第14話 始まりの合図
【千堂 里香子】
「なんだかんだで今日は楽しかったですね!あの二人からかい甲斐あったなー。また誘いましょーよ!」
青山さんと諸星さんを無事見送った後、乗り込んだタクシーの中で隣のマネジャーに話しかけた。
「あれ?どうしました?楽しくなかったですか?」
「……楽しかったわよ」
「その割にはあんまりそんなふうに見えないですけど?」
「そんなことない。少し酔ってるだけ」
「……そうですか」
それからタクシーがマンションの前に着くまでの間、マネージャーは私に背を向け、ずっと窓の外を見ていた。9階のボタンを押したエレベーターの中、もう一度声をかけてみる。
「……あの、マネージャー?」
「なに?」
返事はしてくれるけど、目は合わせてくれない。心当たりはある。青山さんじゃないけど、今日はちょっとやり過ぎた。
「いや、別に……」
エレベーターの扉が開き通路へ出る。左に曲がって部屋の前まで着くと、私は鍵を開けて中へと入った。数秒後、背中で鍵をかける音がした。
ガチャリ……
これが始まりの合図。
靴を脱ごうとしていると、後ろからジャケットの右裾をくいくいと引っ張られた。靴を脱ぐのを中断して振り向くと、無理な我慢を重ねて今まさに限界を迎えた顔が、何かを欲しくてたまらなそうにじっと私を見つめていた。
「里香子……」
さっきまでの話しぶりとは全く違う声で彼女が私の名前を呼ぶ。今日も長い呪縛からやっと解放され、ようやく彼女は私の上司をやめた。
この扉を境に、彼女は本当の姿に戻る。
例え二人きりの状況だとしても、この扉の外の世界にいる限り彼女は、マネージャーとしての自分を貫き通す。
この人がこんなにも徹底的に隠し通すようになったのには、過去の苦い経験が原因だった。それは、前の彼女とのこと。
レストランで働く前彼女は、大手の広告代理店で働いていた。何をやらせてもやり手の彼女は、前職でもチームリーダーを任されるほど、女性としては異例なほど期待されていたらしい。だけど、当時付き合っていた後輩の女の子との関係が周りに気づかれてしまうと、それを機に状況は一変したらしい。仲の良かった同僚からは距離を置かれ、上司からはチームリーダーから下りることを打診され、結局、それらのことが原因で、二人の関係も終わりを告げたそうだ。その後、何もかもが嫌になった彼女は会社を退職し、数カ月の休職を経たのち、全く経験のなかったレストラン業界への転職を決めた。そして、そこで私たちは運命的に出会った。
まだ付き合いたての頃『あの時のことは今でも消えない深い傷になっている』と話してくれた。彼女が異常とも言えるほどの厳格なルールを望んだのは、二度と同じ過ちを犯しなくないという強い気持ち。私は彼女が出来るだけ過ごしやすく、心も穏やかでいられるようにいて欲しいと願った。だから、彼女の望む通りに私自身も同様のルールを守るようにした。今だってそのことに文句を言うつもりなんて全くない。
だけど、一つだけいまだに考えてしまうことがある。
もしも、元カノとの関係が誰にもバレていなかったとしたら、今頃どうしていたんだろう?
