二 似たものどうし
「……名前は?」
出発した岸が見えなくなってすぐ、私は少年に尋ねた。
少年は驚いたように私を見ている。
「歳は?」
立て続けに尋ねる。
子どもの死者は珍しい。珍しいものには、単純に興味が湧くものである。
「人に名前を聞く時は自分から名乗れって、教わらなかった?」
少年は挑発的な瞳で私を見た。
「……誰から?」
聞き返すと、少年は急におろおろと視線をふらつかせはじめた。
どうやら、想定していなかった返答であったらしい。
「え? それは、お父さんとか、お母さんとか」
「……」
お父さん。お母さん。
男親と、女親のことだ。
時代と人によって大きく変わるその呼び方と、親という概念と結びつけるには、未だに少し時間がかかる。
「……なるほど。親……か」
少年は怪訝そうに私を見つめた。
「なんだ、親、いないの。施設育ち? ってヤツ?」
「親なしで子は生まれないから、親はいます。施設育ち、というのはよくわからないが。親の元で育っている」
「……話、通じる? なんか喋り方、変」
「今通じている。でしょう」
「……」
会話が続かない。
食い気味に否定したものの、少年の言うとおり、どこか会話が通じない感覚がある。
「私はミチビキ。年齢は覚えていません」
初めてミチビキと名乗った。
口に乗せてみると、案外収まりがいい。
「……鈴原幸助。十四歳」
先に名乗ると、少年、もとい幸助はぶっきらぼうに答えた。
「親も年齢も覚えてないくせに、名前は覚えてんの?」
「いいえ。名前は昨日もらいました」
「……変なの。変な人って、よく言われない?」
「あまり言われない」
櫓が水音をたてると、幸助は水面に目を向けた。
ぐっと両腕に力を込めて、舟を進める。
不意に、幸助が私に近づいた。
「どうされました」
問いかけは無視され、頭に手を伸ばされ、そのまま被っていた笠を外された。
笠が外れた私の顔を見て、幸助は意外、というふうに口を開けた。
「抵抗しないの」
「顔を隠しているわけではありませんから」
「そうなの? つまんね。てか、思ったより、美人。女の人なんだな。っていうか、同い年くらいじゃね」
幸助はにこりと笑っている。
女の人、と言われて、自分は女性だった、と思い出した。
自分の性別を認識する瞬間など、死んでからは一度もなかった。生きている間は、そんな瞬間はあっただろうか。
「お母さんも美人だったんだな。いいな。ウチの母さん、いっつも怖い顔するんだよ」
幸助は肩を大げさにすくめてみせた。
不満を言っているのに自慢しているような口調を聞いていると、無性に腹が立ってくる。
「宿題やりなさいとか、連絡なしに遅く帰ってきちゃダメでしょ、とか。俺のために言ってくれてるのはわかるんだけどさ、もうちょい優しく言ってくれたっていいよな」
「……」
「ま、怒られたらいつも、父さんが庇ってくれるんだけどさ。あ、そういやこの間……」
幸助は楽しそうに両親の話をしている。
私は大きく息を吸い込んだ。
「なぜ死んだ?」
彼の話を遮り、私は少し声を張った。
ぴたりと話が止まり、幸助は口を開けたまま私から目を逸らした。
そしてそのまま俯き、しおらしく縮こまった。
ようやく子どもらしくなったか。
親よりも先に死んだ子どもは、賽の河原へ送られる。船で送り届けた子どもたちは、いかなる理由でも変わらず、皆賽の河原へ行った。
賽の河原は、三途の川の、江深淵を渡りきった先にある。
何度か、子どもたちが石を積み上げているのを見たことがある。
ひとつ積んでは母のため、ふたつ積んでは父のため、と唱えながら積み上げられる石の塔を、鬼婆の面を被った執行人が崩して回っていた。
私が連れてきた死者が腹いせに石の塔を蹴り倒すこともあった。
「親が、好きなのでしょう。なぜ死んだ。親よりも子が先にここへ来るのは、罪だ」
幸助の手が震えている。
舟を漕ぐ手を止めて、彼の手から笠を取り、深く被った。
幸助は勢いよく立ち上がった。
舟がぐらりと揺れる。
「なんでお前にそんなこと言われなきゃなんないの?」
私の胸ぐらを掴んで、絞り出すように言葉が紡がれた。
どうやら怒らせてしまったらしい。
「お前だって子どものくせに。どうせお前も親より先に死んでんだろ、そんな奴にそんなこと言われる筋合いなんかねえよ」
堰を切ったように言葉が紡がれる。
胸ぐらを掴む手が強くなる。
首筋に水滴が何度も落ちる。
手のひらはぞっとするほど冷たいのに、こぼれ落ちる雫はまだ温かかった。
「私は石は積んでいない。死ぬ前に、親は先に殺した」
冷静でない相手にも聞こえるように、ゆっくり、はっきりとした声で回答する。
「……はあ?」
ぱっと手が離された。
生きている間のことはほとんど思い出せなくても、その瞬間だけは、鮮明に覚えている。
赤い火の中で黒く焦げていく人間を、どこか他人事のように眺めていた。火をつけたのは、紛れもない私だというのに。
「私よりも先に母親が死んだ。殺した。だから、私よりも先にこの川を渡っています。憎かったから」
「……」
「私とあなたは同じではない」
「……当たり前だろ。違う人だもん」
