第8話 サイバーカスケードの果てに
久しぶりに部屋の外に出た楼はカレーライスをレンジで温めると、貪るように食べ始めた。最近ろくに食べていなかったのだ。その惚れ惚れする食べっぷりに友里が目を見張る。
カレーライスを食べながらトロールをチェックした。今度はクソエアリプをした人が石化したらしい。このSNSはとことん人様を石化させたいのか。
玄関のインターフォンが鳴った。友里が出ると瑠々だったらしく、手紙を預かって持ってきた。実質広告の裏紙なのだが。
「楼。これ瑠々ちゃんから。テーブルに置いとくね」
「ふぁい」
カレーライスを頬張りながら広告の裏紙を開く。
結論から言うと、楼はカレーライスを口から噴射した。
楼が慌てて家の外に飛び出す。
テーブルの上のカレーまみれになった広告の裏紙には雑な字でこう書かれていた。
『以前撮影した楼ちゃんの全裸(前)トロールに載せました。ご愁傷様。 瑠々』
「おい! 瑠々! 開けろ!」
瑠々宅の玄関ドアを必死に開けようとする楼。自らの純潔がかかっているのだ。
楼宅ほどではないが大きく、水色の外壁が特徴の可愛らしい家。ただ庭は草がボーボーで手入れされていないのが直観で解ってしまうのが残念だ。
玄関ドアが勢いよく開き、楼は思わず吹っ飛ぶ。瑠々は楼の眼前に仁王立ちして、
「残念でした楼ちゃん。あんたはこれからあたしに一生をかけて償うのよ?」
「はぁ? 償うってなにをだよ!」
身を起こしながら嚙みつくように訊いた。瑠々は悠然と楼を見下ろしている。
「あたしをDMでからかったことよ! あの破廉恥画像の削除に何十年かかるかしらん♪」
「だから気付けよ! お前極端なの!」
あくまで瑠々は聞く耳を持たないらしい。
「まあ? もし楼ちゃんが謝罪するなら削除してあげないこともないかも知れないよ? さてどんな風に書かれてるかなあ……?」
「てめえ……!」
楼はジーンズのポケットからスマホを取り出し、トロールを開く。……しかし。無い。どこを探しても【せかいのるーる】が見つからない。
「あ、あれ? おかしいな。フォローしてたはずなのに!」
楼の頭に一つの可能性が思い浮かぶ。
「……ま、まさか瑠々!」
「えへへー! 【勇者メソテース】はブロックしましたー! ざまみろ惨めな勇者!」
「なに――っ⁉ てめえろくな死にかたしねえぞ!」
瑠々は舌をべろりと出して勝利の高笑い。
「ざーんねーんでーしたー! これじゃどんな書かれかたされてるかも解んないねえ!」
「このっ!」
立ち上がった楼は精一杯背伸びして瑠々の胸ぐらを摑むが、つま先立ちでふらふらと安定しない。
「うわ、うわ。おっとと……」
そんな幼馴染に瑠々は蔑みの笑みを向けた。
「楼ちゃんってホント可愛いなあ。幼馴染の胸ぐらも摑めないなんて」
瑠々は楼の身体を抱きかかえると——家のなかに姿を消した。
「は、放せ! さもなくばお前の身体をオレンジジュースでべとべとにしてしまうぞ!」
「あーはいはい。それは可愛いことで」
瑠々の頭をぽかぽか殴りながら、楼は瑠々宅のリビングルームに案内される。
「ここがあたしんちね。結構広いでしょー」
「ゴミ屋敷並みに散らかってるけど」
瑠々は近くのソファに楼を放り投げる。
「ぶわっぷ!」
派手にバウンドし、一回転してソファと壁の隙間に落ちてしまう。天井を向いたままかっちりはまって身動きが取れない。
「うわーん助けてー!」
「あはは! こりゃいいわ。楼ちゃんしばらくそこで反省ね」
「そんなぁーっ!」
手足をばたつかせてもがく楼を瑠々は楽しげに見つめる。
ソファにどかっと腰を下ろした瑠々は、テレビのリモコンを操作し、チャンネルを回した。サイドテーブルの上に袋を広げて置いてあったポテトチップスをひとつまみ。
「なんか面白いのやってないかなー」
「瑠々ー! 意地悪しないでよー! お願い瑠々様ー!」
「様付けてもダメ」
楼が足をばたこらばたこらするたびに瑠々の背もたれが揺れる。
「ちょっと! 静かにして!」
『速報です。「悪意のある返信を許さない」などと称したデモが起こっています。現場から中継です』
テレビにはクソリプ魔を糾弾するデモが起こっている様子が流れる。
『このデモ隊はSNSで集まったとのことです。そのデモ隊が……! 街なかを練り歩いています!』
リポーターが緊迫した面持ちで中継している。
「うわ。これすごい!」
「……! 瑠々! 観せてくれ!」
「だーめ! 頭冷やしてなさい」
「瑠々!」
「……しょうがないなぁ。じゃあ……あたしのためになんでもする? 今年のクリスマスプレゼントになんか買って欲しいんだけど」
