第25話:よしよしの魔法は、永遠に解けない
結婚から数年。王都を離れ、魔獣と人間が共生する「聖域」となった湖畔の村で、エマとアルドルフは穏やかな日々を送っていた。
魔力を失ったはずのアルドルフだが、エマを守るための物理的な強さは衰えるどころか、家事と庭仕事、そして夜の溺愛によってさらに磨きがかかっていた。
ある日の夕暮れ。庭のベンチで、エマは少し影のある表情でアルドルフを見つめていた。
「……アルドルフ様。ずっと、言わなければいけないことがあったんです」
「どうした、エマ。何か欲しいものでもあるのか? 隣国の王冠か、それとも絶滅危惧種の魔獣の卵か?」
相変わらず物騒な提案をする夫に苦笑しながら、エマは静かに首を振った。
「……私、実は……身体があまり強くなくて。……子どもが、できないようなんです。貴方の輝かしい血筋を、私で止めてしまうことになります……」
エマの瞳に涙が溜まる。彼女にとって、愛する人の「家族」を残せないことは、何よりも申し訳ないことだった。
しかし、その言葉を聞いたアルドルフの反応は、エマの予想を遥かに超えるものだった。
「……そうか。ならば、話は簡単だ」
アルドルフは、かつて数万の軍勢を震え上がらせたあの鋭い眼光で、エマを真っ直ぐに見つめた。その表情は、王国の命運を決める軍議の時よりも峻烈で、一切の迷いがない。
「エマ。君が子どもを産めないというのなら、他者に愛を分散させる必要がないということだ。……ならば、私が君の『唯一の子ども』になれば、すべてが解決する」
「……えっ? アルドルフ様、何を……」
エマが困惑する間もなかった。
アルドルフはその場で、ドサリと音を立てて膝をついた。そして、鍛え上げられた大きな体を丸め、エマの膝に顔を埋めると、信じられないような声を漏らしたのだ。
「……あ、あうー。……あぅ、う……」
「……アルドルフ様!? 何をなさっているのですかっ!?」
エマが驚いて立ち上がろうとすると、アルドルフは彼女の腰にがっしりと、それでいて甘えるように抱きついた。見上げれば、そこには「元・王国最強」の面影など微塵もない、虚無と愛欲に溶けきった瞳があった。
「……ぶ、ばぶ……。……ママ……よしよし、ちて……」
彼はエマの手を無理やり取り、自分の頭に乗せた。魔力を失い、エマに甘やかされ続けた数年間で、彼の独占欲は「夫」という枠組みを超え、「生存のすべてをエマに委ねる幼児」の領域へと完全退行してしまったのだ。
「……アルドルフ様、正気に戻ってください! 貴方は騎士団の誇りだった……」
「騎士団など、知らん……。私は、エマの、赤ちゃんだ……。……ばぶ、う……」
アルドルフはエマの服の裾をぎゅっと握りしめ、あざとく首を傾げる。
その筋骨隆々の巨体と、銀髪の美貌、そして「ばぶー」という言語の凄まじい乖離に、エマは一瞬、遠い目をしたが……。
「……はぁ。もう、本当に……仕方がないですね」
エマはあきらめと、そして底なしの慈愛を込めて、彼の髪を優しく撫で始めた。
「……よしよし。いい子ですね、アルドルフちゃん。私が、一生面倒を見てあげますからね」
「……あぅ! ……ば、ばぶー!!」
アルドルフは歓喜の声を上げ、エマの膝の上で幸せそうに身をよじった。
かつて世界を救った聖女と、世界を震撼させた騎士団長。
二人の愛のカタチは、もはや常人には理解できない深淵へと到達してしまったが、村の平和な夕暮れの中に、その「よしよし」の音だけがいつまでも響き渡っていた。




