一
生きていた時間の何十倍も何百倍も長く、冷たい河原にいる。
何年生きてたのかももはや覚えていないが、とにかく短い生涯を自らで終わらせて、長い間辛い罰を受けて、この場所で舟頭として働き続けている、というのは覚えている。
時間は、働き始めてから数え始めたが、百年を越えたあたりで数えるのをやめた。
石を一つ拾って川へ投げると、四回跳ねて水の中に沈んだ。
いつしかの乗客から教えてもらった遊びだ。何度も繰り返すうち、随分と上達してしまった。
川はいつも濃く真っ白な霧がかかっていて、向こう岸はおろか、流れが激しい江深淵も、金銀で彩られた橋もよく見えない。
霧のせいで寒いのは、なぜかどうにも慣れない。
ここは、死者が閻魔大王の裁きの場へ渡る場所。つまり、死者が死者の世界へ渡る場所である。
現世の人間たちは、この場所を、三途の川、と呼ぶらしい。
ここ三途の川では、奪衣婆と懸衣翁の二人によって罪の重さを量られた死者が、川を横切り向こう岸へ行く。
罪のない者は橋を渡り、軽い罪を犯した者は流れが緩やかな山水瀬を渡り、重い罪を犯した者は流れが早く危険な江深淵を渡る。
昔の罪人は自らの足で川を渡っていたが、いつからか六文銭を支払えば、舟で渡れるようになった。
舟の話がどうにかして生者に伝わったのか、今の死者のほとんどは六文銭を握りしめ、ここへやってくる。
目深に被った笠を少し上げて水面を覗くと、向こうの自分と目が合った。
「……しかし舟とは、便利な時代になったものだよな」
目の前の自分は、私と全く同じように動くだけで、話しかけてみても反応は返さない。
便利な時代になった、とは言ったものの、いつから渡し舟ができたのかは知らない。私が働き始めるよりも前のことなのかもしれない。
もう一度笠を深く被り、水に浮いている舟を手繰りよせた。
「……執行人」
不意に呼ばれて、ゆっくりと振り返る。
振り返ると、二本の角が生えた老爺と、白い着物を着た老婆を連れて立っていた。
老爺の方は、懸衣翁という名である。妻の奪衣婆とともに、死者の世界の入り口の番人をしている。
老婆はおそらく今回の乗客だ。不安そうな表情を浮かべているが、なんとなく、幸せな人生を送ってきたのだろう、と思った。
執行人、というのは、死後の世界で雇われている元受刑者のことである。
地獄の運営を主に行う執行人は、やってくる死者にとってわかりやすいように、まとめて執行人と呼ばれる。
昔は獄卒と呼ばれていたが、元からいる獄卒と区別するためという便宜上、呼称は変遷していった。
私の他に執行人は多くいるらしいが、彼らを見たこともない。
舟を掴んだまま、黙って懸衣翁を見つめると、彼はやや不満そうに唸った。
「返事くらいせんか。舟を出せ」
「山水瀬ですか」
ゆっくりと立ちあがり、俯いている老人の手を掴んだ。
老人は私の手の冷たさに驚いたのか、肩を大きく震わせた。彼らは死んで肉体は冷えても、魂は温かいままなのだ。
「そうだ。金ももう払ってる」
「懸衣翁さま、随分と俗っぽい言い回しをされるようになりましたね」
老人を舟の方へ誘導しながら、懸衣翁の顔を見ると、彼は鬼らしくぐしゃりと顔を歪めた。
「無駄口を叩くな」
「……お客さん、こちらへ」
老人の手を引いて舟に座らせると、懸衣翁はさっさと踵を返して立ち去ってしまった。
老人が舟に乗ったのを確認し、私も舟の中に座り、櫓をそっと握った。
「では、出発します」
腕に力を込めると、舟は後ろ向きに進み出した。
老人は私の目の前で、不安そうに正座をしている。
濃い霧のせいなのか、三途の川はいつもほんのりと寒い。舟が進みだすと、風が吹いて、余計に首筋が冷えるのである。
私はとっくに慣れてしまったが、ここに来たばかりの死者はこの寒さすらも不安材料なのかもしれない。
「……あの」
不意に、老婆が話しかけてきた。
「どうされました」
「私は地獄へ落ちるのかしら」
膝の上で組まれた手が震えている。
またか、とため息が出る。
「……ほとんど皆、あなたと同じことを尋ねる。きっと、あの二人に言われたのでしょうが、あれは地獄行きかどうかを決定する権限もなければ、判断のやり方も知らない。気にしなくてもよいでしょう」
