九 休暇
水面が、何度も波紋を作って揺れている。
着ている着物が、川に入ったかのようにずぶ濡れになっている。
笠から水滴が滑り落ちていくのをぼんやりと見つめていた。
いつもよりも、寒い。
「雨だな」
懸衣翁がいつのまにか私の隣に立っていた。
「……雨」
空から水が落ちてくることを、雨というらしい。
自分が死んでから、雨を初めて見た。
「虹、が、見えるでしょうか」
死者の言葉を思い出して、呟くように言った。
雨が上がると、虹という七色の輪が見えるのだと、いつしか乗せた老婆が教えてくれた。
懸衣翁は私の横に腰掛けた。
水が溜まっているところに尻をつけたらしく、ばしゃりと水が跳ねる音がした。
「執行人、お前、雨は初めてか」
「こちら側へ来てからは」
懸衣翁の真似をして、地面に尻をつけた。
尻が冷たさに包まれたあと、すぐにじっとりと濡れて、眉をしかめた。
少し座る位置をずらそうと右手をつけば、尖った石と擦れたらしく、鋭い小さな痛みが手のひらに走る。
「痛っ」
思わず手を引っ込めると、懸衣翁は意外、というふうな顔で私を見た。
「お前。痛みを感じるのか」
手のひらを確認すると、皮が剥けて赤い点が滲んでいた。
死んで肉体もないはずなのに、皮膚が切れると血が流れる。不思議な話である。
「私は人です。当然、痛みもある」
言っている間に、手のひらからは綺麗さっぱり傷は消えていった。
どのような仕組みかはわからないが、脆いはずの人間が何十年、何百年と地獄で罰を受け続けられるのは、この再生する力のおかげである。
「痛みというものは、与えられれば与えられるだけ、痛いものです」
言いながら、手首をさする。
寒さのせいか首筋が冷えて、身震いをした。
「……よくわかっているな。だから、地獄で与えられる罰は痛みなのだよ」
聞き覚えのある、地面を大きく揺らすような低い声がした。
「閻魔様」
振り返ると、鬼のような面構えの男が腕を組んで立っていた。
私が呼びかけるとほぼ同時に、懸衣翁が勢いよく背筋を伸ばし、地面に両拳をついた。
「お久しゅうございます。閻魔様」
「相変わらずだな。懸衣翁」
「は」
「して、執行人。いや。ミチビキと呼ぶべきか。お前、雨は初めてだな」
「……」
閻魔大王は意地悪い笑みを浮かべている。
舟に乗せた死人が私のことを教えたのだろうか。
懸衣翁は怪訝そうに私を見つめている。
閻魔大王は私に何かを差し出した。
「受け取れ」
へんに冷たい丸いものが私の手の上に乗せられた。
まんじゅうよりも薄くて固く、光を鈍く反射している。円の中には十二個の絵と、長い針と短い針のようなものが見えた。よく見ると、長い針はゆっくりと動いている。
「雨は、仏からの恩赦の日だ。仏様は、まれに人間の死後の世界を見て、涙を流してくださる」
仏様。その正体はよくわからないが、仏様が救ってくださるはず、と呟く死者は多くいた。
彼らは全員地獄へ行き、自分が犯した罪を清算されているはずだ。
今私の身体を濡らすのが、地獄へゆく死者たちに縋られ、ろくな救いも与えない者の涙なのか、と思うと、今すぐに全身の皮膚を張り替えてしまいたくなった。
「それは時計だ。短い針が一周するまで、休暇だ。現へ行ってもらう」
「……休暇」
「好きに過ごせ、ということだ。時計のその出っ張りを押せば、現へ送られる。時が来れば自動でこちらへ戻る」
では、と言い残し、閻魔大王はふっと姿を消した。
好きに過ごせ、と言われても、やりたいことは思いつかない。現には何があるのかわからない。
懸衣翁はゆっくりと立ち上がった。
「どちらへ」
「奪衣婆のところへ。現へ行くときは、いつも一緒にいる。夫婦らしい時間を過ごせるのもこの時だけだからな」
心なしか、声が楽しそうだ。
いってらっしゃいませ、と手を振ると、懸衣翁は私の顔を覗き込んだ。
「お前もくるか」
「もう二度と雨など降らないかもしれない。夫婦水入らずの邪魔はしません」
「……そうか」
懸衣翁は笠ごと私の頭をぐっと押し込み、そのまま背中を向けて立ち去っていった。
「……」
閻魔大王から渡された時計を、じっと眺める。
あまり現へ行くことも乗り気ではないが、この雨からは早く逃れたい。
時計の側面についている小さな出っ張りを強く押し込んだ。
視界が白んでいる。
数秒経つと、世界の輪郭がはっきりと見えてきた。
何かに座っている。賽の河原と違って、随分と暖かい。
こんなにも世界が白いのは、明るすぎるからだ、と気づき始めた。
「あ、お姉さん、起きた」
面妖な服を着た女の子どもが私の顔を覗き込んだ。
「……へんな服」
「何言ってるの? お姉さんも、私と一緒。スカート履いてるじゃない」
言われて確認すると、私も見たこともない服を着ていた。
真っ黒な布が、太ももの上に乗っている。これが、少女の言うスカートらしい。
ここまで素肌が出る服を着るのは、覚えている限りでは初めてだ。
「セーラー服だから、中学生? 高校生? くらいだよね。でも、この辺ってブレザーのとこしかないからな。この辺の子? なんて学校? てか、名前、なんて言うの?」
矢継ぎ早に質問される。
ほとんど言葉の意味がわからなくて黙っていると、目の前の少女は怪訝そうに首を傾げた。
「話せる?」
さらりと揺れる彼女の髪の隙間から漏れる光が眩しくて、目を細めた。
「……話せる。話せます」
「熱中症かもね。今日暑いから。長袖じゃあ、死んじゃうよ。でも昨日まで涼しかったもんね」
「……」
「あたしのうちおいでよ。ちょっと休んで行ったらいいじゃん。一緒にいこ」
ついてこい、と言っているらしい。
一つ頷くと、少女は嬉しそうに笑った。
「あたし、美紀。あなたは?」
「……あ」
舟に乗る死者の名前を多く知っているおかげで、ミチビキ、という名前は名乗るのにやや不自然なことは理解していた。
「……みちこ」
だから、名付け親の名前をそのまま借りることにした。
美紀は驚いたように目を見開いた。
「あたしのおばあちゃんと同じ名前。ね、どういう字を書くの」
「っあ、えっと、みちびく、に、こどものこ」
字はわからないから、咄嗟に彼女の言っていたことを思い出しながら復唱する。
実際にどのような形の文字なのかは知らない。
美紀はますます目を丸くして、頬を赤くしながら飛び跳ねた。
「えー! 字も一緒! 運命、だね!」
私の手を両手で包みながら、美紀は大声で言った。
美紀の手はなぜかじっとりと濡れている。
「ね、早く行こ!」
そのまま手を引っ張られ、つんのめるようにして駆け出した。




