金曜日の憂鬱
《──まもなく一番線に電車がまいります。ご乗車のお客さまは白線の内側に立って──》
定刻三分前。
ホーム内のスピーカーから慣れた駅員の声が雑音混じりに流れる。
この電車に乗れば、十数分後にはカームの聖堂がある三駅先のサースティン駅へ到着だ。
(……さー、行くか)
カナトはショルダーバッグの肩紐を直して立ち上がった。
朝も早いレジエンド駅──エクセラント地下都市の西ドームにあるそこは、乗車の際の混雑とも、駆け込み乗車とも無縁である。
だが、この日はだけは特別だった。
地下都市にある駅のホームで、おそらく、このときにいた誰もが予測しえなかったものが頭上から降ってきた。
それは本当に、突然の出来事だった。
ババババババッ ザザザザザアァ──バリッ!
ホームのこちら側と向こう側とを真っ二つに分断してしまいそうな勢いで、風もなく空気が不自然に震え、最終的にズドンッ! となにかが線路のど真ん中に落下した。
誰もなにも触れていないはずのホームの軒下で、一瞬のうちにいくつかの蛍光灯が割れ、遠く離れた信号灯までもが何箇所か弾け飛ぶ。
耳慣れないうなり声のような不気味な音が、怪しげにホームの軒に反響していた。
霊感が強い者も、そうでない者も、命惜しさにほぼ一斉に身を庇う。
人が死ねば「教会」と呼ばれる御堂で葬式が行なわれる。
それが異端者であれば「礼拝堂」と呼ばれる御堂で密葬されることが多い。
そして人以外の者の遺体は、送魂師たちのいる「聖堂」へと運ばれてくる。
カナトは送魂師でも準師と呼ばれる師位に就いていた。
十七歳というのは送魂師でもまだまだ若い方だ。
聖堂へ通うために、毎朝カナトは六時六分の電車に乗る。
そして、反対側のホームのベンチで電車を待つ、ハイネックのシャツに赤紫色のローブとベル型のケープをつけた男の姿を視界の端に眺めやりながら、車両の二両目、右側の座席に着く。
薄茶色のショルダーバッグを提げ、カナトと似たような年頃であるその男も送魂師の準師に見えた。
向かう方面からいってもメンタリア送魂師団かヨンゴダ送魂師団のどちらかに属する送魂師だろう。
聖堂での勤めに遅刻さえしなければいいだけなのだが、気づくとカナトはいつも同じ場所に座っていた。
──昨日までは。
なにが起こったのか、誰もがすぐに把握出来ずにいるようだった。
ベンチから立ち上がったばかりだったカナトも、ほとんど反射的にショルダーバッグを盾にして体を背けるので精いっぱいだった。
ホームも線路も、突如、照明の粗末なトンネルにすっぽりと包まれてしまったかのような暗がりと化している。
ざわりと悪寒がカナトの足の爪先から脊髄を通じて、脳天へと抜けていった。
(わ……なんだ──これ)
ぐわん、と一回転しそうになる視界。
カナトは顔をしかめてたまらず瞼を伏せた。
その間にも、頭や胸をしつこく何度もぶすぶすと刺してくるものがある。
痛みは物理的なものではなかった。
タチの悪い霊的な波動によるものだ。
舞い上がった砂塵に軽く咳き込みながらそのことに気がついたカナトは、くっと歯を食いしばって体を起こす。
今の衝撃で壊れてしまったらしく、非常ベルさえ鳴らなかった。
目に見えるものだけを頼りに、状況を把握するのはとても難しい。
だが、送魂師として日々霊的なものに対する能力を磨いているカナトの目には、暗がりの中、早朝から仕事に取り掛かろうと電車の到着を待っていた採掘屋たちの霊気が、ホームに沿う不規則な間隔でボンヤリと光って見えていた。
彼らがリュックサックの中にしまいこんでいるはずの携帯照明の類も、駅の照明器具同様に衝撃で壊れてしまったらしく、誰もが明かりを手にするのを諦めてしまったようだ。
