十二 帰還
レイジが手に入れた実をかじってみたり、暗くなった空を眺めているうちに、気がつくと賽の河原に戻ってきていた。
いつ戻ってきたのかはよく覚えていない。
開いた手のひらにはキイチゴが五粒、乗せられていた。
ずっと握っていたのは覚えている。
捨てるのはなんだか忍びなくて、懐にしまいこんだ。
母の生まれ変わりに会ったら見せてみようか、と思った。
大きく息を吸って、吐き出す。
現は随分と埃っぽい場所だった。
賽の河原の、冷たく水っぽい空気に慣れてしまったせいか、現は少し呼吸がしづらかったような気がする。
久しぶりに舟から櫓を引っ張り出すと、持ち手がいつもよりも冷たかった。
「執行人」
呼びかけられて振り返ると、懸衣翁が立っていた。
横には奪衣婆も立っている。
死者は連れていないようだ。
「休暇はどうでした」
奪衣婆と懸衣翁にとって唯一の、夫婦の二人きりで過ごすことができる時間であったはずだ。
懸衣翁は右手で頭の後ろをかいた。
「二人で温泉へ行った」
温泉。湯に浸かる場所。
温泉が好きだと言っている老人は多かったな、と思い出した。
浸かるだけで、体の疲れが吹き飛んでしまうらしい。
「ところで、聞きたいことがある」
懸衣翁が大真面目な顔で言った。
「……はい」
質問は概ね予想できているものの、神妙な面持ちで尋ねるものだから、こちらも身構えてしまう。
「ミチビキとは、お前の名前か」
やはりそのことか、と詰めていた息が出た。
怒られるだろうか、と櫓をぎゅっと抱きしめる。
「ええ、物好きな死者から名を貰いました。死者から名を訊かれることも多いですから、便宜上使用しているだけだ」
「本名は」
「覚えていません。覚えているのなら、別の名を貰いなどしないでしょう」
彼らから目を逸らし、自分の手を見つめる。
導子からもらった名前が思いの外しっくりきたからか、誰かにミチビキと名乗るたび、それが自分の本名なのではないかという錯覚に陥っていた。
奪衣婆はふと微笑んだ。
「そういうことは早く言え。私たちも、ミチビキと呼んで構わないか」
「は?」
予想外の反応に、思わず顔を上げた。
二人は案外優しい表情をしていた。
「……私に、拒否権などありません。ご存知でしょう」
やっとそれだけ言うと、二人は寂しそうに目を伏せる。
様子がおかしい。
「私のことなどなんと呼んでも構わないが。現でなにか変わったことでもありましたか」
「変わったのはお前の方だろう」
「……」
「見まいとしていたものが、見えてきたのだろう。良い変化だ」
「……お客様です。対応してください」
ずっと向こうに死者が見えて、言われたことから逃げるように指をさした。
奪衣婆と懸衣翁はそれ以上なにも言わず、死者の方へ歩いて行った。
「……」
ため息が出る。
二人の言っていることは、よくわからない。
空を見上げると、いつも通り、灰色に覆われている。
「虹、ないな……」
雨が上がっているはずなのに、虹らしきものが見当たらない。
しばらく目を凝らしたあと、見たことがないものを見つけられないのは当然の話か、と思い直した。
現で虹を見ておけばよかった。
次は、レイジに虹が見たいと伝えてみようか、と考えながら死者を待った。




