2―2
「ちっ……。湿気てやがる」
暗い山の中。シルヴァ・ウィンチェスターは毒づいた。アイガー平原にほど近い場所のため、魔物は大量に出現する。
連中を殺せば魔石が手に入るので、それを売って金にしようかと考えていた。
「……ゴブリン程度じゃ金にはならんか」
ボロボロの剣を放り捨て、魔石の回収に移る。騎士団を追われたシルヴァは無職になり、悲惨な事となった。蓄えはあるが、手をつけたくない。そのため、近くを根城にしている盗賊を片っ端から襲い、金品を強奪していた。
死体の匂いに釣られてやってくる魔物も一網打尽にできる策だ。治安維持にも貢献しているのだから、多少の金品を頂いても罰は当たらないだろう。シルヴァはあくまでも善良な一般市民を気取るつもりでいた。
一人は気楽だった。人間関係に悩まなくてもいいし、仕事に追われることもない。悪事を働いても咎められないのだ。素晴らしすぎる。
鼻歌混じりに魔石を袋に詰め、腰に括り付ける。手つきは完全に悪党のものだったが、本人は気にしていない様子だ。
火を適当に消し、立ち上がる。すると、鼻が何かの匂いを嗅ぎつけた。食べ物の匂いだ。
紙袋が落ちていた。中身も転がっていたが、包みに守られているため汚れてはいなかった。
「……いいのか?」
急な空腹が襲ってくる。何故だか、無性に手を伸ばしたい。
シルヴァはそれをじーっと観察する。これはおそらく、先ほどの少年が落としていった物だろう。
つまり、放置されてからそれほど時間は経っていない。食べるかどうかは別にして、とりあえず衛生面はクリアだ。
ためらいながらも手に取り、包み紙をどける。
「………!」
新感覚の匂いだった。食欲を刺激するような、不思議な香り。背筋に電流が走り、シルヴァは硬直した。
食べるか、食べないか。
ひどく深遠な命題だった。もしかしたら、今までの人生でこれほど悩んだことはなかったかもしれない。
だが、本当にいいのだろうか? 仮にもこの間までは騎士だった男が拾い食いなど、見識を疑われる。逃げ出しただろう少年の事も気になった。
「………くっ!」
かつて、ここまで悩んだ事があっただろうか。とても答えを出せそうにない。どちらを選んだにせよ、深い悲しみに包まれる事は明白だった。
どうして、出会ってしまったのか。シルヴァは不幸な運命を呪った。どうみても馬鹿の思考だったが、本人はとても真面目だった。
歯軋りする。近くに気配を感じる。軽い地響き。馴れ親しんだものだ。同い年の少女の顔が脳裏をよぎる。
(リエリアか……)
あの女が来たなら問題ないだろう。これを落としていった少年の正体も見当がつく。しかしながら、そんな事は些細な問題に過ぎなかった。
今この瞬間、最も重要な問題。それは、拾い食いをするか否かである。他の事は眼中に無い。
問題の物──肉と野菜がパンで挟まれた──を凝視する。それこそ、穴が空こうかというほどに。
プライドが邪魔をした。
持ち主に返そうなどとは少しも思わなかった。
相手は食べ物だ。問題を先延ばしにはできない。凄まじい葛藤。世界の命運を握っても、ここまでは悩まない自信があった。
食べたらどうなる?
この葛藤ともおさらばだ。謎の物体と正面から向き合うことができる。問題なのは、自尊心に傷がつくこと。それに、考えたくはないが、不味いという可能性も捨てきれない。
食べなかった場合は?
