第10話 理性の壁
【十分前にさかのぼる……】
電話に出ながら座敷を下りていくマネージャーの背中をぼーっと見送っていると、えみりちゃんが背中越しに話しかけてきた。
「……しのぶちゃん、さっきからマネージャーのことえっちな目で見てる」
ぼそぼそとした呟きの中に憎しみが感じられ、焦って振り返る。
「そ、そんなことないよ!そんなつもり全くないから!!」
全否定する私にギリギリまで顔を近づけ、目のそのまた奥を見つめられた。
「本当に?本当は私なんかより、マネージャーみたいな大人の女の人の方がタイプなんじゃないの?」
「……え?」
心当たりが全くないことを突然疑われると、人間というものはあまりに驚いて逆に固まってしまうものらしい……。実体験で学んだ。しかし、そんな余計なことを考えた間が、さらにえみりちゃんの不安を煽ってしまった。
「……やっぱりそうなんだ……。だからいくら誘っても部屋には来てくれないんだ……。私に、大人の色気がないから……」
「違うよ!そのことは理由をさっき話したでしょ!?」
可愛い顔で激情したかと思ったら今度は思い込みが勝手に進み、その声はどんどんか細く弱くなっていった。こちらに向けていた体は誰もいなくなった正面を向いてしまい、掘りごたつだというのに完全に足を抜いて座敷の上で三角座りをすると、抱いた膝に顔を埋め、一方的に会話を遮断されてしまった。
そうなってしまっては何も出来ない。私は、丸まったアルマジロのようになってしまったえみりちゃんのうなじに視線を落とし、どうしたものかと考え込んだ。
小さな肩が小さく震えている。
……もしかして泣いてる?
今泣かれるのはかなりまずいと思い、緊急事態ゆえ、折りたたまれていた体を強引にこじ開けた。
「えみりちゃん!」
覗き込んだ瞳には、一度瞬きをしたらこぼれてしまいほうなほどの涙が留まっていた。
やっかいだけど、可哀想だけど、バカみたいに可愛い!可愛いすぎて死ぬ!!!
「……あ、あのさ、えみりちゃん、今日は珍しくかなり酔ってるよね……?」
「全っ然酔ってないし!!」
いやいや、全っ然ってことは絶対的にないよ……。あきらかに酒に飲まれ気味のえみりちゃんは、ぷいっと私から顔を背け、当てつけのようにわざとらしいくらいの距離を取った。
しまった……。
酔っ払いに酔ってるかなんて、何よりも聞いてはいけないNGワードだった……。
相当ご機嫌ナナメだし、まともに会話も出来なくなってる。どうして突然こんなことに……
そう言えばさっき、千堂さんの恋話を聞きながら、えみりちゃんはつられるように千堂さんと同じペースで景気よく飲んでいた。確かに歳の割にはお酒は強い方だけど、酒豪の千堂さんについていってシラフでいられるわけがない。そっか、原因はあれか……
横目でえみりちゃんを見ると、いじけたようにまたビールに手を伸ばしている。てゆうか、どんだけずっとビールなの!?2杯目からみんな別のお酒を頼む中、えみりちゃんは今も一人ずっとビールだ。
おぼつかない華奢な腕で、似つかわしくないごついジョッキを持ち上げ、あごを上げて残ったビールを飲み干していく……。私は誰もいないことをいいことにとりあえずその姿に思う存分見とれた。本当のところ、どこまでいっても永遠にビール党なところも、私的にはかなり萌えるポイントだったりする。
それにしても酔い方がいつもと違う。
やっぱりえみりちゃんと言えど、二人の関係がバレてはいけないというプレッシャーに追い詰められるところがあったのかもしれない。それに加えて私がボロを出してばっかりだから、その尻拭いの負担もかけてしまった。そうだ、こんなことになったのは全部私のせいじゃないか!!
自分の不甲斐なさに、テーブルの上の萎れたポテトフライを意味なく見つめていた。すると、目の前に突然えみりちゃんの顔がずいっと現れた。
「ねぇ……しのぶちゃん?」
「な、なに……?」
「……キスして?」
「だっ!?何言ってるの!?えみりちゃん!!」
「……やっぱり私とじゃ嫌なの?マネージャーがいいの?」
瞬きもせず、物欲しげな顔で見てくる。
「そうじゃなくて!ここ居酒屋だし、回りに人いっぱいいるし!いつ二人が戻ってくるか分からないでしょ?」
「……なんか、もう全部どうでもよくなっちゃった……」
えーー??!そりゃないでしょ!!
あんなに頑張ってきたのに!!
「私のこと好き……?」
「……好きに決まってるよ……」
「マネージャーよりも?」
「当たり前でしょ!マネージャーのことはそんなふうに思ったことないよ!」
私が言い切ってもどこか疑った目をしている。
「じゃあ、今キスしてくれたら全部信じてあげる」
「そんな……!」
「ほら見て、しのぶちゃん!今座敷の人たちちょうどみんな帰ったよ?今なら店員さんもいないし、大丈夫!」
そう言われて一応周りを見渡す。
確かに、なんておあつらえ向きなのかってくらい、私たちのいる座敷だけ人っこ一人いない。私たちを見ているのは、片付けられてないグラスやお皿、乱れた座布団たちだけだ。
「ね?」
まるで悪い天使みたいなたった一文字だけの余韻が、私の脳を痺れさせる。心が少し揺れ始めていることを見透かすように、えみりちゃんは自慢げに魅力的に笑った。
だめだ……だめだって!!可愛すぎるって!!
すぎるどころの話じゃないって!!
普段から常に可愛いけど、酔うとまた新しい可愛さが出てくるんだ……。そんなの見せられたら私の方が泥酔しそうになる。
「でっ、でも、さっきしたばっかりだしさ……」
私はそれでもなんとか最後の力をふり絞って抗った。
「……しのぶちゃんはあれで足りたんだ?私は全然足りてない。むしろあれのせいで、我慢出来なくなっちゃってる……。お願い……ちょっとだけでもダメ……?」
……ついに私の中の理性の壁は音を立てて崩れた。
やめてー!!
やめてくださいっ!!!!
言ったって、私だってかなり酔ってしまっているのだから!!そんなに可愛いくねだったりしないで!!今いる場所とか、バレちゃうとか、どうでもよくなっちゃうよっ!!バカっ!!
「し、したい気持ちは山々なんだけど……ほんとに、いつマネージャーたちが帰ってくるか分からなくて危険だし……ね?だから……」
欲望と理性を戦わせすぎてなんだか頭痛までしてきた。
「うん!だから、早くしよ!」
えみりちゃんはその言葉で引き金を引いて、煮えきらない私にトドメを刺した。
目の前でゆっくりと目を閉じたえみりちゃんの肩を私はそっと掴んで覚悟を決めた。




