秋津楓 憧憬
八月下旬。都会は暑さが続いているが、地方ではもう和らいでいた。
俺が初めてこの田舎に訪れたのは、かれこれ十年以上も前になる。建物は木造の古い家屋ばかりで、道は狭く密集して家々が建てられている。一歩、集落からでればそこは一面麦畑。その景色は未だ変わらず、この村に残っている。ここは山の麓につくられた村だ。まるっきり時代の流れから置き忘れられた村で、インターネットの回線が敷かれたのがつい先日という村だ。この村は、地形から見ればそこまで山奥というわけでもないが、昔はこのように麦畑が広がっていたわけではなく、開墾されて開かれた村だった。だからなのか、この村の名前は山奥村。名残なのだろう。
さて、と。そろそろ約束の時間だろうか。腕時計の針は五時半を指そうとしていた。村の入り口のバス停に、夕方に待ち合わせ。時間をきちんと決めたわけじゃない。それは俊之が、道中に迷っても時間にゆとりがあるように、と配慮したからだ。待ち合わせの相手は俊之の一人息子、名前は……和久、だったか。俊之は急用が出来たとかで来れなくなって、替わりに息子を送るからよろしくしてくれという話だった。いくらなんでも自由すぎるだろう。本当は、俊之はNPO活動の一環として、この村にある宿泊施設、自然の家の手伝いをすることになっていた。泊まりにくるのは高校生の団体だった気がするが、そこは佳世に任せている。
田山孝平こと、自然の家の管理人である俺は出迎えることになっていた。確か、今日来るのは部長だけの筈だ。明日の夕方に他の部員がやってくると佳世が言っていた。
だから今日迎えるのは、息子の和久と部長の二人になる。息子さんの方がいつ村に着くのか分からないから、部長さんの方の約束も夕方とだけしておいた。行き違いになったらそれはそれ、そうなったら佳世にでも話せばなんとかなる。
腕時計を見ると、時計の針は五分ほど進んでいた。
この神社から、待ち合わせのバス停までは十分ほど。山の中腹より少し上に神社はある。この神社からは麓の村、そこから先の、一面の麦畑が見え、風に遊ばれて穂を揺らしている様が美しい。黄金色の絨毯という表現があるが、なるほど、うまい表現だなと思った。
神社の境内には、一本の楓の樹があった。この樹は神社が出来た頃からあったと言われているが、なぜ境内にこの樹だけ残されているかは分からない。
確かに大木で、樹齢もかなりのものだろう。けれど、そのわりに神木として崇められている風でもないし、手入れがされていたわけでもなかった。ただ、それはそこにあって当然で、地元の人には秋津楓と呼ばれ親しまれていた。
秋津、とは今の言葉でトンボを指す。秋が深まると見下ろす麦畑からトンボがここまでやってくる。まるでここが目的地だったかのように、楓の樹の下に集まって、それぞれの場所へ別れ最後のときを迎えるのだ。今はまだトンボの姿はないが、あと一週間もすればここにトンボが集まるのだろう。
俺は神社に背を向け、階段を降りる。手入れがされなくなって久しい階段は、落ち葉やコケのせいで滑りやすくなっていて、急ぐと転がり落ちてしまう。そうだ、あの時の神社は綺麗に手入れがされていた。今、背にした神社は至るところが朽ちていて、屋根も幾つか穴が空いている。そうだ、何も替わらないと思ったが、一つだけ変わったことがあった。それはここにあった神社が移転し、ふもとの村近くに建てられたこと。元の神社は解体されず、廃墟としてそのままあること。この一つが、変わらないこの村で唯一変わったこととして挙げられるだろう。あとは……変化と言えば変化だが、これは俺がしたことだから、村の変化とは言いづらいかもしれない。宿泊施設のリニューアルだ。
俺の夢は、ただ一つ。佳世に、もう一度彼女を会わせること。佳世は口にこそ出しはしないが、時折、当時の日記帳を取り出しては眺めている姿を見る。あの日のことを、今でも宝物のように扱っている。彼女は最後、こう言った。
『いつかまた、こんな日が過ごせるといいな』
彼女はその言葉を残して、俺たちの前からいなくなった。
今になって俺はようやく信じることにしたが、彼女のいない今となってはそれが嘘か本当かは分からない。和久も俺と同じで信じてはいなかったが、今では俺と同じで信じることにしたらしい。ただ、どうして信じようと思えるようになったかは、俺にも話してはくれなかった。佳世は最初から信じていた。佳世の前では彼女もたじたじで、彼女が姉、佳世が仲の良い妹のように見えた。最初から、佳世は信じていたんだ。この村で……。この秋津楓の下で出逢った、神様のことを。