舟に乗せる人間、特に山水瀬を渡る人間は、自分は地獄に落ちるのか、と尋ねる者が多い。
大抵、奪衣婆と懸衣翁にいやな脅し方をされているせいである。
実際、舟に乗る人間は地獄へ行く場合がほとんどではあるのだが、地獄に落ちる人間全員が、釜茹でにされたり鉄棒に殴られたり、というような辛い罰を長く受けるわけではない。
大抵の人間は、数年間地獄の掃除を課せられたり、数十年拘留される程度で輪廻の輪に戻される。
少なくとも、山水瀬で舟を漕いでいるのだから、目の前の老婆はきっと、気が触れるような罰は受けない。
何にせよ、私よりも痛い思いはしないだろう。
「まだ気になりますか」
「地獄の恐ろしさは、幼い頃からよく教えられてきましたから」
目の前で震えている老婆も、地獄という場所を少々誤解しているようである。
「……どう教えられたのかは知りませんが。地獄は、想像しているほど恐ろしいものではないはずだ。せいぜい、尻を叩かれるくらいでしょう」
水面を眺めながら、呟くように返事をした。
山水瀬は流れも緩く、水の中に何もいないから、舟を進めるのが楽だ。
「閻魔様がどう判断するのか私はわかりかねるから、断言はできませんが。そもそも、あなたが地獄へ行くかどうかも、私には断言できない」
「……ふふ、そうですか。ありがとう」
不安そうな表情は変わらないが、手の震えは止まったようだ。
「優しいお人ですね。あなた、お名前はなんというの」
今度は、彼女は笑顔で私を見た。
ぴたりと手が止まって、舟も前進をやめた。
優しいお人、という言葉が頭を反芻する。初めて言われた。
「……」
顔の輪郭が丸く、目尻に深く皺が刻まれている。
よく笑う人だったのだろう。
「執行人と呼ばれます。ここに来る方は、船頭さん、と呼びます」
「それは、あなた自身のお名前じゃないでしょう」
「私自身の名前など、とうの昔に忘れてしまいました。私が死んだのは随分と前ですから」
そう言うと、彼女は眉をハの字に下げた。
憐れまれていると気がついて、首を傾げた。
生きていた頃も地獄にいた頃もあまり名前を呼ばれた覚えはないし、私にとって名前はさほど重要なものでもなかった。
「いつ亡くなったの」
そう問われて、指を折って数えてみたが、すぐにやめた。
数え出すよりも前のことはわからない。
「随分と前、です。それこそ、時間の感覚も曖昧な頃に」
とにかく長かったことしか覚えていないから、随分と前、としか言いようがない。
生きていた頃は、季節の感覚と、年齢の感覚はあったかもしれない。
ただ、あまりにも短く、遠い記憶のせいで、何歳で死んだのかも、死んだ季節も覚えていなかった。
舟に乗る仕事を始めて百年よりずっと経っているから、自分が死んだのはそれよりも随分と前、である。
彼女は、そう、と呟いて目を伏せた。
「あなたの名前は?」
再び舟を漕ぎ始めると、ざぱ、と水が跳ねる音がした。
彼女は驚いたような表情で顔を上げた。
「私? 私ね、大葉導子。導くに子どもの子で、導子。戒名の方は忘れちゃった、長くって」
彼女、もとい導子は嬉しそうに話しだした。
導くに子どもの子。このような変な言葉が、自分の名前の文字を説明する言葉だというのは最近知った。
私は文字を知らないから、説明されてもどのような字なのかはわからない。
おもむろに振り向くと、霧と水面がどこまでも続いているように見えた。
向こう岸に辿り着くまでは、まだ時間がある。
顔の向きを元に戻し、再び導子に向き合う。
「導子さん。どんな人生でしたか」
導子は、ふたたび驚いたように目を見開いた。
「あなた、そういうことに興味があるようには見えなかったわ」
「そうでしょうか」
舟に乗る人間の人生の話を聞くのは、私にとって、仕事をする上での唯一の娯楽だった。
他の場所で仕事をする執行人たちが頭のねじが外れて消滅していく中、私が永遠とも呼べる長い時間、仕事を続けられているのは、この娯楽のおかげだと言えるだろう。
話を聞きたがるようになるのは、私にとっては必然だった。
じっと導子を見つめると、導子は照れくさそうに笑った。
私の顔は、笠で隠れていて見えないはずである。
「そうねえ、楽しい人生だったわ」
導子はゆるく微笑みながら、少し上を見上げた。