一拍間を置いて、楼は宣言する。
「……誓う! プレゼントでもなんでも買ってやる!」
瑠々は溜息を吐くと、立ち上がって伸びをした。楼がばたつかせていた片足を摑んで引っ張り上げる。
「うわわわわああ!」
おかしな悲鳴を上げてソファと壁の隙間から脱出した。逆さづりにされた楼はそのままの体勢でテレビを凝視。
「こ、これは……!」
群衆が『クソリプ魔は滅び去れ‼』という大きな横断幕を張り、口々に反クソリプ魔を叫びながら道路を練り歩いている。
『クソリプ魔は要らなーい‼』
『SNSに平和をーっ‼』
楼は愕然とした。
クソリプ魔の石化からディミオスの登場で、社会には大きな分断が生じていたのだ。
「——なんて素敵なデモなの!」
瑠々は楼の片足を持ってぶら下げたまま歓声を上げた。
楼は少しうんざりしながら苦しい体勢で瑠々を見る。
「どこがだよ」
「だってクソリプ魔なんて要らないじゃん! 楼ちゃんはそんなことも解らないの? お子ちゃまだねー」
「確かに一見解りやすく聞こえるけど、危険な論だと思うね。どんな人間であっても尊重されるべきだ。それがたとえクソリプ魔であろうと」
瑠々は一瞬顔を歪めた。そして楼をソファに投げ飛ばす。
「ぎゃっ⁉」
「楼ちゃんはお馬鹿さんだねえ。クソリプ魔っていうのはね? 他人に害をなす出来損ないの人間なの。いい? あいつらがいるせいで他の人の……場合によっては命さえ危ないんだよ?」
楼は咳込みながら身を起こした。瑠々は不気味な笑みを浮かべて続ける。
「楼ちゃんの『どんな人間であっても尊重されるべき』っていう論だけど。悪人まで尊重して結果善人が損失を被る……こんな馬鹿なことがあるかなあ?」
「それがこの世の仕組みであるべきだとオレは考える。たとえ善人が少しくらい損失を被ろうとも。それが解らないのなら。……お前は大馬鹿者だ」
「……この石頭‼」
瑠々はサイドテーブルを蹴り上げた。ポテトチップスが飛び散り、楼はそれを無表情で眺める。
「クソリプ魔なんて要らないよ‼ あんなゴミども必要ない‼」
「どんな人間でも必要とされるべきだ。そもそも要る・要らないに拘る意味が解らない」
テレビからデモを支持する民衆の拍手が聞こえてきた。
デモ隊はなおもクソリプ魔に対する罵声を発しながら練り歩く。
『奴らはこの世に不要な人間だー‼』
『奴らがいて幸せになった人間がいたかー⁉』
瑠々は楼の足を踏みつけた。
「痛っ――⁉」
楼が短く悲鳴を上げたところでみぞおちに拳を叩きこむ。その場に倒れ噎せ返る楼。
「あたしはディミオスに賛成だ‼ このデモにも賛成‼」
「う……!」
瑠々は茶色の髪の毛をわしゃわしゃと搔きむしったあと、床に落ちていたリモコンを拾い、壁に向かって投げ飛ばした。電池カバーが外れ、なかの電池がぶちまけられた。
みぞおちを押さえて苦しさに顔を歪める楼に、瞋恚に染まった瑠々が目を見開く。その両の瞳が一瞬光ったように見えた。
「はぁっ……‼」
怒りのエネルギーを発散して振り向きざまにテレビを見た瑠々の目に、幼い男の子がデモ隊に石のような物を投げる様子が飛び込む。投げられたそれはデモ隊の頭に当たり――
もはやヘイトスピーチとも判断できるデモの現場から悲鳴が上がった。
デモ隊は暴徒と化し、男の子を襲う。
「ちょ、ちょっとちょっと!」
「ど、どうしたの……?」
近くにいた母親らしき人物が身体を男の子の上に覆い被せた。デモ隊はその二人になだれ込んで呑み込む。たちまち近くの警官たちが止めに入った。
楼は立ち上がり、青い顔をした瑠々に話しかけるが――すぐさま状況を察した。
直後。発砲音が二発聞こえた。
恐らく幼いゆえの正義感からの行動。このデモで男の子とその母親は命を落とし、デモ参加者も一人が死亡した。
サイバーカスケードとは「集団極性化」と言い換えられる。
コミュニティのなかで同じ考えや意見を持った人間たちが議論し合った結果、「先鋭化(=過激化)」してしまう現象をいう。
この小説の場合は「クソリプ魔は許せない!」という思想を持った者たちがSNSで結託し、先鋭化してしまった。
なかにはポジティブなサイバーカスケードもあるが、この小説のサイバーカスケードのように最悪級なものもあるのだ。もっともこの小説はフィクションであり、実際に犠牲者は出ていないが。
サイバーカスケードに陥らないためには信頼できる情報から行動を決定することや、「いま自分はサイバーカスケードに陥っているのではないか」と常に自分を疑い、セルフチェックを行うことなどが重要である。