互い様なのかもしれないが……。
中等教育課程を修了し、カナトはカーム送魂師団の入団試験に合格して見習いとして勤め始めた。
それから一年と半年以上が経つ。
送魂師団に入れば最初は『見習い』という位置につかされる。
試験に受かれば『準師』という師位をもらい、そこでやっと額に送魂師団の紋様を入れ墨してもらえるわけだ。
正式に送魂師を名乗ることが許されるのも、準師以上の者たちということになる。
事実、送魂師という職は生業として安定していることからも──不謹慎ながら──ここ数年エクセラントでも狭き門となりつつあった。
今では彼らが所属する送魂師団の数もどんどん増え、大小合わせて十八もあるという。
これまではカナトも他の準師と同じように、将来の自分の姿を思い描いていた。
三年後、熟師になれれば──、と。
しかしそんなありきたりな未来をいくら凡庸に思い描いたって、無情にも現実は予想外のことばかりをギラギラと突きつけてくる。
今朝の出来事のように。
「よくこんな場所を思いついたね」
自分たちの居場所を蝋燭のほのかな灯りで照らし、ソナが辺りの様子を注意深く確認しながら言った。
例の一件で暗闇に包まれたレジエンド駅のホームから逃げるように立ち去った後で、カナトとソナは北へ二駅行った先のグレイサスという駅まで歩いた。
出来るだけ人通りの少ない小路を選び、影に姿を紛らせて歩く間、無意識に息まで潜めていた。
わざと影に飛び込んで闇の精霊を退けるだけなんて、どれだけ罰当たりな送魂師なのか。
そうしてまた別の暗闇の中に佇んでいた。
こちらの暗闇は先ほどの暗闇の比じゃない。
電車が走行する際の騒音さえ遥か遠くにしか聞こえない。
目が慣れようがほとんどなにも見えない中で、ソナがシュッとマッチを擦り蝋燭を灯したところだ。
「そういうのを持ってるなら先に言ってくれよ。なにも暗闇のホームに耐えることなかったじゃないか」
カナトはソナの手の中にある寸胴な蝋燭を恨めしく見やった。
空き缶のような器に折りたたみの取っ手がついていて、中に蝋燭を入れるようになっている。
気分もよくないから、俄然、言い方にも態度にも思いやりらしいものを込める余裕がない。
「さっきは僕も動揺して忘れてたんだ。ヨンゴダの送魂師はたいてい水と蝋燭を持ち歩いてるんだよ」
「ふうん。でも、なんで」
カナトの頭に素朴な疑問が浮かぶ。
それぞれの師団には独自の慣習があるものだ。
ヨンゴダにとって蝋燭というのはそのひとつなのだろう。
カームの送魂師はそんなものを持ち歩いたりしない。
「ヨンゴダが祀るヴェルパトレ様は、同じ水の部類でも水蒸気の精霊だ。水を火に当てればヴェルパトレ様を近くに感じられるから、持ってるとみんな安心するんだよ。他にもいろいろ使い道はある、なにかと便利なものさ」
なるほど、とカナトは頷いた。
実際、ソナのミニライトも壊れていて、こんな風に蝋燭が役立っている。
カナトたちが立っているのは、グレイサス駅の真下にある使われていない車両車庫の一角だった。
石柱に支えられたそこは昔倉庫として使われていた場所で、自分たちの他に人気はなく、用意された明かりもない。
倉庫の入り口にはシャッターが取り付けられていて、下から一メートルほどが開けっ放しになっていた。
そこからふたりは容易く中へと入り込むことができたのだ。
「カームは実にいい仕事をしてるよ。これだけ強力な結界なら闇の精霊は寄りつけない。生きてる者だって誰も寄りつこうとは思わないだろうね、閉塞感と陰気さで参ってしまいそうだ」
送魂師団にも管轄のようなものがある。
送魂師たちは聖堂で『送魂の儀』を行う他にも、天へ昇る道を見失ってしまった『迷子』と呼ばれるイクシーディングやパーミテッドの魂や闇の精霊を鎮めるために数人が組んで街の中を巡回する。
