十 休暇そのニ
「はい」
美紀は私に、透明な丸い器に入った水を差し出した。
外よりも空気が冷たいが、賽の河原のような、ぞっとするものではない。
「……あ、ありがとう」
器を受け取り、中身を覗き込む。
ただの水だ。
家という存在自体は知っていたものの、入るのも一苦労だった。
なんとか美紀の真似をして履き物を脱ぎ、彼女の後ろをついていった。
ある地点まで来たところで、お客さんはこんなとこまで来ないよ、そこ座っててよ、と美紀は笑っていた。
ちらりと美紀を横目に見ると、美紀は器の淵に下唇をつけ、体の方に器を傾けている。
喉が動くたびに、中の水が減る。
そっくりそのまま真似をすると、水が喉を通って体の中に入っていくのを感じた。
昔も、こんな風に水を摂取していた気がする。
周りを見渡すと、部屋の奥まった場所に黒と金で塗られた箱が見えた。
箱は開いていて、中には金色の何かの像が飾られている。
箱の前に置かれている絵には、見覚えがあった。
「美紀」
「なに?」
「あれ、は、何」
「見たことないの? 仏壇。お嬢様っぽいのに、意外」
美紀は口に手を当てて笑った。
彼女は私の手から器を抜き取り、どこかへ行きながら、近くで見ていいよ、と言った。
近くに寄り、絵を手に取る。
仏壇の奥にいる像の視線が気持ち悪い。
視線から逃げるように、絵と呼ぶにはあまりにも精巧なそれを見た。
丸顔で、目尻に細かい皺が多く刻まれていて、眉が下がった笑い方をする老婆。
思わず息を呑んだ。
「……大葉導子」
随分と前に舟で運んだ、私の名付け親だ。
美紀は導子の身内であったらしい。
「おばあちゃんのこと知ってるの?」
後ろから声をかけられた。
美紀が立ったまま、私を見下ろしている。
「……美紀」
「亡くなったんだよね。随分と前だけどさ。あたしがちっちゃい頃に」
美紀は目を優しく細めた。
私の手の中の写真に、白く細い指がそっと触れる。
「私も、昔。お世話になりまして。名前をもらった」
美紀に写真を手渡した。
彼女は驚いたように口を開けた。
「えっ、そうなんだ」
「導子さんは、自分の罪について語ってくれましたが、私にはよくわからなかった」
「罪? あ、英子さんのこと?」
美紀も英子のことを知っているらしい。
自らと同じ轍を踏ませたくないのなら、自分の過ちを子孫に話しておくということは、ごく自然のことなのかもしれない。
「何て言ってたの?」
美紀は小さく首を傾げる。
私は導子の話を、覚えている限り、できるだけ詳細に話した。
幼い頃、怪我人を差別した話。それをきっかけに更生し、学友を庇っていた話。
すべて話すと、美紀は大きく笑った。
「やだ。ぼけてる。綺麗な思い出みたい。おばあちゃんなのに。英子さん殺したの」
「……え?」
導子は私に、そんなことは、一言も話さなかった。
彼女が人を殺すような人間には見えなかったから、少し意外だった。
「正当防衛だったけど。英子さんが襲い掛かったのを、怖くて肩を押したら転んで、打ちどころが悪くて、そのまま死んだんだって。まあ、認知症だったし、忘れてるのかも」
美紀は絵を元の位置に戻しながら、伏目がちに言った。
「……そんなことを忘れることなど、あるものか」
「認知症だったからね。忘れたほうが幸せだったんだろうし、これでよかったんじゃない」
「……」
導子は案外、長く地獄で苦しむのかもしれない。
罪を犯した理由も、罪を犯したことを覚えているのかどうかも、閻魔大王の前ではもはやどうでも良いことだ。
「もう行きます。水、ありがとう」
私はゆっくりと立ち上がり、美紀の顔を見た。
「……美紀?」
よく見ると、彼女の目は水が張ってきらきらと光を反射させていた。
じっとその彼女の目を覗き込むと、ついにその瞳から雫が落ちた。
「なぜ泣くの」
彼女の頬に手を添えて、涙を掬い取ってやると、ますます涙が流れる。
「なんでもない。おばあちゃん子だったから、まだ思い出すと泣いちゃうの。それだけだよ」
美紀の声は震えている。
今日出会ったばかりの他人に話すことでもない、ということだろうか。
軽く美紀の頭を撫でてから彼女に背を向けると、彼女は私の着物の裾を掴んだ。
「……ね、また会える? 連絡先とか。スマホ、持ってる?」
スマホ。声が届かぬほど遠くにいても意思の疎通ができる、魔法のような道具だ。
若い者はよく、舟に乗りながら、スマホも没収された、とぼやいていた。
「持っていない。しかし、必ずまた会える。約束しましょう」
振り返り、美紀に小指を突き出した。
死者に教わった呪いだ。
美紀は嬉しそうに笑って、彼女の小指を絡ませた。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。指きった」
二人で歌って、小指が離れる。
そのまま手を振って、履き物を履いて外に出た。
強い光と、糸を張り詰めたような音が私を突き刺すように出迎える。
あの不快な音は、木に止まっている生き物が慣らしているらしい。
ため息をついて、歩き出す。
針を千本も飲み込むことはもうしたくないな、と強く思った。