「ねえ、あの樹の下にいるのは巫女さんかな?」
かよと、和久と、俺と。高校三年生の夏休み。それぞれ大学進学を志望していたが、何を勉強したいとか、将来どこに就職しようとか、そのようなことはまだ決めていなかった。ただ、漠然と進学するだろうと思っていた。だからこのときも、高校生活の最後の夏を楽しもうと、都会から田舎に泊まりにきていた。俺たち三人は幼馴染で、これまで一緒に育ってきた。けれど、これから三人はそれぞれの道に別れ、離れ離れになる。高校までは一緒だったけれど、これからは違う。
これが原因だ、という明確な理由はないけれど。ただ漠然と、そんな想いがあった。和久も口には出さないけれど、そう思っている節がある。今日、ここにいるのもそういった想いからだ。
「三人で合宿行こうよ! 最後の夏なんだし、合宿っていい思い出にならないかな?」
俺も和久も、ばらばらになるという不安があったから。だから、三人の最後の思い出づくりということで行くことに決めた。最も、かよには最後のつもりは全くないらしかった。この先もずっと、三人の関係が続くと思っているらしく、最後なのは高校生活で、俺たちが考えている最後とは意味合いが違っていた。
そして今、合宿二日目の昼。初日は着いたのが夕方だったため、簡単な施設の説明を受けた後、すぐに夕食となって管理人と話をしただけだ。今日はあてがわれた部屋に荷物を残し、田舎を散策することにした。都会育ちの俺から見たら、コンビニの一つもない田舎にきて、変わらない景色ばかりで少し飽きてきた頃。自然の家の管理人さんがおススメしていた神社に向かうことになった。そこは山の中腹に建てられた神社で、秋津神社というらしい。そこからの眺めがとても綺麗とのことだった。神社までは長い石段が麓から組まれていて、登り切ると正面に社があり、左手には大きな樹があった。そこに、箒で樹の下を掃いている女の人がいた。
「ねぇ、あの人、巫女さんだよね? こんな田舎でも巫女さんっているんだぁ」
かよは長い石段を登ってきたにも関わらず、全く息を切らしていなかった。かよの呟きに息を切らして膝に手をあてている和久が顔を上げる。
「だな。巫女って正月にしかいないもんだと思ってたぜ」
「だよね。普通神社に人居ないし、神主さんが時々様子を見に来るくらいじゃない?」
「だな。でも、ここ田舎だから巫女がいても不思議じゃない」
「ということは、あの人は本物の巫女さん!? ……新鮮だ」
本人を前にして、二人の会話は酷いものだった。当の本人は知ってか知らずか、こちらに背を向けたまま掃き掃除を続けている。俺たちが喋っている他は音がなく、箒を掃いている音も大きく聞こえるくらいだから、会話が聞こえていないわけでもないだろうけど。
「でも、あの人巫女って割には普通だよな」
二人は構わずに話を続ける。
「普通って?」
「だって、あの人どう見たって普通じゃん。巫女服じゃないし、なんか巫女っていうより管理人の方がしっくりくる気がする」
和久に言われて、女性の後ろ姿をあらためて見てみた。女性はストライプのシャツにジーンズで、靴はサンダルを履いていた。
「そう言われてみれば。じゃ、訊いてみようっ」
「あ、おい!」
かよは巫女さんの元へ駆けて行き、慌てて和久と俺が追った。
「こんにちわー」
彼女は手を止め、振り向いた。
「こんにちは」
彼女はかよより少し高いくらいの背に、腰まである黒髪をそのまま流している。見た感じ、俺たちと同じくらいの歳だろう。けれど、立ち振る舞いが俺たちより大人っぽく見えた。
「あなたたちは……この村の子?」
「違います、昨日この村に来て、散策してるんです。ほら、夏合宿って感じで」
和久と俺も頷いて、彼女に軽い会釈をする。
「そうなの。道理で見ない顔だと思った。それで、どうしたの? 何か聞きたいことでもあった?」
「ずばり、姉さんは巫女さんですかっ?」
「え、ええと……。この神社の者だけど、巫女さんっていうか、なんていうか」
かよの不躾な質問に多少うろたえつつ彼女は答える。そこで俺も声を出した。
「ごめんなさい、こいつ、遠慮ってものを知らない奴で……」
「失礼なっ、孝平よりも私の方がよっぽど知ってるよ!」
「はいはい、わかったから。ところで、巫女さんじゃないといったら管理人さんですか?」
「ん? ああ、管理人ね。それが一番しっくりくるかな」
そう言って彼女は笑みを浮かべ、俺たちを順繰りに見た。
「みんな、仲よしなんだ」
その言葉を拾ったのは和久。