幸助は鼻水をすすった。
そのまま幸助は目を擦りながら膝を抱え、大人しくなってしまった。
船を再び漕ぎ始める。
「……なあ、ミチビキさん。お母さん殺したことって。誰かに話したことあるの」
不意に、幸助は俯いたまま話しかけてきた。
言われてみれば、私は誰かに自分のことを話したことはなかった。いつも話を聞いているばかりだ。
「いいえ」
「じゃ。秘密なんだ」
「……」
秘密ではない、という言葉は飲み込んだ。
隠しているというつもりはなかったが、話したことがない、というのは、事実上、秘密だったのかもしれない。
そもそも閻魔大王にすべて見透かされているのだから、何を話すも黙っているも同じことだ。
顔を上げた幸助は、目を潤ませながら、なぜか嬉しそうに微笑んだ。
「……父さんと母さん、変になっちゃったんだよ。ゴドウシ様がどうとか、ゴドウシ様が救ってくれる、とか、ずっと言ってて」
幸助は呟くように話しはじめた。
ゴドウシ様。それが何かはわからないが、似たような名前を何度も聞いたことがある。
ナントカ様、と呟きながら変な形に手を組んでいたり、勾玉を握りしめている死者は今まで何度も見たことがあった。
彼らのような死者の子どもが、幸助なのだろう。
「……宗教か」
自分から出た声は、思っていたよりも低かった。
どうやら、似た者どうしであったらしい。
「そうだよ。父さんと母さん、宗教にハマったんだ。神の声を聞く、とかなんとか。手も、こんな変な形に組んでてさ」
「……」
思わず舟を漕ぐ手が止まる。
「宗教の名前は」
櫓を握る手に力がこもる。
頭を冷やそうと、舟を進めた。
幸助は拗ねるように口をとがらせた。
「覚えてないよ。興味がなかった。嫌いだった」
「……そうですか」
「悲しかったんだ。急に俺を見てくれなくなって。親、取られたみたいな。だから宗教が、あの鏡が、憎くて」
幸助は唇を強く噛みしめている。
こちらをちらりとも見ず、丸い鏡に向かい続けている母の背中を思い出した。
母は鏡を通して何を見ていたのか、急に立ち上がって人を呼び寄せ、頭を押さえながら、予言がある、と大真面目な顔で伝えていた。
「……」
「俺、殺されたんだよ。多分」
幸助は無理やり押さえつけるような、低い声で言った。
「や、まあ、自分で死んだんだけどさ。生きてるの嫌になった」
「なぜ?」
「言ったじゃん。親が俺のこと見てくれなくなったんだって。お祈り行きたくないって言ったら、母さん、じゃあもう幸助のご飯作らないよ、とか言ってさあ」
ついに、堪えるように見開かれていた大きな目から、涙がこぼれ落ちた。
おかしな宗教に陶酔した、罪人の、子ども。
そこで、ふと気づく。
「……幸助さん」
「何?」
「六文銭は持っていましたか」
尋ねると、幸助は不思議そうに首を傾げた。
「……何の話?」
服以外に老婆に何かを渡したか、と尋ねれば、彼は首を横に振った。
六文銭を持っていない死者は、自力で川を渡ることになっている。
「……」
本来ならば、規則違反だ。幸助は舟に乗せるべき人間ではなかったのである。
彼らがどのような意図で彼を船に案内したのかは、察せられた。
「奪衣婆さまはなんと?」
「だつ……あ、あのオニババみたいなヤツ?」
「……ええ」
「可哀想にって、それだけ。持ち物は確認されたけど、それだけだった」
大きなため息が出た。
どうすべきかは明白だ。
気づかなかった振りをすることもできるが、責任を追求され、地獄で懲罰を受けるのは勘弁願いたいものだ。
ぴたりと、舟を漕ぐ手を止めた。
「……降りてください」
幸助は驚いたように私を見た。
少しの間視線をふらつかせたあと、幸助は縋り付くように私の腰を掴んだ。
「あの、なんで。俺、ミチビキさんを怒らせることしたかな。胸ぐら掴んだ、のは、謝る」
泣いて泣き止んでを繰り返して腫れた目が、ぐらぐらと揺れている。
「何も怒ってはいません。六文銭を持っていない者は舟には乗れない。それだけです」
言葉を紡ぐごとに、幸助の表情からみるみる色が失われていく。
可哀想だ、と思った。
「……そんな、じゃあ最初から、俺なんか乗せなきゃよかったじゃん」
「そうですね」
最初から歩いて渡っていれば、きっと、こんな顔をすることは無かったのだろう。
やがて、幸助は暗い顔で俯いた。
「酷い。酷い。……けど、もういい」
幸助はゆっくりとした動作で舟を降りた。
舟がぐらつくのをなんとか抑えこむ。
乾いていた彼の着物の白い布地が、川に浸かって濡れた。
ぞっとするほど冷たい水に下半身が浸かっても、彼の表情は少しも変わらなかった。
「そちらの方向へまっすぐ進めば向こう岸です。どの程度かかるかはわからないが、いずれたどり着きます」
向こう岸の方に指をさした。
私の言葉には、もう反応を示さない。
「良い旅を」
せめてもの餞に、と挨拶をすると、幸助は恨めしそうに、じっとりとした視線で私を見た。
「……さようなら」
幸助は低い声でそう言ったあと、私に背を向け、歩き出した。
諦めたのだろう。何もかもを。
やはり彼も子供らしい子供だ、とぼんやり思いながら、船の方向を変えた。