こちらには一切のリスクが無い。このまま気楽な旅を続ける事になる。自尊心が傷つく恐れも無いし、万が一不味かった場合の精神的苦痛は計り知れない。
だが、一生十字架を背負うことになるだろう。ベッドに潜った時『そういえば、あれはどんな味だったのだろう?』という疑問と毎晩戦うことになるのだ。
不眠症になる危険がある上に、綺麗な肌も保てなくなる。
前にも、後ろにも行けない。様々なジレンマがシルヴァの自由を奪った。
息を吐く。決断の時だ。
食べ物を粗末にしてはいけない。
幼い頃からの教訓が、彼を導いてくれた。
「あ、あのさ」
来希は少し気まずそうな表情で口を開いた。
昨夜、謎の生物に襲われた来希は紅い瞳の少女によって、わけもわからぬまま王宮に連れてこられていた。
その後は金装飾の施された白い服を着せられ、なんだか偉そうな人と謁見。長々とした話を聞かされたが、ほとんど記憶が無かった。混乱と疲労がピークに達していたのだ。
夢なら良いと現実逃避をしていたが、やはり現実に間違いない。
見たこともない生物の剥製がある。
人が何もないところから火の玉を出すのを見た。
遠くの方にばかでかい"木"がある。
その他諸々、変な物は山ほどあった。
どうみてもファンタジーに過ぎる城の廊下を、なにやら騎士らしい美少女と歩いているのが今の状況だ。
「なにか?」
鋭く紅い目がこちらを向く。まるでルビーのような美しさだが、その色は来希を意味もなく不安にさせた。
「いや、あの……。まだ色々と納得できていないっていうか……」
いきなり勇者様と言われても、了承などできるはずもない。そんな単語はゲームの中でしか見たことがないし、その単語が必要とされるような状況にも見えない。
「それは当然でしょう。ライキ殿にとって、ここは見知らぬ土地。心が休まらぬのも仕方のないことかと」
少女──リエリアといっただろうか。フルネームを聞いたはずなのだが、聞き慣れない名前だったり、状況が切迫していたりしたため、よく覚えていない。
リエリアはどうやら来希(勇者)の直属の護衛らしく、色々と世話を焼いてくれる。普段なら是非もなく喜ぶところだが、そんな余裕は欠片もなかった。
「ご安心ください。なにも、今日から勇者をやれというわけではありません。しばらくはこの世界に慣れていただき、それから物事を決めていただければ良いのです」
「……猶予期間があるってこと?」
拍子抜けした様子で来希は尋ねた。リエリアは頷き、
「もちろんです。こちらの勝手な用事で喚んでいるのですから、出来る限りの礼は尽くします。それが当然の礼儀というものでしょう」
肩の荷が降りたような気がした。思っていたほど、緊迫した状況ではないようだ。リエリアに聞かれないように安堵の息を吐く。
だが、代わりに違う疑問が浮かんできた。
「俺の認識だと、勇者ってのはどうしようもない時に必要とされる存在なんだけど……」
リエリアの口ぶりから察するに、この国が滅亡の危機に瀕しているわけではないらしい。城下町は活気に満ちているし、城の中にも緊張感は漂っていない。
来希の中の勇者というのは、いま言ったように国を滅亡の危機から救う英雄のことだ。
小遣い程度の金と貧弱な武器。弱小モンスターを倒してレベルを上げながら仲間を集めていく。小さい問題を解決しながら、最後には邪悪な魔王を倒す。
決められたストーリーの中で地道な努力を重ね、財布と相談し、工夫を凝らして進めていくというプロセスを楽しむものだ。偏見も入っているだろうが、おそらく大抵の人が共通の認識を持っていることだろう。
そんなイメージがあったため、来希の心は妙な緊張感と責任感に一晩中支配されていた。泣きながら光の剣を振るう夢を見たほどだ。
なのに、リエリアの言葉からは勇者の必要性がまったくといって良いほどに感じられない。
来希が「俺って要るの?」と思うのも当然と言えた。
「はい。勇者という存在には、この国の建国に深い関係がありまして、召喚するのは一種の様式です」
「じゃあ、俺っていらなくない?」
もしかしたら、昨日のうちに説明されていたのかもしれないが、今の来希はそんなことを気にしていられなかった。
そんな彼の当然な疑問を投げ掛けられた少女は肩をぴくりと震わす。必死で言葉を取り繕おうとしているのがわかった。
長い沈黙が降り、二人の足音だけが響く。廊下の脇から中庭に出たところで、リエリアはやっと口を開いた。
「ライキ殿」
「はい」
「まずは王宮の中を案内します」
「え?」
「どうぞこちらへ」
「え、誤魔化してない? うやむやにしようとしてるよね?」
「右手に見えますのは──」
リエリアの移動速度が目に見えて速くなる。早足というレベルではない。もはや競歩の早さだ。
バスガイドさながらの解説を始めた彼女の背中を追いかけながら、来希は悲痛な叫びをあげた。