カナトも無駄だと知りながら、自分が常備しているミニライトをショルダーバッグから取り出して試しにスイッチを押してみる。
カチッ カチッ カチッ
やはり、つかない。
一方、静寂がほぼ支配していた朝のホームへ騒音と共に突然降ってきたアレはといえば、まるで壊れた消火栓のように暗黒の波動を盛大に噴出し続けていた。
両方面行きの線路のど真ん中を車両の半分ほどの大きさもある黒いものが占居し、周辺には煙にも見える霊的な闇のエネルギーがシュウゥ、シュウゥと不穏に渦巻いている。
(……おいおい、横入りもまずいけど、これはこれで激しく迷惑だぞ──)
《──ご案内いたします! ホーム内で緊急事態が発生したため、電車が緊急停車いたしました。ホームにいる方は速やかに──》
スピーカーも使い物にならなくなってしまったらしい。
階段の上方から拡声器を通した駅員の声がして、我に返った客たちが指示に沿って避難を始めていた。
自分が避難するのは最後でよかった。
採掘屋たちが改札階へ戻って行くのを肩越しに見送り、カナトは線路へと飛び降りてみる。
黒い塊の近くへ駆け寄るとますます頭痛が激しくなり、襟をマスク代わりにしているはずなのに胸からこみ上げて咳き込みそうになった。
意識をさらに集中させると、線路上へバラバラと散らばる複雑な形をした金属の類が、いくらか闇に慣れてきた目へボンヤリと映る。
暗くて色こそわからないが、中心には動物の毛のようなものも見える。
犬か、とカナトは思った。
しかも二匹?
二色にぶれる青みを帯びた銀と、薄い清らかなピンクの霊気が、今にも溶け合ってしまいそうに淡く光を放っている。
老朽化した換気ダクトにでも迷い込んで闇の精霊に襲われ、振動で破損した部品ごと落下してきたのだろうか。
シティにある建物や換気ダクトの影に、闇の精霊はつきものだ。
「待ってな、今助けてやるよ」
見習い期間を経て『準師』と呼ばれる師位にいるカナトには、まだ闇の精霊を浄化するまでの力はない。
けれど、浄化はさせられなくても祓ったり散らしたりする術ならすでに身についている。
目の前にあるそれは、闇の精霊たちが寄り集まってできた巨大な塊であった。
カナトはさっそく祓いに掛かろうと軽く腕まくりをして、額の紋様に指を触れさせる。
しかしそのとき、近くでカツンッと線路に響く靴音があった。
ン? と手を止めて振り返る。
そこには明らかに自分と近い種の霊気を放つ者が立っていた。
「照明が壊れたのはかえって好都合だったね、薄闇を伝わらせて闇の精霊を散らしやすいからさ。──僕はソナ・レゼンテ、ヨンゴダ送魂師団の準師だ。そのペールブルーのローブとケープに額の紋様……君はカーム送魂師団の準師だよね」
赤紫色のローブを纏い、さっきまで向かいのホームで電車を待っていた送魂師だと、カナトにはすぐにわかった。
髪の毛を短く整えた、ひょろりと背の高い男だ。
彼もカナトと同じ思いで、ホームから飛び降りてきたに違いない。
ソナと名乗った送魂師は、少し高めのよく通る声で素早く自己紹介を済ませると、塊となった闇の精霊をカナトと同じく見据えた。
暗闇の中で彼が放つ霊的なエネルギーは、明るく穏やかなオレンジ色に輝いている。
そして芯がまるでぶれていない。
人の体が発する霊的なエネルギーは、顔の表情や仕草以上にその人の状態を映し出す。
準師とはいえ、送魂師としての自覚が出来上がっている証拠だ。
ヨンゴダ送魂師団であれば、彼の額から頬に掛けて、水の精霊ヴェルパトレの紋様が入れ墨されているはずである。
カームの送魂師たちは、みな額に風の精霊エルラエナの紋様を入れ墨している。
送魂師たちは、霊力を高めるためと師位と呼ばれる送魂師ごとの階級を示すため、端からも見える場所──例えば頬や首、手の甲など──に師団独自の紋様を入れ墨するのが習わしなのだ。