「ええ、俺たちは幼馴染なんです。それで、最後の思い出に合宿に行くことになり、今ここにいます」
「ふ~ん。なる」
「ところで、自己紹介がまだでした。俺は村瀬和久といいます。こっちにいるのが田山孝平で……、」
「どうも」
「こっちにいるのが、」
「かよって呼んで!」
「……かよです」
「よろしく、お姉さん」
彼女は終始笑みを浮かべながら、俺たちの簡単な自己紹介を聞いていた。
「ふふ、よろしく、かよちゃん。あと、和久君に孝平君もよろしく。私のことは……、そうね、姉さんでいいよ」
「それ自己紹介になってないんじゃ」
「よろしく、姉さん!」
俺の呟きはかよの声に遮られた。
「ほら、和君に孝君も」
彼女に促されるまま、
「ね、姉さん」
抵抗はあったが、やっぱり彼女は姉さんに見えた。そこに何の違和感もなく、かよを「姉さん」と呼ぶのに比べたらすんなりと呼べた。和久も続いて、姉さん、よろしくと言った。
「うん、よくできました」
姉さんは満面の笑みを浮かべている。
「なんか姉さんなんて呼ばれるの新鮮で、もうなんか、ねぇ?」
何が「ねぇ?」なのかわからないが、どうやら和久はわかっているみたいだ。やれやれと首を横に振っている。
「姉さん。私たち、明後日にはもう帰らなきゃいけないんだけど、姉さんお勧め、って何かないかな?」
「お勧めって、例えば?」
「例えばさ、景色のいい場所だとか、ここはこんな伝説があるんだよー、とか。お祭りとか花火大会でもいいよ?」
「そうだなぁ。お祭りはもう終わっちゃったし、花火大会も一緒だったから……」
姉さんは箒を樹に立てかけ、口元に手を添えて考えている。
「終わっちゃったのかー。それじゃ、もう一個の方は?」
「景色のいい場所だったら、ここかな」
「ここ? ここって……この神社?」
「そう。ここの景色が一番綺麗だよ。ここにはね、秋の終わりにトンボがやってくるの。それで、この樹に元に集まってくるんだ。それがとっても幻想的で、やっててよかったなぁ、って思うんだ」
姉さんは箒が立てかけてある樹に触れ、上の生い茂る枝葉を見る。
「だから、今も樹の周りを掃いていたんですね?」
「そうよ、和君。たぶん、君たちが帰るまでには見られると思うんだけど……、ちょっと分からないかなぁ」
「それじゃ、すぐに見れるのってある?」
「う~ん、すぐに見れるのかぁ。田舎だから同じような風景ばっかりだし、難しい問題だよ。……あ、伝説とかだったら話せるよ?」
「伝説? うん、伝説でも全然大丈夫だよ! 景色は……歩いて見つけるから!」
「そう。それじゃ、二人もいい? この神社の伝説について話そうと思うんだけど」
和久と俺は目を合わせて、姉さんに向かって大丈夫ですと応える。
「それじゃ、ちょっとあっちの石段に座って話しましょう。立ち話というのも大変だから」
姉さんは箒をそのままに、社の前にある三段くらいの短い石段に座った。俺たちは姉さんに近い順からかよ、和久、俺の順に並んで座る。それを確認してから、姉さんはゆっくりと口を開いた。
「この神社の名前は、秋津神社。御神木は、さっき掃いていた楓の樹。ついでに、ここに植わっている他の樹は全部紅葉で、綺麗な紅に染まってるでしょ? だから楓の黄色がすごく綺麗に映えるんだ。それから、この神社には神様がいるの」
「神様って?」
かよが口を挟むが、姉さんは気にした風もなくはにかんでいる。
「わたし」
和久が思わず笑い声をあげ、
「神様ですか、なるほど。では、俺たちは今、神様から伝説を聞いてるんですね」
「そうよ? こんなの滅多にないんだから、忘れないようにね?」
姉さんがそう続けるものだから、和久は大きな笑い声をあげ、俺もつられるようにして笑っていた。
「神様なの? 偉いねぇ」
「なっ、」
驚いたことに、笑っているだろうと思っていたかよが感心した素振りを見せ、隣に座る姉さんの頭を撫でていた。
「なんで?」
姉さんは驚いていた。俺と和久はもう慣れたものだが、かよにはこういった時がある。姉さんは思っていたリアクションと違うことに戸惑っているようだった。頭を撫でられるというのも、余計に戸惑う原因だったのかも知れない。
「だって、神様って一人ぼっちじゃない。それにこんなところで一人ぼっちなんだよ? それってなんだか、寂しくないの? 神様だからお役目があるんだろうし、私たちにはさっぱり分からないことができるし、寂しいって思わないかもしれないんだけどさ、やっぱり、私だったら寂しいって思うよ」
俺たちはかよのこういう場面をよく見ているから知っている。そして、かよについてこう断言する。こいつは天然だと。