そしたら、別れる原因も生まれなかっただろうし、今でもその人と一緒にいたんじゃないか。
そうやって私は、彼女がベールを脱ぐこのタイミングで、必ず少しの嫉妬をする。
……だけど、今日はそんなのもういいや。
彼女が私の名前を呼ぶその呼び方だけで、私には彼女の欲しいものが分かる。要望通り、靴を脱ぐよりも先に玄関でキスをあげる。多少乱暴に感じるくらいの仕方で……。すると、マネージャーの時の目尻の上がった瞳は酩酊状態のようにとろけてゆく。
こんなに待ちきれないくらい欲しかったくせにあんなに平然を演じられるなんて、一周回って尊敬すらしてしまう。
「もっと……もっとして……里香子……」
愛を精一杯込めたはずなのに、何も足りてないみたいに彼女はもっと欲しがった。そう、この顔が見たくて私はいつも意地悪をしすぎてしまう。寂しければ寂しかった分、彼女は欲しがりになってくれるから。
「今日の帰りは特に冷たかったね?目も合わせてくれなかったし」
唇に、耳に、首に……キスを続けながら彼女に尋ねた。
「だって、もう限界だったの……あれ以上里香子のこと見てたら、我慢出来なくなりそうだったから……」
そんなことを言われると、我慢したご褒美をもっといっぱいあげたくなってしまう。
「プロの役者の青山さんも、[[rb:伶 > れい]]ちゃんのこの豹変ぶりにはびっくりするだろうね」
「……そう言えば里香子、青山さんとキスしたいって言ってた」
「『したい』じゃなくて『出来る』って言ったんだよ」
「同じでしょ?したいって思ったんでしょ?……あの子、本当に可愛いから……」
「なにそれ!本気で妬いてるの?」
「……悪い?」
「ううん、可愛い」
そう言いながら、玄関の壁に体を押しつけて、足りないとは言わせないほど舌を入れて表情を歪ませた。
「……他にも……まだ怒ってることあるんだから……」
息継ぎの間に文句を言うくせに、服を引っ張ってまだねだってくる。この空間の中でだけ、完全に私だけのものになる彼女がたまらなく愛しくて可愛くて自然と笑えてくる。
「なに笑ってるの?」
すると、彼女の声が本当に不機嫌そうになり、私は焦った。言葉では何も返さずにもう一度キスをしようとする。だけど、彼女はそれをよけ、私の腕の中からするりと抜けて家の中へと上がっていってしまった。気分屋で複雑。きっと、分類したら相当面倒くさい女。だけどそんなところに惹かれる自分もだいぶヤバい。
私を置いてけぼりにして自分の部屋へと入っていく彼女を見て、ようやく私も靴を脱いだ。半分開いたままのドアから覗くと、部屋の奥へと歩きながら両手を左耳に添えピアスを外そうとしている彼女の後ろ姿が見えた。
相変わらずひどく散らかった部屋は、私しか知らない彼女の秘密基地みたい。彼女のそんなだらしないところも、なぜか私には欲をかき立たせるポイントの一つだった。
もたつく手元のせいでまだピアスが外せないらしく、首を傾げながら長く手間取っている。その仕草と首筋がいやらしくて、何度見ていても飽きない。
ようやく外すことに成功すると、今度は服を脱ぎ始めた。電気をつければいいのに間接照明の薄暗い中でゆっくりと脱いでいくから、それがまた私の我慢を邪魔する。
息を飲み、すり抜けるようにドアの隙間から部屋の中へと入る。音を立てずにゆっくりと近づき、すでに下着姿になっていた彼女の肩にキスをした。
「ひゃっ!」
そこまで全く私の気配に気づかず、驚いて声を上げた彼女を後ろから抱きしめた。手の平の全てから伝わるやわらかい肌の感触、かすかに香る上品な香水の香りとアルコールの余韻で、今すぐこの体を堪能したくなった。欲望を彼女の体にすり込ませるように触れていると
「……お風呂入りたい」
それを察して、拒否なのか準備なのか、どっちか分からない絶妙な言い方で彼女は私を制止しようとした。
「じゃあ一緒に入ろ?」
「やだ」
「なんで?」
「里香子の好きな若い体じゃないから」
愛しい人はまた嫌味混じりの嫉妬を口にした。案外今回のご不満は根深いらしい。今日はちょっと度を超えていじめすぎてしまったかもしれない……と少しだけ後悔した。
