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五 後悔

「珍しい人ですね。最後にあなたのような人を乗せたのは、随分と前だ」

丸顔で目尻に深く皺が刻まれているその老爺は、興味津々、といった様子で水面を覗き込んでいた。

橋に案内されるはずだったのに、船で渡りたい、と六文銭を差し出したらしい。

橋を渡れるのにわざわざ船に乗りたがる人間は、稀に現れる。

「どうして船に? 橋を渡ることもできたはずでしょう」

「儂は、おしゃべりが好きでの。せっかくなら、喋りながらあの世へ行きたい」

「向こう岸へついたあとでも、いくらでも話などできます」

正直、橋を渡るはずの死者の話は、あまひ聞く気が起きない。

老爺はそれを知ってか知らずか、にやりと笑った。

「儂は、すごい人なんだよ」

「……それは、もう」

「死ぬまで、優等生であった」

そうだろうな、という感想しか出ない。

極楽行きの条件は、生涯、罪を犯さないこと、である。

何も殺さず傷つけず、盗まず、色欲と酒に溺れず、驕らず、自らで命を絶たなければ良い。

質素に暮らし、何が起きようと凪いだ心でいる。それだけで容易に達成できる。私にはできなかったことだ。

「しかし、誰かからみれば、つまらん人生だったんだろう。なあ、儂はどこへ行くのだろう」

老爺は寂しそうに俯いた。

「最初は橋に案内されたのでしょう。ならば、極楽浄土でしょうね」

私には、そう答えることしかできない。

彼は、暗い表情のままだ。

「儂は酒も飲まなかった。浮気もしなかった。争いは極力避けて、自分の言いたいことを殺し、全てを笑って流してきた」

頑張った、褒めて、と続きそうな、子供のような口調で彼は言った。

後悔しているのだろうか。閻魔様の理想とする人生を。

霧のせいか、首筋が冷える。

「この船に乗る方は、生前の自身の罪を話すことが多い。罪とは、人生を形作る転機、なのかもしれません」

言いながら、船に乗った死者の顔を可能な限り思い出してみる。

罪を犯し、その後更生した。罪をを犯したせいで、国に殺された。犯した罪の贖罪に人生を費やした。

そのような話は何度も聞いてきた。

よい人生なのかはさておき、自身の犯した罪をきっかけに、人生の方向が変わる、というのは、ありがちなことだ。

「それでも、罪を犯さないことが、輪廻の輪を外れ、極楽浄土へ行く条件です。あなたは正しいことをした」

「……そうかい」

老爺は私のずっと後ろを眺めるように、目を細めた。

「儂はもう、死んでしまったから、生まれ変わってやり直すこともできん。だろう」

やけに寂しそうな顔をする。

子どものような表情だな、と思った。

どう答えるべきか決めあぐねていると、老爺が私の顔を覗き込むように首を傾けた。

「儂は、後悔してるんだよ。わかるかね」

「後悔しているのはわかります。しかし」

ぴたりと自分の言葉が止まる。

何を言おうとしたのかもわからず、ただ口を開け閉めする。

「なあ、後悔ってなんだと思う」

見かねた老爺が、私に問いかける。

「後になって、ああすればよかったと悔やむことですね。説明はできるが」

「うん」

「確かに、私は真に理解していない」

素直に答えると、老爺はふと笑った。

そして懐に右手を突っ込み、白く丸い何かを取り出し、私に差し出した。

舟を漕ぐ手を止め、手を伸ばして受け取る。

それは想像していたよりも柔らかく、少し指に力を入れるだけで、指先が表面に沈んだ。

「……」

「しらんか。まんじゅうだよ」

「まんじゅう」

発された言葉をそのまま返す。

「甘いよ。儂の好物。あげる」

いたずらっぽく老爺は笑った。

言われて初めて、食べ物かと認識する。

石と川と白い着物以外の物を見たのは、随分と昔のことだ。

「……あの二人に没収されませんでしたか」

奪衣婆と懸衣翁は、死者の着物と持ち物を剥ぎ取り、白い着物一着にしてこちらへ連れてくる。食べ物など、当然回収される。

老爺は笑みを深めた。

「うまく隠して持ってきた。初めて悪いことをしたよ」

