第一話 血断
西崎千尋は、「古物診断所」とだけ書かれた、プレートの外れかけた質素なドアの前に立っていた。
千尋は目を閉じ、短く息を整える。
そっと瞼を開き、二度ノックした。
ドアを押す。
軋む金属音が廊下に響き、やがて止む。
千尋は、ドアの向こうを見て息をのんだ。
薄闇に沈むカウンターの前に、マネキンのようなミナトが立っている。
その美しい瞳は、まっすぐ千尋を射抜いていた。
まるで、ドアが開く前から見ていたかのように。
千尋の体が一瞬こわばる。
「お待ちしておりました。こちらへ」
それだけ告げ、ミナトはパーティションで区切られた狭い応接スペースへ歩き出す。
千尋は無言で後に続いた。
応接スペースの椅子に、髪の長い無精髭の男――九条斎が座っている。
「それで、今十八週目ですね?」
初対面にもかかわらず、九条は自己紹介もせずに切り出した。
「あ、はい」
千尋はわずかに戸惑い、九条を見る。
「ご決断まで、あと二週間あります。もうお決めになりましたか?」
「……まだです。
決断する前に、もう一度だけお話を伺いたくて」
「どうぞ」
千尋は息を整える。
「先日、ミナトさんから伺いました。
胎児のデュプリカントの実現は極めて困難。ただし、理論上、不可能ではない、と」
「ええ。ただし、二十週目以降の胎児である必要があります」
九条が続けようとした瞬間、千尋が言葉を重ねる。
「前回は、その“困難”について詳しく伺いませんでした。
“不可能ではない”と知っただけで、十分でしたから。
日に日に“この子”への愛情が強くなっていく自分がいます。
それでも、産むことはできません」
九条とミナトは、無言で千尋を見つめている。
「この子の命を、デュプリカントで繋いでいきたい。育てていきたい。
その気持ちは変わりません。
ですが、もしその“困難”によって、“この子”のデュプリカントと幸せに暮らせないとしたら……
それが、まだ決断できない理由です」
九条は一度だけ頷いた。
「では、“困難”についてご説明します。
ご質問は、私が『ご質問は?』と言ってからお願いします」
「わかりました」
九条は淡々と続ける。
――脳は通常、六歳までにほぼ完成すると言われています。
そこには『意識』も『自分』もあります。
しかし、二十週目の胎児の脳には、それがありません。
転写は可能です。
ただし、完成した脳にはないリスクがあります。
二十週目の脳は未完成です。
いわば、最高級の部品がすべて揃った、組み立て前の状態。
『意識』も『自分』も、まだ存在しない。
この時期の脳は、驚くほど柔らかい。
さらに、二十週目の脳には情報の絶縁体――髄鞘が形成されていません。
防御機能が未成熟な状態です。
良い刺激も悪い刺激も、
あなたが隠したい“迷い”でさえ、
乾いた砂が水を吸うように、すべてを取り込みます。
一拍。
――二十週目の胎児脳を転写したデュプリカントはどうなるか。
胎児の脳は、外部刺激がなければ発達できません。
同様に、デュプリカントの成長には、母親の脳波や生体信号を二十四時間リアルタイムで同期し続ける必要があります。
あなたが悲しめば、デュプリカントのシステムも不安定になる。
ノイズを吐き出すかもしれない。絶叫のようなバグを。
あなたは、自分の感情を完全に制御できなくなる可能性があります。
AIに“感情を支配される”逆転現象です。
堕胎したはずの命と、
神経系が“見えないへその緒”で繋がる状態。
九条は千尋をまっすぐ見た。
「では、ご質問を」