「私は伶ちゃんのこの体じゃないと興奮しないよ」
耳を唇で愛しながら、太ももに触れた二本の指先で体の側面を胸までなぞりあげていく。
ついさっきまで[[rb:拗 > す]]ねていたのにそれだけで感じてしまったようで、私の左腕の中、彼女は恥ずかしそうに頬を染めて耐えていた。私には、ひと回りも歳上のこの大人の女の人が、心底可愛くてたまらない。
「本当にそう思ってる……?」
「うん。お風呂なんていいから今すぐしたい……」
「……里香子……愛してる」
「私も」
「ちゃんと言ってよ」
そう言わせたくてわざと言わなかった。
「……伶、愛してるよ」
私が呼び捨てで呼ぶと彼女の体はビクッと[[rb:痙攣 > けいれん]]するような反応を見せた。たまにそう呼ばれるのが好きなことも知ってる。
「里香子も脱いでよ……」
振り返って恥ずかしそうにそう言うと、彼女は私の首すじにキスをした。
後ろを向いてシャツを脱ぐと、背中に冷たい手の平の感触を感じた。それに続いて、すぐに頬と唇の感触も感じる。
「……綺麗な背中……」
うっとりとした独り言が小さな声で聞こえた。
「変な[[rb:癖 > へき]]……。今日個室の窓拭きさせたのも絶対私情入ってるでしょ?」
くるりと振り振り向き問いただすと、彼女は思い出し怒りで一気に爆発した。
「あれは助けてあげたんでしょ!仕事中だっていうのに佐伯が里香子に絡みまくるから!」
「あんなのいつものことじゃん?適当にあしらってるから大丈夫だって」
「それにしたってしつこすぎるのよ!毎日毎日『里香子ちゃん、里香子ちゃん』って!……決めた。エリアマネージャーに言って別店舗に飛ばしてやる」
「……まぁ、エリアマネージャーは伶ちゃんが言えばなんでも言う事聞いてくれるもんね」
「なに?その含みのある言い方」
「そのままだよ。伶ちゃん、エリアマネージャーのお気に入りだから」
私もつられて嫌なことを思い出し、なんだか気が削がれてベッドに腰を下ろした。
「何言ってるの?別にそんなことないから」
「こないだなんて視察を言い訳にわざわざ誕生日プレゼント渡しに来てたじゃん」
「……誕生日プレゼント?」
本当に分かっていない様子で聞き返しながら、彼女は私の隣に座った。
「ボールペン、もらってたでしょ?」
「あぁー、あれは『よかったら仕事で使って』ってくれたただのボールペンでしょ。たまたま誕生日が近かったから、『誕生日おめでとう』って言ってもらっただけ」
「……ふぅん。でも、あれただのボールペンじゃないよ?わざわざ名入れまでしたブランドものだよ」
「え?!そうなの!?」
「ほんと抜けてるんだから……」
目が悪いのに頑なに眼鏡をかけないし、見た目のイメージに反してブランドものに興味も知識もない。さらに、仕事以外では注意力がほぼないと言える彼女のことだからどうせ気づいてないとは思ってはいたけど、それでも律儀に毎日ジャケットに差して働いている姿を見るたびに、私はかなりイライラしていた。
「嫌だったの?」
「……別に」
返事とは裏腹に彼女から目をそらす。募ったストレスで素直になれなくなっていた。
「でも、エリアマネジャーは別にレズなわけじゃないし、そもそも結婚してるのよ?」
「それ偽装結婚だって噂知らないの?相手、ゲイ疑惑がある幹部の人だよ?同居もしてないらしいし。てゆうか、それ以前に本人見てれば分かるじゃん!」
「そんなの分かんないわよ!それに、だとしても別に誘われたこともないし、何かされたわけでもないから!」
「店に来るたびめちゃくちゃ触られてるじゃん!」
「触るって……元々ボディタッチが多いタイプなだけでしょ?」
「私は一度も触られたことないけど?」
「……そうなの?」
「伶ちゃんが鈍感すぎてなんにも気づいてないだけで、暗にアプローチされてんだよ。エリアマネージャーの伶ちゃんを見る視線、尋常じゃないくらい普通じゃないんだから!そもそも何かされたとして、仕事人間の伶ちゃんが上司相手にちゃんとはっきり断れんの?」