「……そうですか」

大方、二人が見逃したのだろうということは察しがついた。

まんじゅうを懐にしまいこみ、再び船を漕ぎ出した。

老爺はため息をついた。

「ただ、まあ、良い気分ではないな。やるべきではなかった」

「……」

「これを、なんというか分かるかね」

「後悔、でしょう」

「これは、罪悪感と呼ぶ」

老爺は口の端をゆがめて、泣きそうなへんな顔で笑った。

下唇を噛んで上を向く。

空はいつ見てもくすんだ灰色だ。

「……何が違うのですか」

「難しいか? そういえば、名前は?」

「ミチビキです。なぜ?」

「そうか。ミチビキ。儂は長田永剛。すまんな、名乗りたくなっただけだ」

ひひひ、と老爺は楽しそうに笑っている。

「名前が、お好きですか」

そう尋ねると、永剛はゆっくりと頷いた。

「好きさ。名前だけじゃない。儂は、自分のことと、自分が見ている世界が好きだ。後悔しているなんて言ったが、悪いことをしなかった自分のことも誇りに思っている。自分の世界を愛することが、第一歩。今わかったよ」

「分かりません」

「自分の内側の話さ。儂がいくら高説を垂れようが、わからぬものはわからぬ。儂は後悔していたよ、確かに。しかし」

永剛はふっと息を吐いた。

振り返ると、向こう岸がぼんやりと見えた。

もう別れの時間も近い。

「罪を犯してまで得るものに価値などない。よくわかった」

「……」

「生きている間に罪など犯さなくてよかったよ、本当に」

無性に腹が立って、舟を漕ぐ手を早めた。

「怒らせてしまったかな」

落ち着き払った声で言われて、さらに苛立ちが増す。

なぜ自分が怒っているのかは、よく分かっている。

「ミチビキ。好きなものはないのかね」

そう問われて、ため息がでた。

いつもよりも力を入れて舟を漕いでいたせいで、息が上がっている。

「……覚えて、いません」

何度も息を吸って吐きながら、必死に手を動かす。

江深淵を渡るときでさえ、ここまで呼吸が荒くなることはない。

「過去のことじゃなくていい。今だよ」

「……」

櫓を握りしめる手が緩んだ。

「……ない」

必死に思い返しても、思いつかなかった。

ぎゅっと下唇をかみしめる。

「うん。ならば、まんじゅうを食べてみるといい」

「……」

「着いたね。運んでくれてありがとう」

いつの間にか、岸のそばまで来ていた。

舟の向きを変え、黙って顎をしゃくると、永剛も大人しく舟から降りた。

「いいかい。食べることとは、幸せに生きることだ。まんじゅうをお食べ。お前はきっと、好きになる」

舟から降りたあと、永剛は私の笠を片手で持ち上げ、私の顔を覗き込んだ。

近くで見ると、目元に皺が多く刻まれていることに気がついた。

皺の重なり方が、導子とよく似ている。

「……まっすぐ進めば、閻魔様のもとへたどり着くでしょう。どのくらいかかるかは覚えていませんが」

永剛の話には答えず、霧の奥を指さすと、永剛は寂しそうに笑った。

「わかった。ありがとう」

「あなたの旅路はそこで終わりでしょうから。あなたが今後も心穏やかに過ごせることを祈っております」

極楽浄土へ行けば、輪廻の輪からは外れる。

そこからは恐らく、緩やかに消失してゆくまでは、彼らは穏やかに過ごす。

どのような場所か、と想像しようとしてみたこともあったが、よくわからなかった。

「それでは、最後まで、良い旅を」

そう言うと、永剛はにやりと笑って、笠をぐっと私の頭に押し付けた。

「ありがとう。またあえる日まで、だな。会えたら、答えを聞かせておくれ」

「……ええ」

手を振ると、永剛も手を振り返して、私に背を向けた。

もう二度と会うことはないだろう。

しかし、それをわざわざ伝えてやる必要もない。

永剛の背中が完全に見えなくなってから、私は舟の中で仰向けに寝転んだ。

勢いをつけすぎたせいか、ぶつけた頭がじわじわと痛む。

灰色の重そうな雲が、ゆっくりと流れている。

長いため息が出た。


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