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一 見送り

「どうも、話を聞いてくれてありがとう」

 導子はすっきりとした顔で笑った。

 ぴたりと岸に船をつけると、彼女はゆっくりとした動作で船から降りた。

 濃い霧がかかっていて、岸の奥の方は全く見えない。

「そのまままっすぐ進めば、閻魔様のところへ着きます。ただ、どのくらいかかるのか、私にはわかりかねる。というより、覚えていない」

 閻魔大王が取り仕切る裁きの場へは、自分が死んだ時の一度しか行ったことがない。

 どのくらい歩いたのかは覚えていないが、化け物が蠢く濁流を泳ぎきった後のあの道のりは、果てしなく長かったような気がする。

 その後、気が触れそうなほど長い間地獄で過ごした苦しみは、思い出したくもない。

「導子さんがどこへ行くのか、地獄ならばどれほどそこを旅するのかもわからない」

「ええ」

 導子は穏やかな顔で頷いた。

 どうやら、地獄へ行く覚悟は既に決まっているらしい。

「それでも。あなたの旅路がよいものであることを願っております」

 それだけ言って、被っている笠を少し持ち上げた。

 初めて目があって、導子が驚いたように口に手を当てた。

「良い旅を」

 にこりと笑ってから、笠を深く被りなおし、再び櫓を握る。

「あ、ちょっと待って」

 再び顔を上げると、導子がなにか言いたげに両手の指をもじもじと動かしている。

「どうされました」

「あの……ちょっと恥ずかしいんだけど」

「……」

「あなたに、私の名前、一文字あげるわ」

 導子は少女のように頬を赤くして言った。

「導子の導くの字をとって、ミチビキ、とか、どうかしら」

 一瞬なんのことか分からなくて、彼女との会話を逡巡する。

 やがて思い出すと、ああ、と声が出た。

「私の名前ですか」

「そう。お名前、忘れたって言ってたでしょう。思い出すまでは新しい名前があったら便利じゃない。ね。亡くなった人をあの世まで導いてくれる、ミチビキさん。どうかしら」

 導子は私の左手を取り、指先で私の手のひらをくすぐりながら話した。

 しわだらけの丸い手が、手のひらの上で何かを描くように動いているのが、どうにもおもしろい。

 どうやら私は彼女に気に入られたらしい、と気がついた。

「……」

「ミチビキさん、私たち、また会えるかしら」

「……会えるかもしれませんが、私とは二度も会わない方がいい。次は橋を渡ってください」

 人間は、全く罪を犯さない人生を送り、極楽浄土へ行くか、地獄で清算し尽くせない罪を犯さない限りは、死後は地獄へ行き、罰を受けて、再び現に生まれ変わる。地獄と現を交互に彷徨い続けることが、いわゆる輪廻転生である。

 輪廻転生など。記憶が消されようと、魂にとってこの上なく負担がかかることだ。

「そうねぇ」

 その事実を知っているのか否か、導子はしみじみと呟くように言った。

「さようなら。大葉導子さん。良い旅を」

 再び挨拶をすると、導子は優しく微笑んで頷いた。

「ええ。あなたも。さようなら」

 導子がくるりと体の向きを変えるのを確認し、船の向きを変更した。

 彼女も今度こそ、まっすぐに歩き始めたのだろう。

 岸の向こうを見ようとしても、霧の中を歩いているであろう彼女の姿は見えなかった。

「……」

 櫓を差し込む度に鳴る水の音を聞きながら、数ヶ月前に船に乗せた老婆の顔を思い出した。

 門倉英子。導子の言っていた、英子ちゃん、である。

 彼女を船に乗せ、江深淵を渡ったのである。

 英子は醜女のような顔で、深山という旧姓を私に教え、大葉導子を地獄に落としてくれ、と頼み込んできた。

 曰く、慰められるたびに、蔑まれ、馬鹿にされている心地になっていたらしい。

 学校卒業後は、結婚はしたものの、自分が蔑まれている、という被害妄想がひどくなり、若い女を殺しては顔の皮を剥がしていたらしい。

 導子を殺せなかったのが心残りだ、と叫びながら、ずぶ濡れになった着物が破れそうなほど、強く拳を握りしめていた。

 荒れ狂う波で暴れる船に揺られながら、哀れな女だと思って見ていた。

 わかった、と嘘をついて彼女を向こう岸まで送り届けた。

「……美人だったのか、あの女は」

 乱れた灰色の髪と、伸びきった爪と、あのギョロリとした厳しい目つきは、美しい時代があったことを微塵も感じさせなかった。やけどのせいではない。

 それと対照的だったのは、導子が馬鹿にした男である。

 彼は数十年前に船に乗った。

 橋を渡れたのに、せっかくだからと六文銭を握りしめて船に乗った、面妖な男であった。

 彼は生まれてから長い間病に伏せており、家族からいないものとして扱われていた、と語っていた。

 妖怪だと言われたのはとても嬉しかった、などと言い出すので、いよいよ頭のおかしな奴だと思った。

 周囲から居ないものとして扱われていたからこそ、たとえ妖怪だと言われても、自分の存在を認知してくれたのが嬉しかったらしい。

 目を輝かせて語る彼を、幸せな男だと思って見ていた。包帯まみれでも、柔和な顔が透けて見えていた。

 あの女の子はミチコちゃんと呼ばれていた、ミチコちゃんに一言お礼を言いたかったけれど、恥ずかしくて何も言わずに立ち去ってしまった、とはにかんでいた。

 その後病状が重くなり、すぐに亡くなってしまったらしい。ミチコちゃんにお礼を言えなかったのが唯一の心残りだ、と寂しそうな顔で話していた。

 饒舌に語る彼を見ていると、彼がわざわざ船に乗り込んできた理由もよくわかる。

 つまり、導子の罪と優しさは、何もかもあべこべだったのである。

「……まあ、知らぬが仏、か」

 船に乗った誰かから教わった言葉を、そのまま呟いてみる。

 知らない方が彼女にとっていいと判断したから、私は嘘をついた。

 私が生きている人間だったなら、死んだ後、舌を抜かれていたのだろうか。

 そこまで考えて頭を振る。

 考えても、意味がない。

 いつの間にか、元の場所へ帰ってきていた。

 奪衣婆と懸衣翁が肩を並べて座っている。二人とも鬼のような見た目をしているが、人間と変わらず、恋愛をして長年連れ添っている夫婦である。

「ただいま戻りました」

「……ああ」

 岸に上がって挨拶をすると、二人はぶっきらぼうに私から目をそらす。

「知らぬが仏、ですね」

 相変わらず晴れない霧を眺めて、独り言のように呟く。

 奪衣婆が怪訝そうに私を見つめた。

「自身が起こした行動が全て裏目に出ていたなんて」

「何が言いたい?」

「……人生など、極楽浄土に行くか地獄へ行くかさえも、すべて運次第のようにも思える」

 つくづく、導子は不運な人間だった。

 何もしらず、幸せに人生を終えたのが幸いだったのかもしれない。

「それこそ知らぬが仏、だな。お前も」

 珍しく、懸衣翁がうすい笑みを浮かべて言った。


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