「そんなの、断るに決まってるでしょ!それは仕事とは関係ないんだから!」
「どうだかね。……とにかく、私は男なんかより同類の女に狙われてる方がよっぽど嫌だけどね」
「……もしかして里香子、そのせいで今日は特にいじわるだったの……?」
「……それもあるかも」
「……ごめんね?私、なんにも気づかなくて……知らずに里香子のこと傷つけてたんだ……」
「ほんとなんっにも気づかないよね」
よせばいいのに、せっかく歩み寄ってくれた彼女に、私は子供じみた嫌味な態度をとってしまった。そのせいで予想通り彼女は再び逆ギレモードへと突入した。
「それにしたって、今日は特にひどかった!私の悪口ばっかり言うし、あの子たちにはまるで里香子が佐伯と付き合ってるような話し方するし!」
「悪口なんて言ってないよ、私はそのまま伶ちゃんの好きなところを話してただけだし!佐伯さんのことだってわざとじゃないし!たまたま勝手に勘違いされただけだし!」
「やだ!」
パンクした彼女はなんとも陳腐な返しで怒鳴った。見た目は誰をも魅了する官能的な大人の女のくせに、5歳児の駄々っ子のような態度に、思わず吹き出してしまうのをこらえた。
「やなのっ!!誰の頭の中でも、里香子が誰かのものになってるなんて絶対嫌っ!!」
もう羞恥心など捨てたようで、ただただ全力で嫉妬を露わにする。切羽詰まったその涙目と、暖色の灯りに照らされた胸の谷間に、私のイラつきはふわっとどこかへ消えてしまった。
「……伶ちゃん、ごめんね」
私は彼女を抱き寄せ、抱きしめてキスをして、素直に謝った。私の腕の中で毒牙の抜けた彼女が尋ねる。
「……ねぇ、どうして付き合ってる人がいるなんて話したの?」
「……なんでかな。せめてそれくらいは言いたくなったのかもしれない。大切な人を大切だって言えない日常に、たまに苦しくなる時があるから……」
私がそう言うと、彼女は申し訳なさそうにうつ向いた。
「……私のせいでごめんね。でもね、今日あの子たち見てたら、私も話せたらなって少し思ったよ……。里香子は私の彼女なんだって、本当は言えたらいいのになって。そうゆう気持ち、私にだってないわけじゃないの……」
「………うん」
それが叶う日が永遠に来なくても、彼女がそう口にしてくれただけで、今の私には十分だった。
彼女の両肩を優しく押してベッドに寝かせ、その上に重なる。あごの下から胸元に向かって肌の匂いを嗅ぎながら、降りてゆく。今さら、やっぱりお風呂に入りたいなんて野暮なことを言い出さないよう、もったいぶらずすぐに快感を与えた。彼女の体の一部を強くもなく弱すぎもしない力で唇で挟むと、感じやすい彼女は恥ずかしさから漏れそうになる声を押し殺していたけど、それでもその目は期待をしていた。
「……里香子……私の我儘に付き合わせて、里香子にも無理を強いてごめんね……」
与えられる快感に身をよじりながら、彼女はまださっきの話の続きを続けた。よほど私が傷ついて見えたのか、だいぶ引きずっていふようだ。
「仕方ないよ、簡単なことじゃないって分かってるし……」
もう片方の胸にも手を伸ばし、指先でいじりながら返事をした。
「……つ……次の休みは……里香子が好きなものなんでも作ってあげるから許して……」
「ほんとに?」
「うん……何が食べたいの……?」
「じゃあ……もつ煮がいいな」
答えながら唇で挟んでいたものを口の中に入れて返事をした。もう我慢をやめた彼女の悦びの声がうるさいくらいに聞こえてきた。
「私のもつ煮、本当に好きだね……そんなに美味しい?」
「うん……世界一美味しいよ……」
私が舌の動きを止めずにそう言うと、淫らな姿で彼女は無邪気に笑った。そのギャップにまた欲を掻き立てられる。もっと美味しいものを求めてもっと下へ降りる。もう一つ大好きな彼女の一部を口に含むと、頭をぎゅうっと抱きしめられた。ベッドの上の方から聞こえてくる息づかいまでが気持ちいい……
今日が昨日に移り変わってゆく。
幸せを閉じ込めて施錠した世界の中を、朝日が昇ってもずっと、私たちは二人だけで漂っていた。