「寂しいとかそんなの、もう諦めたから」
「え?」
「かよちゃんも、いつか分かるよ、きっと。それで、秋津というのは昔、トンボのことをそう呼んでいたんだ。この神社はね、トンボが集まる楓の樹を祀る為に建てられたんだよ。それで、そろそろトンボが集まってくるし、その前に楓の樹だけでも綺麗に掃いておこうと思って」
かよの天然をさらっと流し、話を続ける姉さんが格好よく見えた。いつか俺もそうなれたらと切に願う。
「神様なのに?」
神様ならなんでも出来るんじゃないの? かよは聞くが、そもそもあれは姉さんの冗談だから。そもそも俺は、シャツにジーンズ姿という俗世の格好をした神様を知らない。
「神様は自分の神社に術を使ったら駄目なんだ。神社は信仰を集める場所。人の手で維持されてなんぼのものでしょ? 術をかけて人を集めても意味がないんだ」
俺にはさっぱり分からないが、和久がそれを聞いてまた笑っている。まぁ、姉さんはどうあっても神様で通したいらしいことは分かった。
「そっか。それもそうだね」
かよはしきりに頷いている。
「うん、素直でよろしい。この神社の伝説は、これでおしまい」
「え、ここから深くなっていくんじゃないの?」
「ううん。この神社には楓の樹があって、トンボが集まるから秋津神社って名前で。それだけ」
「それだけ?」
「それだけだよ。どこかにあるような、竜がいたとか鹿がいたとか、そんなお話はここにはないんだ」
「でも、神様がいるじゃん」
姉さんは目を見開き、それから柔和な表情を浮かべる。
「そっか。私がいる、かぁ」
「それに神様がいる神社、って今時珍しいんだから」
かよは力強く続けて言うと、姉さんもついに笑ってしまう。和久はもう笑いっぱなしだった。
「それじゃ、私たちはもう行くね、ごめんね、掃いてるところ邪魔しちゃって」
「ううん。楽しかったよ、ありがとう。それに、運が良かったみたい。トンボたちが集まってきてる」
姉さんが楓の樹を指差すと、そこにはトンボが集まり始めていた。
「本当なんだ」
「ひどいなぁ、孝君は。神様は嘘言わないよ」
「これはまた、まいりました」
トンボたちは楓の樹の周りをゆっくりと飛び交っている。風が出てきたのか、まるでトンボたちの隙間を縫うように、ひらりひらりと紅葉と楓の葉が舞い降りていた。
「いつかまた、こんな日が過ごせるといいな。」
姉さんはそういうと、立ち上がり、軽く砂を払った。
「それじゃ、私はもう行くから」
社の隣にある小屋に足を向けた。
「またね、姉さん」
かよは手を振り、和久と俺は軽く会釈をした。姉さんは小屋の中に入り、俺たちはしばらく目の前に広がっている光景を眺めてから、宿泊施設に戻った。
次の日に神社に向かうと、そこに姉さんはいなかった。神社は至るところが朽ちていて、屋根には穴が空き、階段はコケや落ち葉で滑りやすくて危なかった。ただ、楓の樹の周りは綺麗に掃かれていて、樹には箒が立てかけられたままだった。
バス停についたが、そこには息子さんも部長さんもいなかった。バスの最終は六時だ。あと十五分も待てばバスに揺られて二人がやってくるだろう。そうすればきっと、村の外からやってくる彼らが、佳世を彼女に会わせてくれるだろう。佳世は合宿最後の日、姉さんと会ったらしい。何があったかは今でも話してくれないが、佳世はずっと想い続けている。
俺は彼らが来るのを、バス停のベンチに座り、風に揺られる麦畑を眺めてから、目を閉じた。すると、麦畑を前にして、彼女と佳世が互いに笑みを浮かべながら話をしている様が思い浮かび、俺は苦笑いをする他なかった。
はじめまして、今回の別視点プロローグ【秋津楓-憧憬-】にて初投稿となります、椎葉つかさです。
この小説を投稿する際、あらすじを設けることができるのですが、短いお話なので設けませんでした。この場でも内容には触れずにいきます。
繰り返しになるのですが、このお話が「なろう」での初投稿になります。なのであとがきを書いている今、期待半分不安半分といった心境です。どうなるんだろう?
今作【秋津楓-憧憬-】はいかがでしたか? 気にかけて頂ければ幸いです。
この物語は単独で読むことができますが、実は【本編】の方でこのお話の続きが語られる予定です。といっても、本編はいつスタートするのか不明なのですが(笑)
謝辞を。ここまで読んでくださり、本っ当にありがとうございました。
このお話自体は短編小説となりますが、本編で続きが展開されます。もし会えましたら、そちらのあとがきでお会いしましょう。
では、その日までごきげんよう。