スポットライトを当たらない物達
「消しゴム」
きっとその消しゴムは特別だったんだ。消しゴムはその身を削って記憶を消してくれる。しかし、小さくなってしまってはただのゴミ同然の扱いを受ける。黒く染まってしまっては、その記憶も消せない。投げつけられ、千切られ、折られ、ハンコにされ、シャープペンシルの芯を中に入れられ、本当に身を削る運命を背負ってる。きっと、僕たちなら耐えられないことだ。だから、僕は消しゴムに敬意を払う。しかし、消しゴムは徐々に小さくなり姿を消した。新しいものを買おうと思うが、可哀想な運命を辿った消しゴムを多くある。主がいない消しゴムだ。だから、僕は落し物コーナーにあるものを取っていく。落し物コーナーで一生を終えるなんて、僕には耐えられない。お金で考えれば100円程度の物であるが、消しゴムとの出会いに僕は運命を感じる。消しゴムには顔もなければ、頭脳もない。感情を表す手段は、汚れ具合だ。汚れ具合によって、消しゴムそれぞれの表情が浮かび上がると思う。だからと言って、テストが終わって暇になってしまった時に、消しゴムを磨くのは良くはない。人間でいう、表情を消すこと、つまりのっぺらぼうにするということ。可哀想ではありませんか。消しゴムにとって唯一の感情表現。それを消してしまっては、どうやって感情表現をすればいいのか、途方に暮れてしまう気がしてならない。こんなにも可哀想な消しゴムを救えるのは、私たち使用者のみである。この世界には、一体いくつの消しゴムがあるのだろうか。どれだけの消しゴムが救われたのだろうか。どれだけの消しゴムが燃やされ、捨てられ、どれだけ悲惨な運命を乗り越え、誰にも悟られず、ただただ消えていったのだろうか。その行方を知る者は、神でもなければ、人間でもない。
「忘れられたゲームセンターのコイン」
ゲームセンターに行ったらふと気づくことがあるだろう。「誰が一枚のコインを忘れたのだろうか」と。そして、ついついその一枚に希望を抱いてしまうのが私たちである。沢山のコインがあるより、一枚のコインの方が期待と希望が生まれやすい。それが現実である。逆に沢山のコインを所持していると、絶望が生まれる気がする。人は「無料」に弱い。それはなぜかというと、得をしたいからだ。ここで、人が欲望深い生き物だと実感できるであろう。しかし、この一枚のコインは違う。その一枚に込められた思いは強い。そう、この絶望と憂鬱ばかりが生まれる世界で、数少ない希望を持つ瞬間である。しかし、持って帰ってしまっては、何処かへ消えてしまう気がしてならない。そして、いずれ記憶からも姿を消してしまう。最初は、まあいいかぐらいで済むが、このコインの気持ちになってみよう。このコインはいわゆる、無職というわけだ。ゲームセンターという職場から、遠い家へと、言ってしまう。コインという職業を失うのである。これもまた、可哀想である。希望を抱ける瞬間は、コインにとっては絶望である。社会人なら分かるであろう。職を失うという恐怖を。コインにもそれがあるのである。僕たち人間が職を奪う。そんなことは、現実の社会でもゲームセンターのコインの社会でも同じである。だから、ゲームセンターでコインを見つけたら、そのコインの運命は拾った本人によって定められている。無職にするか、その場で使うかは自由だが。コインに込めるその希望は、コインにとっても希望になることを忘れないでほしい。そのコインも、貴方の運命に従うだろう。しかし、それは時間に猶予がある人のみだ。時間がなければ、コインは運命に逆らうだろう。そのコインは、きっと生き物のように悟ってくれるだろう。
「そこら辺に生えている雑草」
通勤通学をしている人なら分かるだろう。コンクリートの裂け目から生えている雑草を。しかし、場所を変えて庭にしてみよう。庭では、明らかに抜かれる運命が定まっている。いや、抜かれるというよりは駆除されるといったほうがいいかもしれない。コンクリートの裂け目から生えているものなら、踏まれて踏まれて踏まれ続けるぐらいだろう。庭では、その命を途絶えさせられる。どうしてこうも、人間は自分の都合に合わせたがるのだろうか。簡単に言えば自己中なのだ。この文を読んで腹が立つ人もいるだろう。しかし、雑草ではなく、アリを殺したと考えればおのずと、罪の実感が分かるだろう。雑草も同じだ。生物の目線から考えれば、人間もアリも、雑草も同じなのである。雑草を駆除する。これは、いわゆるいじめである。邪魔だから消すという考えと全く同じである。顔がキモいからいじめるのと同じ。自分達と違うからいじめるというのと同じ。人間社会でいじめが起こるのはこうゆうことである。自分と違うからいじめる。それに便乗していじめる。簡単に考えれば、自分がいじめられなければいい。そうしたら、自己中という言葉がうってつけだろう。しかし、いじめられる者共通点として、一つ優しすぎるというのが当てはまる。優しいのはいいことだと思うが、優しすぎるのはいけない。それは、強者にとっていらない感情。しかし、優しさこそ現代の社会に損なわれていると思う。思い返してみてくれないか。読書が好きなだけなのに、暗い性格だと言われる日々を。これこそ、理不尽と言わずなんという。つまり、見た目こそ全てだということ。生物の歴史を考えると、その見た目以上の価値があるはずなのに。雑草だってそうだ。その遺伝子に刻まれた形を評価するべきだ。人間もまた、その遺伝子に刻まれた形や声、個性を評価するべきだ。一番可哀想なのは、スポットライトを当たらない奴じゃない。この世を去った者でもない。それぞれの良さに気づかない奴だ。間違えない。これは、自信を持って言えることである。
「床に落ちてしまった食べ物」
基本的に人は栄養を摂取しなくてはならないであろう。その為、ほぼ毎日食事をする。だから、人は命を取るということに対する意識が薄いのである。生きる為に必要なことは仕方ない。人なら誰しもあるだろう。食べ物を床に落としてしまうということ。このことは、簡単に結びつける事柄としては、無駄死ににあたるだろう。命を落としたのに、報われないなんて、可哀想じゃないですか。食べ物を残すのも同じです。人にとって、報われないこととはなんですか。そう思う前に、どれだけの無駄死にを生んだかを見つめ直すことから始まる。自然界は素晴らしい。無駄死にがない。そのサークルが地球がくれたものだと。無駄死にを無くせとは決して語らない。だけど、地球が語るものは恵み。顔がなければ語れない。口がなければ語れない。手振り素振りなければ語れない。そんなことは決してない。あえて語ろうとしない。それが地球というツンデレなのだ。
今回は気分転換で短編を書きました。アイディア的に面白そうだなと思い右手に任せるままに書いた小説です。今回の雑談は雨に関してです。今は梅雨の時期で気分も暗いまま職場に行く日々です。個人的に曇りが1番好きですね。まあ、私のことは置いておいて、読者の皆さんも雨が嫌いですか。雨はどことなく暗い気持ちにさせる感じがします。そんな訳で次回も短編を書きます。それも「雨」を題材としたものとなります。それでは次回も短編小説で会いましょう。最後まで読んでいただきありがとうございます。