グレイサス駅はギリギリでカーム送魂師団の領域であった。
「俺がここへ来たのは、もうかなり前のことだよ。病的なうめき声を上げるバカでかい闇の精霊が棲み着いてて、高師まで駆けつけて浄化したんだ」
蝋燭の小さな光に浮かび上がって見えるものは、どれもそのときのまま少しも変わっていないとカナトは感じた。
車両車庫のシャッターは外と内とで二重になっている。
外側の巨大なシャッターの前には、マンホールよりもひとまわりほど大きな陣が白い塗料で描かれていて、壁伝いにも白い線が引かれていた。
以前カナトたちがここへ来たときに、高師たちが張った結界の名残のひとつだ。
白い塗料には霊力の強い数種の石粉を配合して溶いてある。
カームの送魂師たちが日頃から使う秘伝のものだ。
「今でも毎週木曜日にはここを巡回してるよ。昨日来ているはずだから、来週の木曜日にはまたカームの誰かが回ってくる」
「じゃあ、取りあえずは今はここにいても大丈夫だね」
「うん。取りあえずは──でも」
カナトは足元を見下ろす。
そこでは外套の上に横たわらせたパーミテッドの少女が静かに長い睫を伏せていた。
ここへ向かっている途中も少女の頭から外套を被せていたので、その容姿をじろじろ見ることはままならなかった。
小さな灯りに照らされた少女の顔は、街なかで見かける他の十代の少女となにも変わりなく見える。
(あぁー……)
と、カナトは心の中で溜息をついた。
──このコがそのまま普通の少女であったなら。
倉庫内を照らすにはまだまだ灯りが足りない。
それでも、少女の髪の毛が茶を帯びた煙色をしていることや白い頬の輪郭がほっそりとして滑らかなこと、乾いた唇が小さいことくらいはわかった。
ただ、視線を胸元から腰、足元の方へ移すとどうしても途中で留まってしまう部分がある。
半ズボンの裾と茶色いブーツの間に見える少女の脚──それが見紛いようもなく髪の毛と同じ色のフワフワで艶やかな毛皮で覆われている。
一切見えないのだ、肌が。
脚部まで視線がたどり着くと、少女の姿はやっぱり獣術士だった。
少女は気を失ったきり目を開かない。
二色のオーラも弱々しく消えそうなままだ。
「──いったいどうする気だよ、ソナ。こんなところに連れて来たってなんにも解決しないよ。だいたいこのコは亡骸じゃないんだぞ、ちゃんと息があるんだから」
ソナの表情にも明るさはなかった。
少女を見下ろし、切れ長の目を細めて何事かを考えている。
「わかってるよ、だから今必死に考えてるんじゃないか。彼女を軍に引き渡せば僕らは破滅だ。送魂師の戒律からいってそれは避けようがない。カナトはなんの躊躇いもなく今の自分を捨てられるっていうのかい」
呆れるような責めるようなソナの視線を受け、カナトはムッとした。
「そんなわけないだろ、やっと送魂師になったんだ。俺だって兄さんの後を追いたかったけど、それも諦めて準師にまでなれたっていうのに」
「へぇ、カナトのお兄さんはなにをしてる人なのさ。そんなに立派な人なのか」
「地上精鋭部隊の兵士だよ。俺たちの暮らしを守ってるんだ」
カナトはわざわざその単語を強調してやった。
ソナは、一瞬、返す言葉も忘れたらしく、唖然としていた。
それほどの威力が地上精鋭部隊という言葉にはあった。
「本当は軍人になりたかった、兄さんみたいに。けれど子供の頃に患っていた喘息の病歴が、その道をあっさりと妨げてくれたんだ」
「じゃあ、なおさらじゃないか。そこまでしてなった送魂師の職を、天井から勝手に落ちてきた彼女に踏みにじられるなんて御免だろ。僕だってそうさ、こんなことで落ちこぼれになるわけにはいかないんだよ」